2007.10.31 01:36 |  診療  |  開業 / 病院経営  |  その他(一般)  |  波良張  | 推薦数 : 0

開業準備

開業をすると決めてから、場所は自宅の隣に買い求めました。結局36坪、地下をを倉庫や駐車場3台、2階を診療所として24坪、3階は和室洋間の二部屋とした。診療所としては狭い、患者さんは2階に階段を上る不便なものとなりました。土地代、建築費はローンとなるので、返済が始まると経済的にも大変でした。私はいわゆるアルバイトはしなかったので、国立病院からの給料では、致し方なく家内も働きました。私が、アルバイトをすればそれはさせなくて済んだでしょうが、すべきではないという思いは、最期まで全うさせて貰いました。自分がやめるとなると、後任の問題もあり、母校に相談をしましたが、後任は出せない、スタッフは引き揚げることになりました。幾つかの大学で私がそこに入局をして、若い人が赴任をして私がやめたあとをそこの大学でつなぐという話もありましたが、全スタッフを出せる大学も得られず、結局杏林大学から赴任をされることが決まり、私の退職は、平成3年4月末、結局は5月1日と決まりました。3月で大学に一人戻り、スタッフが一人減り、私が開業準備のために休んだり、年休をとることはおよそ無理でした。開業準備のこまごまとしたことは家内がやり、私は退職の当日も午前中は勤務をして、退職の辞令を貰うのも外来診療の合間という有様でした。院長は開業をあからさまに言うことはいけないといわれて、退職後も1週間に1回は外来診療を行うように言われました。5月1日に杏林から一人先生が来られて、熊本からのスタッフは全部帰り、一人残ったメンバーになりました。辞めるまでは私は医長ですから責任は変わりませんでした。外来には、5月からは外来は木曜日だけになるとの掲示を出しましたが、患者さんがたは、私が副院長にでも昇格するので外来が減ると思ったりしたようでした。3月に退職して5月に開業と考えていたのが、スタッフの関係で開業は予定通りにして、退職が5月1日となったので、準備は大変なものになっていました。

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2007.10.29 01:43 |  診療  |  開業 / 病院経営  |  その他(一般)  |  波良張  | 推薦数 : 2

国立病院勤務医時代

退職して16年になります。病院が国立豊岡病院、国立所沢病院の合併でできました。当時、所沢保健所管内には小児科医が複数勤務をする病院はありませんでした。3人も小児科医が居たのですから画期的な変化だったと思います。昭和48年、創立時代には、患者さんはプロパガンダをしなくても多数来られました。入院ベットも新生児20、一般小児32床は足りませんでした。周辺に埼玉医科大学、防衛医科大学校ができて、県立小児医療センターなども開設されて、病床に空きがでるようになりました。他には選択の余地のない時代には、自分達しか医師がいないと思うと、働くのは当然のことでした。よく、燃え尽きなかったと思います。ひた走り走った歳月でした。兎に角、どのような疾病でも受け入れることをやりましたので、沢山の疾病を経験することも出来ました。医師のなかには、亜分野の専門家としての道を選択する医師、研究も継続する医師、開業医になる医師、など選択肢が色々あるでしょうが、何にでも応じることを専門にする医師がいても好いだろうと思います。

大学に戻る機会がなかった訳ではありませんでした。戻っていれば、どのような展開があったのか予測もつきません。

自分では、勤務医を続けて結局開業医の道を選びました。

自分の歩いた道はこれでよかったのだと思っています。

よくやっていると多少の賛辞を頂きました。最も恵まれたのは自分が大病をしなかったことだろうと思います。幼少期には熱ばかり出していて祖父には20歳までもたないと言われたこともありましたが、健康問題で迷惑をかけずに済みました。医師として大きく影響を受けたのは所謂学園紛争、学会紛争、インターン闘争、勤務をしてからの外来小児科学とのであいだったと思います。国立病院勤務15年の院長表彰も受けました。平成3年、この職に終わりを告げて転進を図りました。開業を考えた理由は、先ず、結婚が遅かったので、子どもが幼いこと、子どもは一応、本人達が望めば大学には行かせたいと思いましたが、3人同時に通うことが明らかでした。国立大学でも3人同時は厳しい条件でした。私は国立病院からの収入でやってきましたが、3人を同時に行かせるだけの蓄えはありませんでした。経済的にもう少し収入を得るには、転職を必要としました。勤務の条件は厳しいものでした。年齢を重ねても楽になる保証はありません。医長でいれば、年をとったからとして負担を軽くすることを望むのは無理です。また、国立要員の定年は65歳でした。その後に働ける場所があるかどうかも不明でした。働ける間は小児科医として働きたいと考えました。種々、考えた挙句が開業をするということでした。平成に入ってから、開業を考えました。

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2007.10.25 01:49 |  診療  |  開業 / 病院経営  |  その他(一般)  |  波良張  | 推薦数 : 0

