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2007.01.30 03:54 |  診療  |  開業 / 病院経営  |  その他(一般)  |  波良張  | 推薦数 : 0

看護学校の先生になった

昭和49年、病院に付属の看護学校が出来ました。小児看護の講師になりました。また、看護学校の運営委員にも任じられましたので、看護学校の教育に大きく関ることになりました。教科書をみると、医師の教科書を易しく書き直したような内容で看護婦としての教育に適しているとは思えませんでした。看護学校の教務の人に聞いてみるのですが、薄井式科学的看護技術論なるものがあって、学生は看護計画を書くのですが、どうも指導している側と学生側と共に理解が出来ていないようで、どうも実際的ではないように思いました。例えば、白血病でステロイドの大量投与が行われて、患者が副作用で多幸的になったのが、生物体としての条件、生活体としての条件として分けて考えられないのです。症状や所見をSOAPで考えた方が実際的だと思いました。看護診断も少し学びました。医師の治療は疾病の診断がなされなければ、基本的には始まらないが看護は患者に遭遇したときから始まる、そのための診断が看護診断であり、そえは医師に看護婦が従属することを意味しないと考えました。日本の教科書よりも訳本の臨床看護マニュアルの方が学生にも理解しやすいと考えて購入を勧めて、病棟にも買っておき、看護婦や学生に利用してもらいました。後に、これが縁だったのでしょう看護婦、保健婦、助産婦の国家試験委員になり問題作成に関与しました。後年、看護学は看護婦が教えるということで、授業時間は減りましたが、非常に勉強になりました。

今も看護診断は我々のようなプライマリケアを分担する場では大いに参考になると思います。

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2007.01.27 21:50 |  診療  |  研究  |  その他(一般)  |  波良張  | 推薦数 : 3

母校教室の教授選考

昭和48年3月で恩師は定年退官を迎えられました。早速、次の教授の選考が始まりました。ウイルスを専門にされていた方が選ばれて教授に就任されました。教室にはウイルスで仕事をした人もありましたが、地方の大学では大学病院はターミナルホスピタルとしての役割が大きく、臨床での要求度が高いのです。教授にとっても、教室の人にとっても不幸な組み合わせだったようで、教授は1年足らずで元の職場に戻られてしまいました。教授を再度、選考されることになりました。今度は、教室にとって本当によい人にと思い、北は北海道から南は鹿児島大学までの助教授以下の仕事を調べることにした。一時は、それをそらんじて言える位になった。そして、私個人としては、お一人しかいないと絞りこみました。業績があり、臨床家としての幅と深さがあり、若い人を指導していただける方では、この方しかないと思いました。ご本人の意思はわからない。候補者に上げられることが先ず、第一歩と思っていたら、そのようになり、結局、其の通りになりました。決まったとの報が大学から届いたときに、心から快哉を叫びました。これで、母校の教室は変わる、変わる事が出来ると思いました。そして、それも、其の通りになりました。先生は定年退官され、先生が育てられた弟子が教授職を継いでいます。私は、教室に戻ることはしませんでした。それでも、色々ご指導を受けることが出来て、自分が選考委員を務めたわけではないのですが、嬉しいことでした。教授決定のときに、本当に喜んで下さった方がありました。久留米の山下文雄先生でした。教授のもとで育った方々は、努力をしてひとかどの専門家に育っています。でも、指導者の影響が大きいことを見てきました。若い時代に、優れた指導者に遭遇することが大きな意味を持つと思います。

 

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2007.01.26 02:37 |  診療  |  開業 / 病院経営  |  その他(一般)  |  波良張  | 推薦数 : 5

凄い研修医がやってきた。

大学を出るとN君は研修医としてやってきました。循環器科を志望していましたが、基礎研修で廻り始めた最初の内科で、それまでネフローゼ症候群として蛋白尿でステロイドを投与されていましたが、軽快せずにいる患者がいました。高度の蛋白尿があるのに低蛋白血症がないことに彼は着目しました。相談を受けたので、患者尿をビスキングチューブに入れて、冷蔵庫に吊るして濃縮し電気泳動、免疫電気泳動を行いました。、血液の蛋白分画でM蛋白があるのを証明し、多発性骨髄腫の診断に至りました。また、高血圧で入院してきた患者で医長は降圧剤を使うように指示しましたが、彼は診断を行い、クッシング症候群であることを診断しました。其のうちに患者は脳圧亢進を呈しました。医長は脳外科に転科させましたが、彼と二人でインデックスメディクスで論文を探してクッシング症候群で脳圧亢進がくることを示して、内科に戻して貰いました。そして、それは肺の腫瘍で沢山のポリペプタイドホルモンを産生していることを証明しました。当時の言い方ではUPDOMAです。手術を受けられましたが、最終的には亡くなられましたが、珍しい患者さんを研修医が次々と診断を覆して正しい診断に至らしめました。卒業年次の古い人が師であり、若い人が劣るものではないことを彼は示したと思います。今は、高血圧になった私の主治医です。

