看護学校の先生なのだから看護学の勉強をしなければと思い、教務の先生に聞くと、薄井式看護論を紹介されました。読みましたが、理解が出来ません。患者さんの状態を生物体の条件、社会的な条件にわけて考えます。教務の方と話をしても、本人は理解していると言われるのですが、よくわかりません。白血病でステロイドを飲んで、副作用で多幸症になっている子どもは、薬物が体に作用しているのだから生物体の条件なのか、一見、多幸症になっていてハッピーのように見えるが、本人も自分が何故、笑うのかわからずに困っているので、多幸症の状態はどう考えるのかと聞いても、よい答えが得られませんでした。それよりも、問題は何かと考えて、素朴に問題を提示してそれについて、主観的な面、客観的な面を明らかにし、評価し、対応する方が実際的で早いのではないかとか、看護診断を取り入れる方が良いのではないかと話しましたが、賛同は得られませんでした。アメリカの本の訳本で臨床看護マニュアルというのが、実際的に役立つと考えて、病棟に置きましたし、学生にも勧めました。今のように看護の参考書が多くなかった時代でしたから、学生もよく買っていました。其の時代の少し前の看護学の教科書には腎炎は糸球体の病気で、ネフローゼは尿細管の病気などと書いてあったのです。看護学の教科書も実際的ではなかったと思いました。今は、看護診断が一般的になっていて、教育も行われているのでしょう。弟が肺がんを発病して札幌の病院に入院したときに、説明を伺いましたが、カルテに看護診断のペイジが沢山あり、書き込まれていました。詳細を読ませて貰ったのではありませんが、垣間見て、世の中は確実に変わったと思いました。プライマリケアの場では、看護診断を取り入れて患者に対応すると良いだろうと思います。教務の方と一致していたのは、医師の治療は疾病の診断や病態が診断されないと治療は始まらないが、看護は疾病の診断が始まる前に始まる、ということでした。それに対する判断が看護診断の第一歩だと思っていました。今、看護学校で教えることはしていませんが、看護診断の参考書を時々購入しています。それにしても、学生が実習で書く文書量は莫大で、今ならワードプロセッサーもありましょうが、実習で患者さんの傍に居るよりも書いていることのほうが時間が長くて、可哀想だと思いました。もう、当時、関った学生さんが、立派なお母さんになって居られて、時の経る速さを実感させられます。
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看護学校が出来たのが昭和49年でしたが、と共に、看護学校運営委員になりました。看護学校の運営、すなわち教育に関るのです。私が、理解できないのに、戴帽式がありました。戴帽式は入学して、教育がある程度なされてから、行われます。教務の方々は看護婦に相応しいかどうかを見極めてから、相応しい人を戴帽式に出席させると言われます。1年生の教育と試験の結果で、相応しいかどうかを判定するのは先ず無理ではないか、また、看護学校で学んで看護婦の国家試験に合格して看護婦になる、看護学校に入学を許可することは、認めたから許可しているわけで、その後に中途半端な時期に行う意味は不明ではないかと思いました。入学したら行う、又は卒業のときに行うのなら未だ理解できるが、と話しましたが、勿論、認められませんでした。今はナースキャップは不潔だから被らないとしている病院もあるそうです。学園紛争時代には、戴帽式粉砕を叫んで式場に乱入した看護学生も大学ではありました。ナイチンゲール誓詞を読むのに反対でした。国立病院の看護学生は、おとなしくてそのような行動は見られませんでしたが、感激すると話していました。入学させた以上は、看護婦になるべく勉強させるのですかっ、私はモチベーションを高める効果があるのなら、看護学校の入学時に行うのがよいのではないかと思っていました。私が、退職する平成3年までは、従前と同じく行われていましたが、今はどうなったのでしょうね。
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日本が韓国がつくる僻地中核医療センターに対して無償援助をすることが計画されていました。福田総理の時代で、韓国は朴大統領の時代でした。なぜか、私も事前調査の一人になり韓国に行くことになりました。冬に行く予定が、4月に延期になり、この年は桜を2度見ることができました。この時代はソウルの金浦空港に降ります。福岡空港に着くよりも早いくらいの所要時間でソウルに着きました。私は昭和13年にソウルで生まれていますし、祖父が戦前、ソウルで醤油味噌製造販売業を営んでいて、昭和19年にソウルを訪れていますので、幼い子ども時代の記憶ながら懐かしさも覚えての旅でした。調査団の3人は日本大使館の方に導かれて、韓国政府を表敬訪問しました。先ず、互いに自国語での挨拶の交換がありましたが、それが終わると日本語での会話になりました。カソリック医科大学がセンターの設立運営にあたるのですが、学長、病院長ともに、日本語で違和感無くお話されました。政府の高官や大学のスタッフの多くが、昭和20年前の教育を受けておられるので、日本語を話されるのです。私どもには調査を日本語で出来るので便利なのですが、