メチルマロン酸血症

産科でどうも元気が無い患者さんがいるとして、当日の回診の当番の医師に産科のナースが上申したのに、その医師はよく診なかったのだそうです。私が、同じ理由で相談を受けて様子を見に行くと、なるほど元気が無い。血液検査を行うとアンモニアがアミチェックでスケールオーバーでした。検査室で代謝スクリーニングを行うと、メチルマロン酸血症が考えられました。とりあえず、自分の血液を400ml採血し、交差試験を行い、交換輸血を行いました。検体を国立下志津病院に依頼し、ビタミンB12を注射しました。アンモニアの上昇はなく、ビタミンB12依存性であることがわかりました。注射を続けて、血液の酸塩基平衡も正常に保たれるようになりました。お母さんがナースであることも、幸いして注射が自宅でも可能であること、注射を内服に変更しても良さそうなので、錠剤をつぶして乳糖を加えて1日、体重1kgあたり1mgを投与しました。保険の審査で問題になり、成人で1日に6錠が上限なのに幼い子どもに大量投与するとは何事かと、返戻になりました。日本でも稀な症例なので例外的に認めて欲しいことを書いて再審に出しました。すると、審査の先生から電話がかかってきて、病院も健保組合も患者も泣くということで、12錠ではどうかと言われるので、この患者さんには、もっと少ない量でも結果的にはよいのかもしれませんが、それは先ず必要と言われている量を投与して、漸減したい。命を救うためには必要量を認めて欲しいと話してOKになりました。ところが、保険組合から意義申し立てがあり再審になったのです。そこで、保険組合に直接交渉をしました。あなたの組合は、組合員の命を保証しないのかと訴えて、説明をしました。すると認めるという返事が来ましたので相手の名前を聞き、以後はレセプトのその人の名前を書き、保険組合了承と書いて明細書を出してもらいました。審査は通るようになったのですが、暫くして、以後は必ず認めるから自分の名前を書くのはよして欲しいといわれて、通常の請求でOKになったのです。もう、そのお子さんは成人です。貧血をきたすこともなく、具合の悪いときに母親がB12を注射していました。中学生になって痙攣をおこすようになり、目下は抗痙攣剤画使われています。まだ、責任酵素の決定は行われていません。治療にはそれほどの難渋はしませんでしたが、治療法を認めてもらうのに一寸苦労しました。内服の大量投与はいらなくなりました。

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2007.10.21 15:35 |  診療  |  開業 / 病院経営  |  その他(一般)  |  波良張  | 推薦数 : 1

長年つきあった患者さん

現在28歳、A君は逝きました。8歳のときに彼と私は出会いました。休日で病院の当直をしている日でした。いつもは、同じ小児科の別の医師が診ている患者さんでした。よく感染症に罹患しているのです。既に行われている検査結果をみると低ガンマーグロブリン血症でした。医師からはそれについては告げられていませんでした。防衛医大に免疫を研究しておられる方が居られましたので、調べていただき、Common variable type と診断されました。補充療法を行うことになり、それを私が担当しました。帝人のベニロンを使って始めました。外来で学校帰りに点滴をしました。中学校に入ると放課後が遅くなります。投与量も多くなるので、時間がかかります。それでも、なんとかやれました。平成3年開業して、それが出来なくなりました。そこで、自分の施設で行いました。ところが、ガンマーグロブリンの補充でショックを来たすようになりました。県立小児医療センターにお願いして、別の製剤が安全に行えることも確認していただきました。中学、高校は大きな健康問題になることもなく卒業できました。建築士を目指して進学をしました。看護士も目指しました。学校に入った秋に、下痢をきっかけに発熱の持続、貧血、腎不全、肝機能障害、膵炎などを来たし、透析を初め、濃厚な治療が行われて、九死に一生を得ました。しかし、肝機能障害、貧血は残りました。貧血は自己免疫性溶血性貧血でした。そこで、リツキサンが使われました。一時、好転しましたが、T細胞性機能が低下し、メインの治療機関は変わりましたが、補充療法は私が行いました。そして、とうとう最期を迎えなければなりませんでした。私の手元には彼が残した感謝状のような色紙やメーーセージがあります。かれは、恩返しをどのようにして行うかをいつも語っていました。勤務医としては4年くらい、開業医として16年を付き合ったことになります。

20年は長いとは思いますが、28歳は早世だと思います。彼の小学校から以後、月に最低1回、補充療法は月2回行っていましたので、私が一番回数多くお付き合いした患者さんでした。昨日、両親が挨拶に来られました。私が初めてあったときのことを、両親は克明に覚えておられました。検査伝票を見て、同じ検査でも医者によって解釈が異なると思ったと言われました。検査は答えを求めるために行うのであって、

指示をした医師は何を目的に行ったのかはわかりません。

蛋白分画は意義の大きい検査だと思っています。彼は、私の免疫学の師だったと思います。

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