病院・診療所の「医師」は、巷ではその格式は地に落ち「医者」といいます。「医者」とは医をもっぱらナリワイにする者という意味である。「町医者」、「ながれ医者、」「はぐれ医者」、「やぶ医者」、「医者さがし」、「医者のたまご」、「医者の家系」とか、いろいろな使い方ができて便利である。
一般に「医者」に対する偏見は、まだ根強く、若い世代に医者のイメージを聞いても、はじめに「金持ち」、次に「偉い」、そして「頭がいい」と答える。3つそろった医者を私は見たことがない。金持ちの医者は、社会的には偉くないし頭もイカレテいる。地位のある先生は、金もないし頭のキレアジももう一つ。頭のいい先生は、ほとんどが貧乏で、社会的に偉いものもいれば、毎日秘書に叱られている@奴隷院長もいる。
また、「医師とは言えないが、一応、医を道にしている」という意味で、敬意を表した言い方に、「お医者さん」というのがある。上に「お」、下に「さん」の敬語をつけて、真ん中の下品な単語をサンドイッチにしている。なかなか食べやすそうな感じの単語ではあるね。
さて、医者を「せんせい」と呼ぶようになったのは、いつごろからか、歴史上定かでないが、いわゆる学校の「先生」ではない。医療業界では「せんせ」とか、「せんせっ」とか「せんせぇ」と発音が変化する。指示代名詞をつけるときは、「あのせんせ」とか、「例のせんせぇ」、「このせんせ」、「わたしのせんせー」、「あらせんせ」というふうに使います。
また、医療職員に言わせると、「もう仕事の時間ですよ」、「なんで早く言ってくれないの」、「いい加減にしてください」「これ忘れないでね」とか、いろいろな場面でのニュアンスが、この「せ・ん・せ・い!」という一言で表現できます。
外を歩いていて「せんせい」といえば、たいがい「なんのせんせ?」「どこのせんせ?」と聞かれる。たいした「せんせ」でなければ、これまた恥ずかしいもので、くつろいで大衆の集まる居酒屋に安心して行けない。誰かと連れだって飲みに行くと、すぐ医者であることがバレル。話の切り出しや、間合いに「せんせい」「せんせ」を連発するからである。たまたま知り合った人には、病気のことをネホリハホリ聞かれる。いちいち説明?インフォームドコンセントしないといけないのでしょうか。ほんと酔ってられないね。
むかしは、「せんせい」を顔の真ん中にぶら下げて店に入ると、サービスがよかった。ニコニコだ。話題も弾む。ハーレムですかっという感じでしたね。
最近は、エムスリーをはじめとするブログの御かげで、どこの店も「せんせい」の社会的程度、財布の程度、頭の程度が知れ渡ってきたので、サービスは中等度で、IT関連企業のハブリのイイ連中が入って来ると、席を譲らされたりなんかしてませんかね。
そこで、「せんせい」であることを隠して歩くと、たいへん心地よい。支払いも心持ち安くなる。値切ってよし、下品に笑ってよし。ときには、フテクサレテもいい。普通の会話で楽しみ、ごく普通に扱われて笑われて、ストレスが解消できる。医者嫌いの医者にとって、心が休まる時間は、何といっても「医者でない時間」ではありませんか。
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「それじゃ、せんせっ~!おさきにぃ~。」
チャキチャキなーすの甲高い声と満面のニコニコ顔が、ステーションの入り口から手を振りながら去っていった。暑気払いの季節。今日は久々の病院挙げての飲み会だ。不吉な予感が。。。
もう何十年も前になるが、昔見たある舞台劇。ストーリーの概略はこうだ。。。
男と女が、どこかの○テ○のようなところだったと思うが、くつろいで話しをしている。
「今日はどうだった?」と、女が男にさりげなく聞く。
「ああ。面白かったよ。君があんなに笑うなんて思わなかったよ。」と、男は少し苛立ちながら答えた。
「あら。あなただってニヤニヤしてたじゃない。」と、女が男をからかう。
「してないよ。君が笑うたびにはずかしかったんだ。あんなに陽気にね。」
「でも、久し振りね。あなたとこうして会うなんて。以前は仕事をごまかして、よく会いにきてくれたのに。」
「そうだよ。上を捲くのは大変なんだ。ところで、君のところの社長は駄目だね。ありゃ。馬鹿だよ。どー見ても。」
「あら。あなたが紹介してくれたんじゃなかったの。わたしも、はじめはあーゆう横柄丸出しは嫌だったけど、きっとなんかいいチャンスあるんじゃないかと我慢してたの。でもやっと最近分かったてきたわ。単なる○好きの○○○だって。。。」
秘かな二人だけの会話が続く。
「でも、君もいい加減、整理したら?」と、男が切り出す。
「何を?」
「雄猫だよ」
「あら、言うわね。あなたこそ、例のメスブ○どうしたの。捨てたの?それともまだ、飼ってるの?」と、女がくい下がる。
二人舞台は、かなりきわどい会話へと進んでいく。私たち観客は、彼ら二人の会話をにやにやしながらみている。ああ、これはきっと予期しない結末がくるはず。。。私たち観客は、かたずをのんで喰い入るようにみつめている。
***********
今日はいったい!!何の話っすか。ヨルドラサイトですか?火曜サスペンスですか?。。。ここは医師専用サイトじゃなかったんですか。
たしかに今日は火曜日ですが、落ち着いて。もう少し聞いてくださいな。きっと面白いから。