申し訳ない気にもなりました。調査はカソリック医科大学を先ず見せていただき、センターを運営できるかどうかを見ました。予定地は漢江をはさんだ対岸にありました。カソリック医科大学はソウルの繁華街のミヨンドンの近くにありました。大学のスタッフに個々にお会いした訳ではありませんが、医師や看護婦のデスクには日本の参考書が立てられていました。英語の教科書が中心で医学教育は行われていたようですが、症状や所見の勉強には日本語の方がぴんと来るといわれていました。もう、今は韓国語の参考書が中心になっていることだと思います。ソウルへの中継基地になる地方のキリスト教の病院を見て回りました。国立病院にも行きました。一部には、未だ昭和20年前のレントゲンの機械が使われていました。写真はかなり劣悪のできばえでした。キリスト教の病院は、援助などもあって一流のものが用いられていました。保健婦だけがいる、無医村にも行きました。英語とハングル文字で印刷されていた、村人の健康カードのようなものが、家族ごとにファイリングされていて、保健婦が記録をしていました。医科大学の衛生学の教室の指導がされているとのことでしたが、ハングルが読めませんので内容はわかりませんが、保健婦が地域のヘルスケアーの中心であり、病人がでると、置き薬のようにして保健所に備蓄されている薬物を渡したり、症状によって、医療機関に送るというのです。キリスト教の医療機関が全国に分布していて、その連携で病状によって最終的にはソウルの中核センターに送るシステムが、国のシステムにもなると言うことでした。一国の医療機関を実際に見せてもらいましたので、医療というシステムを考えるのには非常に勉強になりました。観光旅行で韓国を訪れている方々は多いでしょうが、観光からは程遠い経験でしたが、得がたい経験でした。韓国は朝鮮戦争の傷が未だ癒えていない時代です。大統領は日本の士官学校を卒業された朴大統領でしたし、未だ、戒厳令が出されていて、夜、10時の刻限が過ぎるとホテルの窓から見える街は一斉に人がいなくなり、車もなくなります。地方の病院を見に行っているときに、防空訓練も目の当たりにしました。サイレンがなり、空襲が演習として、一般住民も参加して行われていました。私には幼少期にみた日本の防火訓練の再現のように見えました。ソウルでも地方でも日本語が通じました。これも、悲しく思えました。私どもは連合軍に占領されましたが英語で喋ることは強制されていません。北と南に家族が別れ別れに住んでおられる方々も少なくないと伺いました。同じ民族であるだけに、うらみも強い場合もあれば、憎みきれない場合もあるように思いました。日本でも会津と薩長の間の複雑な思いが明治維新にからんでありますが、それ以上だと思います。恐らく、それは、今も同じなのだろうと思います。
当時、韓国は兵士だけに保険制度があり、一般市民は医療制度は自己負担で行われていて、保険制度の導入が計画されている時代でした。カソリック医科大学が計画されている内容を伺うのですが、キリスト教だとチャリティクリニックがあり、福祉も含んだシステムになり、日本国が他国の宗教団体に援助をするのは例外的なのだそうですが、韓国の場合にはキリスト教信者が国民の多数を占めていることも、あり、そこへの援助が意味がありように思えました。私ども自身が援助をするわけではありませんし、レポートがどのように用いられたか、実際の援助がどのようにおこなわれたかなどは、わかりませんが、自分には勉強になりました。その後、映像でソウルの町並みを見る機会は多数あります。ソウルオリンピックで急速に都市化したソウル、地方も年を追って、変わりつつあるのはよくわかります。不可能なことですが、韓国の医療システムがどの様に変わったのかを見ることができればと思うときがあります。予定を1日早めて帰国しました。6日間の旅だったのですが、病院官舎に帰り点灯したら、同時に電話があり急患が来ているので診てもらえないかという電話でした。これも、驚きでした。
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妹は24歳で秋に結婚も予定されていました。1月にインフルエンザに罹患しました。といっても私は、知らなかったのですが。妹は両親と九州の久留米に住んでいました。1月15日の朝、私は当直で当直室に寝ているときに、もう一人の妹が電話をしてきました。高熱でトイレにも歩いて行けない、父は医者なのですが、布団を被って寝ているがどうも泣いているらしいというのです。父を起こして貰って話をしました。インフルエンザだと父は言います。肺炎を起こしているのではないかというと、否定します。どうも重症らしいので、入院させたらどうかというと、休日にどこに入院させるのかと言います。私は、電話をきって、久留米大学の小児科にいる友人に電話をして相談をしました。友人は聖マリア病院に相談をしてくれて、病院から救急車で迎えに行ってくれました。しかし、余りにも重症なので、久留米大学に転送してくれました。