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2007.01.26 02:20 |  診療  |  開業 / 病院経営  |  その他(一般)  |  波良張  | 推薦数 : 0

病院が研修指定病院になった

病院が研修指定病院になりました。私も、委員の一人になり研修システムを考えることになりました。総合病院で大学を離れて研修に来る人には、最初から一つの科に属することでなく、トータリティを上げることを目標にしようと提案しました。最初に、医師としての基本的なことをレクチャーし、放射線科、臨床検査科をラウンドし、内科、外科、産科、小児科を基本科としてラウンドし、2年目に科を選択するシステムになりました。麻酔科を外科のラウンド中に廻って貰いました。小児科や産科は4週としていましたが、他の科に行かれる方が2年目にも小児科を廻る人もありました。各科での研修内容は細かに設定は出来ませんでしたが、それなりに意義があったと思っています。臨床検査科などは、大学で研修をすると伝票に印をつけると何でも行ってもらえると思っていますが、多少とも自分で行ってみると、検査についての考えがことなってくると思います。現在は2年間で総合臨床研修を行うようになりましたが、それの先取りだったと思います。教育では、行ったことの結果を評価しなければなりませんが、評価の面では難しい面がありますが、ストレート入局が多くなっていた時代に一寸変わった病院であったかもしれません。

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2007.01.22 23:58 |  診療  |  開業 / 病院経営  |  その他(一般)  |  波良張  | 推薦数 : 2

小児科医の子育て

私の父も小児科医でした。私が1歳のときに父は出征していて、5歳のときに除隊して帰ってきました。父は夜討ち朝駆けのような生活をしていました。後年、父の勤務した病院に私も半年務めることがありましたが、当時は、夜に海軍工廠に勤める方々のために病院を開いていたそうです。父との接触は、一日の中でも僅かな時間でした。再度、出征して戦後に復員して来るまでは、父の生死も不明で不安な時期でした。自分の幼少期は戦争と言う特殊事情はあったとはいえとても不安定でした。自分が子どもを育てるときには、そのようなことにはならないだろうと思っていました。長男が生まれた昭和49年から次男(第3子)が生まれた昭和52年11月の頃は、赴任した病院の創成期で実に多忙を極めていました。今でも連れ合いには、父親不在であったと言われています。医師は3人で、新生児救急医療と一般小児医療を行うのは、大変であったとは言え、まともな時間に自宅には不在を意味します。自分としては、子どもとの接触をなるべく図った積もりでも、私の幼少期おりは未だましな程度であったかもしれません。今も、多くの小児科医が自分の労働過重だけでなく、子育ての面でも問題を抱えているのかもしれません。

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2007.01.22 00:02 |  診療  |  開業 / 病院経営  |  その他(一般)  |  波良張  | 推薦数 : 2

子宝に恵まれた

昭和45年に結婚しましたが子宝には恵まれませんでした。つれあいの見せる症状から子宮内膜症を考えて、受診していましたが、妊娠はできませんでした。赴任をした病院で、私を招いて下さった院長は産婦人科で診察をしていただいたら、子宮内膜症で、子宮が癒着により後屈が強いので、手術をすれば妊娠できると言われて、手術をして下さいました。見事に、妊娠できました。先生はやはりなかなか奥様が妊娠されなくて、不妊については勉強もしたし、工夫もしたと仰っていました。ご自分は妊娠が判明してから御長男誕生までに論文を8編お書きになったそうです。私は、8編も書けませんでしたが、嬉しい出来事でした。妊娠中に、つれあいが具合が悪くなったときに、産婦人科医長に相談したら、ドゥファストンを注射するように言われて、病院から持って帰って官舎で注射をしたら脈拍が触れなくなり驚きました。官舎の窓から病院を見ると医師がいるのが見えたので電話をして点滴セットと輸液用の注射液を持ってきてもらい間もなく回復しました。幸い、後遺症的なものもなく無事に出生できました。長男が生まれたのは昭和49年7月でした。その後、つれあいは内膜症による症状も無く、長女、次男を出産しました。今は、3人ともに成人になり、上2人は歯科医、次男は小児科医を目指して後期研修中です。子育ては、色々と経験をさせて貰いました。まさに子宝だと思います。