***********
ホ○ルの一室へもどる。。。
「私のこと、あなたの○○にバラしてもいいのね。」
「へっ!やれるもんならやってみろ。こっちにも手はあるぞ。」
「そう。じゃ。。。あなたの首を絞めて、わたしも死ぬわ。。。」
女が男のバンドを振りかざし、男はストッキングで女の首をかけようとした瞬間だった。壁にかかった薄い赤いカーテンが、ゆっくりと上がりはじめるのだった。。。舞台の幕が上がるようにゆっくりと。
な、なんだぁ?!。。。あし?足が見えてきたではないか。へぇっ!?。。。それも一つじゃない。たくさん並んでいる。。。
二人は喧嘩を忘れて壁の奥に釘付けだ。観客である私も、もちろん唖然。
40-50名の観客が、壁の向こうの階段状の観客席に整然と座っているではないか。無言で食い入るようにこちらを見ているのだった。。。
かくして、もうひとつの向かい側の観客席から、それまでの二人の秘密の会話やなりゆき、そして私たち観客の表情までも、すべて見られていたのだった。。。私たちは騙されたのだ。。。!
さて、医師専用サイトにもどります。
ナースステーションの会話。。。
「せんせ。いつになったら告知するんですか。」
「あー、304号室ね。ありゃ。どーしよーもないよ。ニンチだからね。それにメタメタだし。」
「抗がん剤はやっぱり行くんですか。」
「上に言われるまま行ったら、死んじゃうよ」。。。
入院中の患者様が、ステーションの前を点滴棒を押しながら歩いておりまする。ときどき立ち止まっておられまするぞ。
階段の踊り場の会話。。。
「じゃ、君は見ごろ死にする気か。」と、オーベン。
「じゃ、先生は抗がん剤で殺す気ですか。白血球がすでに2500を切ってます。」と、反抗期のネーベン。。。。上の階の待合椅子にやり取りが響いておりまする。10人座っておりまする。
手術室の会話。。。
「いや、俺もね。なりたての頃は、焼き肉が喰えなかったよ。」と、オーベン。
「なんでですか。先輩っ!。」と、コベン。
「電メスの煙が焼き肉の匂いだからね。おい。きちんと糸を絞めろよ。」
「はいっ。アブラだらけでメタボな腹は縫いにくいですね。で、せんぱいっ!。好物の焼き肉はナニ肉ですか。」
「決まってるだろ。黒豚さ。」
「ところで、腹膜メタは処理しなかったんですね。」
「当たり前だ。骨メタステージ4だよ。よし、終わるぞ。(麻酔医)○○先生。ありがとうございました。。。まだ覚めてないだろね」。。。手術台の上の患者様は、気道は確保されたままですが、縫い終わる頃にもうウッスラ麻酔から覚めています。耳は塞がれておりませぬ。
ナースステーションでの会話、時には職員同士の言い合い、病気のこと、日常的なあまり聞きたくない冗談や笑い、術中の饒舌やどなり合いが、「二入芝居」のように誰かに聞かれていることがある。
ビールがうまい季節。。。うしろのテーブルが銀○員の反省会らしきビアガーデン、ふすま一枚で隔てられた座敷宴会場、奥のコーナーの笑い声と説教が出口まで聞こえてくる居酒屋などでの、医療業界ゾンビ集団暑気払いには、クレグレモ「もう一つの観客席」をお忘れなきよう、心して酔われたし。。。「別室の恐怖」の唯一の救いは、それがテレビ番組であったということかもしれない。。。
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「もーもたろさん、ももたろさん♪
お腰につけた きび団子
一つ私に下さいなー♪」
「あーげましょー あげましょおー♪
これから鬼のせいばいにぃー
ついてくるなら あげましょおー」
キジと猿と犬が、きび団子欲しさに声をかけると、桃太郎は、「わたしについてくるならあげましょう」と、言う。キジや猿や犬は、なーんだついて行きさえすればいいのだ、きび団子はもうゲットしたようなものとばかり、さっそく声をそろえて言うのだった。
「行きましょうー。行きましょう。」
「して、桃太郎さん。どこに、何をしに行くのですか?」と、みなが聞く。
もう一度よーく聞いてみると、何やら、山奥の鬼を成敗しに行くらしい。。。
キジと猿と犬は、きび団子を食べながら、ふとお互いの顔を見合わせた。
「オニ!!?。。。」
はたして大丈夫でしょうか。相手は鬼です。。。きび団子を食べた胃袋もろとも、頭から食べられてしまうかもしれないのです。。。きび団子を食べてしまったキジと猿と犬は、いまさら「やっぱりやめた」と言えません。「ついてくるならあげましょう」という約束ですから。
さて、仕方なくついていくことになる。鬼が出なければこれ幸い。桃太郎が鬼をやっつけてくれれば、めでたし、めでたし。。。です。ヤバクなれば、みな逃げればよいのです。桃太郎だって逃げないといけないときはあるだろうに。
桃太郎が言う「ついてくる」という意味は当然、鬼の成敗に「協力する」と言うことです。桃太郎の言い分は、鬼が目の前に表れたら、みな一緒に力をあわせて「戦う」という意味です。
さて、きび団子と命。。。どっちが大切でしょう。。。きび団子ごときで、命を落とすのはいやだ。。。「ついてくるなら」とは聞いたが、「一緒に命をかけて戦う」などとは契約していないのです。「(後ろに)ついて来さえすればあげましょう」と、当然聞こえたわけです。。。
鬼が現れたら、キジと猿と犬は逃げても良いのでしょうか、悪いのでしょうか。。。?