入院できて、父から電話では少し落ち着いてきたと言ってきましたが、友人は今久留米まで来ないと間に合わないと言ってくれました。私どもは、何時でも直ぐに飛び出すわけにはいきません。それに、15日は休日で旅費を下ろすこともできません。16日、外来診察をしているときに、妹がなくなったという報告が入りました。当初は、診療をしていたのですが、冷静に続けることが難しくなったので、交代をしてもらい、数日、留守をすることの準備をして九州に旅立ちました。妹は剖検をされて肺炎とされていました。久留米大学に行き、主治医の医師に説明を聞きました。多発性のマイクロアプセスが出来ていたそうです。昭和51年だったのですが、自分は何人も細菌性肺炎の子どもをキュアできたのに、口惜しくてたまりませんでした。父は、自分が診ていて亡くしたので辛かったでしょうが、もっと早くに他人の手に委ねていたら、失うことはなかったのではないかと思いました。久留米大学の医師は私より若い方でしたが、『お父さんも辛いのでしょうから、責めないように』と言ってくれました。父と娘では、十分な打聴診もしていたかどうかわかりません。重症の肺炎は理学的な所見、病状でも予測がつくと思います。それが、親娘という情が入り、軽くあってほしいという願望が軽症と判断したのだろうと思います。情ではなく、事実を直視することが大事なのだという好例でしょう。母は父を責めることはしませんでした。仕方ないことと受け入れたようでした。私には『お前が近くに居れば』と一度、言いました。親許から離れて関東に出てきたのですが、若し、熊本に居れば診察に帰っただろうと思います。自分の身内を失うのは、辛いことでした。そのことは、身内を失うことの辛さを自分の患者の家族に味合わせてはいけないと思いました。以後、より、病院に居る時間が長くなったと思います。
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外国の論文を読んで、その要約を他人に聞いて貰って、それについて討論をする、大学では医局抄読会と呼んでいました。病院でも一応、毎週行うことにしていました。重症患者、救急患者が入るとしばしば中止になったり、予定変更になったりしていました。病院がJ.Pediatrics,Clinical Pediatrics(これは本当はof north Americaを希望したのですが予算が無いとのことで、Illinoiになってしまいました)製薬会社が提供してくれたので、Pediatrics,Archiv of pediatrics, を定期的に読むことが出来ていました。当時は検索は今のように出来ないのですが、医学中央雑誌、Index Medicusが病院で購入して貰えていて、総合雑誌として、JAMA,Lancet,New Eng.J.Medが購入されていました。初代の院長の加来道隆先生は、病院に入る全ての雑誌に目を通しておられ、何科の本であっても、これはと思われたものには、印をつけてあり、それをコピーして読んでおられました。小児科の雑誌にも当然ながら印がついていましたので、可及的にそれは読むようにしていました。今はパソコンがあれば、文献の収集は便利になり、いながらにして沢山の論文に目を通すことが出来ます。アブストラクトばかりで、本物を読んでいない人にも時々出会いますが、仲間での勉強会は必要だと思います。
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昭和48年に初めて埼玉に来て、埼玉にも小児科地方会があることがわかり、参加しました。県庁の中の衛生会館で行われていました。随分、年配の方がスライド係りをして居られて製薬会社の人が手伝っておられるのかと思いましたら、会員の先生でした。参加者も20数名でした。小児保健センターの森先生が指導的立場におられました。埼玉医科大学、埼玉県小児医療センター、国立西埼玉中央病院、国立埼玉病院、埼玉中央病院、浦和市立病院、済生会川口、越谷市立、春日部市立、深谷日赤、大宮日赤、社会保険大宮、やがては、川口市立、独協医大越谷、防衛医大、埼玉医科大学川越総合医療センターなどの施設ができて、小児科医の数も多くなりました。地方会の役員も40名位居たのですが、プログラムを組むときに、二人しか役員がいないこともありました・また、年配の先生方が、最近の言葉の用語、略語がわからないと言われるので、演者にサンマリーを予め用意してもらったり、座長が解説をいれたりしたときもありました。次第に若い人が喋り、討論をしてという活気がでてきましたが、本当に聞いている人の勉強になっているかは疑問です。時代の変遷とともに、循環器、血液、内分泌、感染免疫などの勉強会も個々に出来てきました。いつも、浦和、大宮で開催されるので、遠隔の地からの参加は難しく日曜日の開催のときだけの参加者が多くなっています。地方での学会は如何にあるべきか、多くの小児科医の勉強の場にするにはどのような形態が良いのか、考えます。
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