退職して16年になります。病院が国立豊岡病院、国立所沢病院の合併でできました。当時、所沢保健所管内には小児科医が複数勤務をする病院はありませんでした。3人も小児科医が居たのですから画期的な変化だったと思います。昭和48年、創立時代には、患者さんはプロパガンダをしなくても多数来られました。入院ベットも新生児20、一般小児32床は足りませんでした。周辺に埼玉医科大学、防衛医科大学校ができて、県立小児医療センターなども開設されて、病床に空きがでるようになりました。他には選択の余地のない時代には、自分達しか医師がいないと思うと、働くのは当然のことでした。よく、燃え尽きなかったと思います。ひた走り走った歳月でした。兎に角、どのような疾病でも受け入れることをやりましたので、沢山の疾病を経験することも出来ました。医師のなかには、亜分野の専門家としての道を選択する医師、研究も継続する医師、開業医になる医師、など選択肢が色々あるでしょうが、何にでも応じることを専門にする医師がいても好いだろうと思います。
大学に戻る機会がなかった訳ではありませんでした。戻っていれば、どのような展開があったのか予測もつきません。
自分では、勤務医を続けて結局開業医の道を選びました。
自分の歩いた道はこれでよかったのだと思っています。
よくやっていると多少の賛辞を頂きました。最も恵まれたのは自分が大病をしなかったことだろうと思います。幼少期には熱ばかり出していて祖父には20歳までもたないと言われたこともありましたが、健康問題で迷惑をかけずに済みました。医師として大きく影響を受けたのは所謂学園紛争、学会紛争、インターン闘争、勤務をしてからの外来小児科学とのであいだったと思います。国立病院勤務15年の院長表彰も受けました。平成3年、この職に終わりを告げて転進を図りました。開業を考えた理由は、先ず、結婚が遅かったので、子どもが幼いこと、子どもは一応、本人達が望めば大学には行かせたいと思いましたが、3人同時に通うことが明らかでした。国立大学でも3人同時は厳しい条件でした。私は国立病院からの収入でやってきましたが、3人を同時に行かせるだけの蓄えはありませんでした。経済的にもう少し収入を得るには、転職を必要としました。勤務の条件は厳しいものでした。年齢を重ねても楽になる保証はありません。医長でいれば、年をとったからとして負担を軽くすることを望むのは無理です。また、国立要員の定年は65歳でした。その後に働ける場所があるかどうかも不明でした。働ける間は小児科医として働きたいと考えました。種々、考えた挙句が開業をするということでした。平成に入ってから、開業を考えました。
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