かくして、キジと猿と犬たちは、ほんとうに鬼が目の前に現れたとき、実は、薄情にも桃太郎を残して逃げてしまった。。。
。。。というのがほんとうの物語だったのかもしれない。桃太郎の失敗です。どっちがどっちをだましたのでしょう。
キジと猿と犬たちは、確かに「ついてくる」約束は果たしたのだが、鬼と戦うかどうかは、気持ちの問題だと勝手に思っていたのです。
して、今日もいったい何の話ですか。童話サイトですか。ここは医療を担う医師サイトじゃありませんか。
桃太郎は医療経営サイド、キジ・猿・犬は医師をはじめとする医療従事者と読み替えると、昨今の医療崩壊における「医師たちの集団自決」の本質が見えて来ます。きび団子は?。。「給料」です。「ついていく」というのは、「働く」ということです。「鬼」は?。。。「やっかいな病気」かな。それとも「病院再建、崩壊した地域医療」、最近は、「ペイシェントモンスター」とか、「クレーマーギャング」かもしれない。
きび団子だけで働くと、とてつもなく大きい「鬼」を相手に戦うのはたいへん辛い。
「なんで、きちんとやっているのに、文句を言われないといけないのか」
「潰れかけた病院で、売上売上と毎日責められ、ときには訴訟におびえながら、こき使われないといけないのか」ということになる。逃げたくなるわけです。逃げてもいいわけです。あとは経営サイドの問題です。
「医師不足の僻地に一定期間行くという条件で、学生を医学部に入学させる」こともまた、桃太郎の失敗の繰り返しになるかもしれない。
きび団子をチラツカセル前に、あらかじめ「鬼の本当の姿」をしっかり見せておくべきかもしれない。。。
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「世界の三大都市は?」「えと。。。えと。。ニューヨークと新宿と。。。」
「じゃ、世界の美女三人と言えば?。。。」「んー。。。楊貴妃とノリカと。。。」
「この子ったら。メタボといえば?糖尿病と何?」「糖尿病と高血圧と。。。腹まわりぃ?大喰い?」
「そんなんじゃミリオネアに出られないよ」
「でも、かーちゃん。世界の国を反対から言えるよ。今練習してんだ。学校で流行ってんだ。カリメア、んぽっに、くごうゅち、くこんか、、、んと。んわいた。。。」
「この子大変、とーちゃんに似てしまったわ。。。」
「ところでかーちゃん。湾岸戦争はなんで始まったの?大きくなったら、あちこち戦争に行かされるの?。。」
「。。。」
さて、地球上にある国名と都市と政治家のてっぺんの名前を全部正しくまちがいなく言えたら卒業させてあげるといったら、誰も卒業できないだろうね。毎日のようにてっぺんが変わっているから、ね。
ちなみに、昔のスパルタの刑ってほんとにシンドかったみたいだね。罪人に500個の単語を覚えさせて言わせるんだ。全部できるまで牢獄から出してもらえない。たとえ一つでも間違えるとやり直し。違う500個の単語が与えられる。無意味な単語の羅列だ。絶対出来っこない。仕方なく何回もやるうちに、気が狂ってしまい、気力も果てて、ついには死んでしまうという。無駄なことをやらされることほど、本当につらいものはない。
20世紀の教育では、我武者羅(ガムシャラ)に覚えるスパルタのようなやり方が教育の基本だった。全部できたら合格だと、さすがに全員落第だから、よく出る問題を6割以上正解しさえすればよかった。とことんやらなくても合格だった。勉強は要領よくやるものだった。
一つの疑問にこだわってそればかり考えてしまう子がいる。いつか役に立つかもしれないが、落ちこぼれになる前兆だ。
「三角形の三つの角度を足すといくつ?」
「。。。。んと。。。」
何百年も門外不出だったピタゴラス秘伝の法則を知ってしまえば、なんのことはないが、知らないと正解するまで100年はかからないが、マチガイナク明日の宿題に間に合わない。高学年の複雑な理科の公式も事情は一緒です。そのまんま受け売りで学問じゃない。むしろゲームに近い。
そういうわけで、自分で考えること、やってみること、疑うこと、発見すること、一つのことにこだわること、興味の持ったことにハマルことは、「やってはいけないこと」でした。長い髪の天才「おもしろ数学大先生」みたいに、ユメユメ生徒同士で問題をつくったり解きあったりして遊んではいけません。電車が行ってしまいます。
戦後50年の世代は、自分たちの受けてきた教育と競争のやり方で、21世紀の子どもたちを苦しめているのだろうか。あちこちで子供たちが暴れて大変なことになっている。親も暴れだした。教える側が窒息している。
「ゆとり教育」とは、教えることを少なくしただけです。知識を一方的に詰め込んで試験するのは昔と全然変わらない。
かくして、新しい未来の教育は「試験のない」教育でしょうね。「考える」「自分でやる」という習慣ができたら教育は卒業かもしれない。だから、六三三制12年は長いと思う。四二二制8年くらいに短縮しましょう。大学は好きなところへどうぞ。。。入学試験もなければ卒業試験もなし!。卒業は自分で決めてね。そして、3年くらいしたら、社会に出てね。出てから学んでね。出たら選挙権もあげるよ。18にもなればもう自分で「考えて」選べるんだから。
「考える」だけで卒業?!うれしいなぁ。
知識は今やネットで一発検索。必要なものはすぐ探せる。覚えることはそんなにいらない。。。大事なのは何をするかだけかもしれない。なんのことはない当り前の「生きる知恵」みたいなものかな。
21世紀半ばには長かった戦後の「スパルタの悪夢」は、きっと過去のものになっているに違いない。いや、そうなってほしい。未来の子供たちに幸あれ。
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1990年代に見られた脳死議論の熱気は、移植法案の採択以後、下火になり、マスコミの興味ある題目ではもはやなくなった感がある。ドナーカードの普及や啓蒙にもかかわらず、ここ10年間、脳死ドナーはわずか数十例と停滞し、アメリカの100分の1程度に過ぎない。脳死ドナーがアメリカに比べて圧倒的に少ないことが、日本における脳死移植の停滞のもっとも大きな理由の一つであることは論を待たない。はたして、日本人はアメリカ人より生物学的に「脳死が少ない」のだろうか。。。
日本における脳死判定の細かな規則や手続きは、ケンケンガクガクの脳死議論の末に、脳死移植のメッカであるアメリカさえも驚くであろうと思われるほど詳細を極めている。「死の判定」がこんなにも大がかりで詳細であるということは、医学の歴史上はじめての体験かもしれない。しかるに、アメリカは、簡単な判定方法と手続きでたんたんと行われている。脳死という生命の終わりのノーリターンを境に、治療するべきものと、そうでないものとの区別がはっきりしている。脳死をもって、治療の打ち切りを家族に提案する、そこで家族は大方が同意し、移植のドナーの提案がそれから少しして(30分後?ないし数日後には)行われている。脳死の判定にアメリカ人はあまりこだわらないようである。臓器提供も積極的だ。最近は脳死ドナーのほかに、心停止ドナーでの提供も増えつつあるという。
日本では一般に、脳死を明らかに想定できていても、一時的に呼吸器をはずしてまで脳死の判定を積極的に行うことはない。家族には「もう望みはありませんが、最後までできるだけのことはしましょう。」「はい。お願いします。」ということで、最後の最後まで自然に心停止するまで、ずるずる治療行為を長引かせてしまうことが多いだろう。多くの良性疾患の治療と同じような、濃密な全身管理(栄養点滴、抗生剤、呼吸器管理など)が漫然と行われていることもある。
こうした医療行為は、「死を遅らせる」ためであり、治療とはいいがたい。
アメリカと日本の脳死後の対処の違いは、まさにこうした治療の打ち切り方と、「死の受け入れ」方にあると思われる。それは感性の違いが多少左右しているかもしれないが、宗教的なものではなく、国民性でもなく、もっと現実的に「いつまで治療費が払えるか」ではあるまいか。
アメリカ人は脳死後にも濃密な治療を続けることを望まない。治療費が大変であるからに他ならない。日本はどんなに治療費がかかっても、ほとんどが医療保険で賄われる。差額ベッド代はもどらないが、自己負担分はほとんどが返還される。医療側も、脳死症例に漫然と治療行為を行なってもお咎めはない。
本日の逆説的結論は以下のようになります。
「アメリカも、日本のように手厚い無制限の医療保険制度に恵まれるならば、脳死移植はもとより、心停止移植も激減するに違いない。」
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地下室に続く階段を降り、デパートの生鮮食料品売り場に降りる。まずはじめに、買い物カゴを自分で手に取る。(自分で取らないと買い物はできない。怪我をしていても、めまいがしても。)。。。野菜コーナーが目に入る。そして、次に乳製品。お寿司や総菜が並ぶ。。。
たまに、試食コーナーで女の子が所在なげに立っていることもあるが、腰を曲げてその前を通るご老人が、イタイタシイ感じでキャベツをカゴに入れるのを目の前で見ても手を貸して差し上げることはない。そういう非利潤的側面と手間を完璧に省いて合理化した姿が、安デパート売り場である。もちろん、レジでは、アイソウの「あ」の字もない店員が、ビニール袋を買物カゴに入れて、「ありがとうございました。次どうぞ。」。。。「あのう。。。袋2枚余分にもらえます?」。。。「。。。」店員はメンドくさそうに黙ってビニール袋をカゴに入れた。。。「あのう。いいにくいんですけど」「はい。ちょっと待っててください。。。なんでしょうか」「袋や破けちゃって。。。もう一枚お願いできます?」「!。。。」店員は、これが最後ですと言わんばかりの勢いでビニール袋を投げるように差し出した。
最近、ある知人に聞いた話。デパートに苦情の電話が一日40-50件かかって来るという。「パックから汁が漏れている」「賞味期限があと2日しかない。明日は大丈夫か。。。期限とは明日は含まれるのか。わかりやすく説明しろ」。。。買うときは、コヒツジのように従順に、物言わず買っていくらしい。店を出たとたん豹変するらしい。。どうやら同じ人間がいろいろとナンクセつけてくるらしい。同じ人間でなければ違う人間らしいが、そのクレーマーも他のデパートでは有名らしい。40-50名のクレーマー・グループが携帯で連絡を取い会い、暗躍しているという。こうしたギャングは、主婦や学生や商店主などさまざまな人で構成されているという。
記録的な気温を更新し続けるきょうこの頃の猛暑。。。クレーマーでもやらないと一日が退屈。それにしても、店長の対応も悪いが、売り子の教育もナットラン。。。というのが彼女たち彼らの言い分。いい趣味見つけましたね。何を隠そう、私も死ぬ前に一度はやってみたい。。。と思わずにはおれない。
デパート側もこれではたまらん。ということで、クレーマー対策マニュアルを作成し、万が一暴力沙汰になれば、雇ったイカツイ警察OBのおでまし。。。確かに泣く子も黙る「コワソーな」最終兵器だね。でも、そう再三再四、表沙汰にすると店の評判が落ちる。デパート側の泣き寝入りも少なくないという。
今日は何の話っすか?ここはデパートサイトじゃなく、医師専用サイトですのに。
いえいえ。デパートを病院に読み替えて、店員を医療従事者に読み替えると、昨今の医療施設でのクレームや警察沙汰が何故多いかという、本質が見えてくるわけです。
医療業界では、薬を処方することを「投薬する」といいます。注射・点滴を打つことを「投与する」といいます。。。「投げる」わけです。投げたら投げ返すというのがケモノ道。。。病院の外のごみ箱には、もらったばかりの処方箋や薬が手つかずに捨てられているというのはよくある話。どんなに良質で安全な食料品を提供していても、デパートにクレームは続きます。物を売る相手(お客様)を見ていないからです。どんなに最新医療・インフォームドコンセントを汗水流して提供しても、クレームはつきます。「病い」を「物」として扱う風土が、まだあちこちに残っているからです。教育が、「物」を教えてばかりいるからです。医療が「物」だけを見て説明するからです。
クレーマーギャングは、ナンクセつけながら、まさに「そこ」を突いてくるというわけです。
ところで、「様」で呼ぶのはケシカランと、所はオコシヤス&オイデヤスの国、「京○大学病院」のてっぺんが全館使用禁止令を出したところ、職員はいっせいに胸を撫で下ろしたという。ふだん静かでやさしい舞妓はんも、そりゃあきっとクレーマーになります。「ほんま、慣れておらんと。。。ちゃいますやろかいねぇ。」。。。「様」にも慣れないようでは、「物」以外を診ることも当分慣れないかもしれない。
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戦後日本の医師給与は、たいがいドンブリ勘定であった。日本語の「どんぶり」とは、イイカゲンすなわち「適当(テキトウ)に」という意味であるが、「適当」は「適正」という意味でもあるから日本語はヤヤコシイ。。。
エイヤっ!と、野球選手の単一年俸制の決め方は、年に一度のことだから、気分的に楽のようでもあるが、、経営サイドと仲の良い「ナカノヒト」は得をして、ただ黙々と働くお人好しの「ソトノヒト」は知らないうちに損をすることもある。
医師たちは、週実働60時間から80時間にも及ぶ過重労働と、月10回はゆうに超える夜間当直や、数えきれない夜間休日緊急対応・電話対応の対価に強い関心があり、きちんと相応の対価を支払ってほしいというのが本音ではなく「当たり前」である。
いくつかのところでは単純な記入式の時間外・残業時間報告制がある。しかし、「本当に必要な時間外だったのか」、「要領が悪いのではないか」という斜め評価への対抗策がない。事務長のメクラ判(半分押し忘れ?よそ見しつつの「ながら押し」)で済ますか、部長による勝手なチェックで削減するかのいずれかで、「まあまあ処理いわゆるドンブリ」されているのが実情だろうね。
昨今、日本の医師給与のこうした「ドンブリ」に積極的にメスを入れようとする施設も現れてきている。ここにきて、民間病院の経営状態もアヤシゲになり、医師の「やる気」を引き出さなければならないという仮説のもと、きちんと仕事量と達成度を評価して、基本月俸を公開し、やればやったで役割業績給や基本外賃金を報酬として上乗せする姿勢を経営者が示す必要に迫られている。労使双方が、きちんと評価基準を決めてオープンにすることは、双方の利益になるという認識で一致するのはそう難しくはないだろう。
ところが、基本月俸・基本年俸。時間外賃金のいずれを決めるにも、何を評価して、どれくらいで折り合うか。。。という実際問題になると一筋縄ではいかない。思ったより難問である。オープンな評価制度は、評価項目がいきおい50も100項目も作られることになる。医長・部長・副院長・院長の持ち回りで、はたして公平なのか。。。
「良くこまめに時間外も働いているようだが時間の配分が悪いのではないか」とか、「経歴や資格は立派だが、口先だけではないか」とか、「みんなを引っ張っていく力はないが患者に人気がある」「つらい仕事は下に任せてせっせと学会に出るが、下からの信頼は薄い。しかし、病院の機能評価にはむしろ良い存在。」とか、「大胆で能力はあるが人の意見をきかないので職員とのトラブルが多い」とか。。。評価は錯綜・混乱する。誰が責任を持って公平に評価・管理できるでしょうか。
中堅クラスがこうした評価制度に参画することになると、これまたモメルことになる。赤字部門と黒字部門とのアツレキである。診療報酬は低いが、なくてはならない診療科は苦しい弁明に終始しなければならない。黒字部門だけによい報酬を上乗せしても他の科は納得しない。黒字部門は、「俺たちはマイニチ新聞読みに来てんじゃねえ。マイニチお前らより苦労してんだ」と恥ずかしいことにスゴンダリする。朝○新聞丸めて机を叩いたりして、しまいには泣いたりする。。。。。
それにもまして、誰がいつどのように見られ、評価されているかわからない。影からいちいち監視されたら、たまらない。気分が滅入る。個人的な偏見や勢力争いや思想で評価が汚れてしまうこともあるだろう。基本給に少額のおまけ業績手当を出すための相互監視で、お互いの信頼と団結がつぶれてしまうのは時間の問題ということになる。
そういえば、中学校の頃によくやったゲームにこんなのがあった。誰が一番きれいか、誰が一番強いか、誰が一番足が速いか、誰が一番良く喰うか、誰が一番くさいか。。。授業中にせんせいの目を盗んで数人で紙切れを回してやるんだ。これはかなりヤバイよ。でも、やってる奴は楽しいんだこれまた。オレはやってねえよ。。。事実の検証と人の評価はむずかしい。
エムスリーの精神科医て○ちゃんが、カシコクモイミジクモ、ブログで書いていたヨ。日本のフランス出先工場で働く従業員が、このところ何人も自殺し始めたんだと。
「日本人のせいだ」
と、フランスの新聞が騒いでいるらしい。
世界でもまれな日本特有の「過労自殺」を、朝からワインが飲めるオフランスに輸出しているというのだ。よほど細かく管理したんだろうね。
言いたくても言ってはいけない天下の宝刀。。。「そういうおたくこそが、はじめに辞めたら?それがいいぜ。おーシャンゼリゼ・セルリガンツデラコンブナーブル」って、日本人経営者に向かってクッテカカル大らかなお国柄だと思っていたら、やはり、人間の弱さをジクジク突く日本式管理方式、人事評価方式で雁字搦め(ガンジガラメ)にされては、さすがのゲルマン・アングロサクソンも、首を吊るほうがましだと決断したらしい。
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昔々、ヨーロッパの大航海時代の話。時の王は、当時の造船技術の粋を尽して、最も大きくて頑丈な船を造るように命じた。巨費をいとわず、多くの資材と人員が投じられた。数年の歳月をかけて、ようやく完成したその巨大な船は、あたかも海に浮かぶ島のように見えたという。船の中は何層にも区分けされ、あたかも巨大なビルのようであった。
貿易によって国は栄え、人々は裕福になり、幸福になるはずである。王は人々に約束した。その船の建造は、まさしく国の命運をかけた一大事業であった。
その船には、当時の財宝、大砲や銃、食糧、衣服、そして家畜、燃料、さまざまな資材とありとあらゆる商品が、荷主の名簿に従って順番に、次から次と運び込まれた。船荷が完全に積み込まれるのに数カ月を要したという。
さて、その巨大な船は、港を出てしばらくして沖合で転覆することとなる。多くの犠牲者と財が海の底に沈んだ。歴史的な悲劇であった。怒った王は、船の設計を請け負った者たちを捕えて処刑した。設計にミスがあったからというのがその理由だった。
長い時代を経て、なぜ船が転覆したかが検証された。そしてある事実が判明した。船に運び込まれる荷の割り当てに不満をもっていた荷主たちは、その割り当てよりも多い量をごまかしていたのだった。全体の積載量は、設計時に予定されていた重量をはるかに超えていたのだった。大砲は10本が15本に銃は3万丁が5万丁、牛20頭馬15頭が25頭と20頭という具合に。
天候はよく、海も凪いでいた。沖合のゆったりとした大きな波に揺られて、荷崩れが起きたのだった。船はバランスを崩し、港で見守る人々が見える距離で、大きく傾きそのまま倒れたのだった。。。。
「もっと船を大きくするべきだった」
「荷を余分に積んだのだから当たり前だ」
と、誰かが言えば、
「それを見抜けなかった監督者がしっかりすべきだった」
「船荷の計量係りに荷主が賄賂を渡したからだ」
と、誰かが言う。
「荷主が欲張ったからだ」
と、誰かが言えば、
「船の中の担当者が荷の積み方を手抜きしたからだ」
「そもそも巨大な船を造る必要があったのか。」
と、誰かが言う。
誰もが正しいが、誰もが何か足りない。
病院が赤字を抱えて倒産する時も、こうした「誰もが正しくて、誰もが何か足りない」議論になる。大きな荷が、ヘリカルCT、MRI、PETなどの設備投資、精密医療機器、ICU,、心臓カテーテル機器、無菌手術室などのローン返済だったり、人件費だったり、長年の累積負債だったりする。建て替え費用、移転費用の借入金、医師たちの集団自決、公的資金投入の打ち切り、民間銀行融資見送りという当然予知される事態に対応できない。
ほんのわずかでも、バランスの限界を超えれば船は倒れるように、一つのミスや噂や訴訟が大きな揺らぎとなって収拾がつかなっても病院は倒れる。
昨今の医療問題の核心は、やはり「診療報酬の抑制」と「医師・看護師の一極集中・地域内格差」に他ならない。それを遠隔操作する者は机の上で、数値の枠に一筆書きこむという簡単な行為にすぎないかもしれないが、日本の医療経済のバランスの限界をわずかに超えたことに気付いた時には、多くの船の姿がなくなっていることだろう。。。。。王は、船の設計者(医師)を、やはり処刑するかもしれない。
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戦争当時は負けが明らかになった時点で、捕らわれるより自決する、いわゆる玉砕なるものが、誇り高き軍人の「最後の抵抗」であり、「一矢の報い」であった。今日、病院が赤字に転落し、もはや如何なる努力も傷を深めるだけの状況に追い込まれ、どんな提案も要求も受け入れられなくなった医師たちの最後の選択は、「集団で引き揚げる(自決する)」ことである。どこぞの評論家がいうような「サボタージュ?」というノンキな(能天気な)言い回しでは物足りない。要求が受け入れられなかったから?経営方針が合わなかったから?経営母体がコロコロ変わるから?。。。そのようなことを医師という特権で催促したり口出しできたのは、病院が安定して成長し、かつ医局が元気だったここ戦後50年間の、いわゆる「昔話」である。
たとえ戦地に大砲(大型特殊医療機器)が残されていても、一人や二人では動かせない。主力戦闘員も援護射撃要員もいなくなれば大砲はタダの鉄くずに化してしまう。集団自決に遅れて取り残された、行くあてのない踏ん切りのつかない医師は、売上げ至上主義の経営サイドによる、さらなる過重労働による締め付けと使い捨ての刑が待っている。
引き揚げたはいいが、行くあても定かでないこともある。集団は分散しそれぞれの道を模索することになる。かつてはこうした集団自決は医局の崩壊(新任教授の就任)という狭い領域での「小さな悲劇」だった。教授は下の医師が積み上げた実績を手に、それなりの新しい民間病院の地位を得て去っていく。ツブシのきかない医師たちは、再利用価値が低く見積もられ、誰かの後をついて行くしか当面の生きるあてがない。。。なけなしの財布を叩いて転勤しても、実は状況はほとんど変わらないか、もっと悲惨な状況を目の当たりにすることになる。
もうやめた!かくなる上は、個人経営(開業)だ!。。。しかし、あちこちでクリニックが立ち上がっては、業者やブローカーに騙されて潰れてしまうか、売り上げが負債に追いつかず自滅する事例は後を絶たない。競争が激化し共食い状態なのだ。ブローカーはそんなことシッタコッチャナイ。言葉巧みに騙して売り逃げればいいのだ。ご用心あれ!
さて、どこぞでまた大きな花火が上がったらい。。。。破産病院の再生である。縁故知人・同窓に頼った、なりふり構わぬワッショイで医師団が急遽結成され、臨時補完要員が無作為にかき集められるが、勝算は厳しいだろう。売れ筋の医師をアドバルーンで上げて興行マガイの再生祭りをしても、収支は果たしてうまくいくのだろうか。経営形態は何ら変わることなく、それで既に破産しているのだから。。。私はこのギャンブルの券は買わない。
いまや日本全土の空に、医療報酬の引き下げがナパーム焼夷弾のようにくまなく降り注ぎ、一つまた一つと火の手が上がりつつある。破産と整理による医療費総量抑制のプログラムが着実に進行しているのだ。資本主義でありながら夢のような社会主義的福祉医療と統制医療の日本にあっては、総量規制や病院の整理、破産誘導は難しくはないだろう。
われわれ医師は何を考え、どう行動するべきか。癌難民、医療難民はもとより、医師難民ともいうべき、行くあてのない医療の砂漠化が進んでいる。
医師は、敗戦の焼け野原を「はだしのゲン」のように彷徨い、かろうじて見つけた職で日当いくらの計算でこき使われる。。。「こんなことでいいのか。」がんばれ。未来の(卵の)医師たちよ。
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「回診で~す。」
「術後何日目かな?」
教授のおごそかな朝の第一声。。
「はいっ。3日目です。」
3年目のネーベンが元気よく答える。
「で。どうかね。」
教授はつぶやきながら、メガネの奥の視線が無意識に探す先はたいがい7年目くらいのオーベンである。オーベンを抜きにして物事が進まないのが回診である。
「順調です。」
と、オーベン。
「電解質はどうなってるかね。」
と、教授。新しく入ってきた1年目の研修医が、すかさず読み上げる。
「昨日のナトリウムは142、カリウムは4.3、クロールはえ~と。。。」
ダ~レも聞いてない。オーベンが答ることはない。これはネーベンの仕事である。オーベンがネーベンをにらみつけて、
「今朝の電解質を調べておかないと、意味がないだろが。」
「すぐ調べます。」
と、ネーベン。1年目は、どんなにズータイが大きくても、オタマジャクシか、直径1-2ミリの仁丹くらいにしか認識されない。平たく言えば「無視される」。
さて、術後7日目。。。
「うまくいってるねえ。」
と、聴診器をあてながら教授がつぶやく。どうやら、オーベンに言っているらしい。当然、暗黙の了解で、
「はい。順調です。」
と、オーベン。何をぬけぬけと。。。夜中に点滴が外れて悪戦苦闘したのはネーベン。イイトコドリできるのがオーベンの特権である。
オーベンは自分の仕事と研究?とこれからの自分の未来?に忙しく、いちいちネーベンに教える時間的(心の?)余裕がない。教えていないので、ネーベンに任せるのが怖い。怖いからいつまでたってもネーベンにやらせない。やらせない割には、やたら雑用の注文が多い。自分では動かない割には、やれてないことを探すのがうまいねぇ。ずるいねぇ。オーベンはネーベンにつらい仕事を○投げしたりする。ネーベンは殻から出てきて間もないヒヨコみたいな1年目に頼るわけにもいかない。辛い役回りだ。。
かように、オーベン・ネーベン・一年目研修医の三人担当医制は、一家の三兄弟のような構図である。教授(親)が褒めるのは長男。たとえ長男が失敗しても怒らない。一家が混乱するからだ。二男が失敗すると、親と長男の説教が待っている。三男の失敗を二男がかばうと、二男が、また親と長男に叱られる。序列が崩れるからだ。くやしい掟だねえ。
そして最後に、サルのように賢く、ヘビのように用意周到に、牛のごとく打たれ強く、サメのように度胸がつくのが、次男というのがこの世の当たり前であります。技術は見て盗め。長男は教えてくれない。いいところは絶対、長男に持ってかれる。次男は親の見てないところで苦労するしかないのだ。長男のできないところを探して開拓しろ。テガラを立てても長男の前で絶対自慢するな。テガラがpa~になる。三男にはたまにはよく教えてやれ。教えるとカシコクなるぞ。。。。
で、三男は??。。。勉強してさっさと切り上げろ。どうせ二男のいうことなんか聞きゃしないんだからね。自らの信じる道を行け!!がんばれ~!三男!!偉くなっても帰らんでいいぞ~。。。。えっ??四男?あら居たの。元気?。。。五男は新天地を探しに旅に出ることばかり考えてしまうらしい。。。というわけで、一家はぜいぜい三男までにしておいたほうがイイのかも。
さて、どこぞの研修病院のように、100数十人も1年目が集まったら、どういうことになるんでしょうね。エビの腹にびっしりくっついた卵みたいに。いくつかの科に振り分けても、回診中の病室には入れないのは覚悟しなければならない。親の声も、何言ってるかぜんぜん聞こえやしないし、手術なんか、もちろんのぞけやしない。到底ヤラシテもモラエナイ。たとえ、のぞいても長男と二男が何をワメイテいるかなんて、分かんないんだろね。術野の見えない後方でつっ立ってても無駄だよ。血のついたガーゼが頭の上に降ってくるだけだ。学生時代の見学ポリクリの延長みたいじゃつまら~ん。
んで、なになに?。。。内科はそんなことないっ?!?。。。一緒だよぉ~。
つまらんカンファに座ってないで、僻地に釣り道具持って半年でも行ってくるのもいいと思うよ。魚も釣れるようになるが、モリの刺さった足とか、生々しい心筋梗塞とか、脳梗塞とか、呼吸停止とか、目の当たりにするよ。きっと、いい勉強になるよ。有無を言わさず何でも診ないといけないからね。
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