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2007.01.17 01:29 |  診療  |  開業 / 病院経営  |  その他(一般)  |  波良張  | 推薦数 : 2

尿路感染の研究班で

尿路感染は、検体採取が容易で、病原体を明らかにできて、隠れている疾病も明らかに出来る感染症です。病原体を明らかにするための検査には、色々の課題があります。本当に尿を汚染なく採るにはどのような方法があるのかを考えても必ずしも容易ではありません。尿道口をきれいにして採取する中間尿、同じようにパック尿、カテーテルを使ってとるなどと方法があります。膀胱穿刺もありますが、下手すると腹腔に菌を撒き散らすことにもなるので、自分なりの方法論を確立することが必要です。乳児でパックを貼り付けて尿が出るのを待っていて、出たら直ちにカテーテルを入れて摂り、両者を菌数、菌種を比較してみると十分にパック尿が診断的価値があることを確認できました。生理食塩水で混合希釈した菌数とディップスライド方式と比較したら、これもディップスライドで十分臨床上使えることも確認しました。尿を放置すると容易に菌数が増えることを確認しました。そこで、尿を採取したら直ちに冷蔵庫に入れて低温に保つか、直ぐに培養を行うことにしました。尿路感染と診断できたら、膀胱造影は必須だと考え、行うようにしました。そのようなときに、新潟大学の小林先生を班長とする研究班ができて参加させて頂きました。このときの経験が今も生きていて、尿路感染症の診断に使っています。病院勤務時代は、熱が出たら、親に尿を採らせて、マイクロスティックM3という紙製の培地を持たせておいて、尿にそれを浸して、ビニール製の小袋に入れて、それをお母さんのパンツの内側のお腹に貼り付けて病院にやってくる、つまり体温を利用して培養すると菌数がグラム陰性と陽性に分けて測定できましたし、そこから菌を釣り上げて培養同定もできました。外来でお母さんがパンツの内側から取り出すという、見知らぬ人が見るとぎょっとする風景画ありましたが、有用な方法でした。ところが開業すると、直ぐに患者さんが受診できるので、検体を持ってきてもらうよりも患者さんが来てしまうので、VURのある患者さんに付いての管理は容易になりました。今はベクトンデッキンソンの培地を使って尿の菌数と菌種を容易に診断できるようになりました。

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2007.01.16 04:45 |  診療  |  開業 / 病院経営  |  その他(一般)  |  波良張  | 推薦数 : 1

喘息外来も呼称した

アレルギー学会に入っていて、喘息は増加してきていたので、火曜日の午後に、皮膚テストでアレルギー検査を始めました。プリックテストで背中を使って陽性にでたものを、皮内テストで希釈テストで何倍希釈まで出るかを検査しました。そこから、脱感作を始めました。治療はインタールの吸入を基本にして、テオナP、ベネトリンの内服でした。重症発作例にイソプロテレノールの注射アンプルを切って吸入したりしました。ベクロメサゾンの吸入の治験が始まり、埼玉医大の中山教授に誘っていただいて、埼玉医大の医局員として参加しました。都内の病院でステロイドの内服をしていて満月様顔貌になっていた女児がアルデシンの吸入で経口投与から脱却できて、長期に使いましたが、ACTH負荷テストでも低下はなく、中山先生の書かれた論文に症例を出すことができました。テオナPがテオドールになり、インタールにベクロメサゾンの吸入が加わりました。発作時の治療もコントロールも時代と共に変遷し一緒に歩んできた思いがあります。インタールの液が出て、吸入もサルブタモールが出て、インタールと組み合わせてコントローラーとして使ってみたら、よい結果が得られましたので、愛用していました。テオフィリンの量もおおいときは体重1kgあたり24mgと言う時代もあり、今から考えてみるとよく副作用の例に遭わなかったと思います。

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2007.01.15 01:33 |  診療  |  開業 / 病院経営  |  その他(一般)  |  波良張  | 推薦数 : 1

腎臓外来を呼称した

昭和48年から学校検尿が実施されるようになったこと、周囲には腎臓専門医がいないこと、自分が大学で腎臓外来を担当したこともあって、呼称をしましたが、結局は特に曜日を決めることなく自分が主に対応することにしました。同じ曜日を休むことになると学校で同じ学科が抜けることがあるからです。必要な患者に腎生検をすることにしました。当初はクリオスタットも無かったし、蛍光顕微鏡もなく光学的顕微鏡による所見しか得られませんでした。都立清瀬小児病院での勉強会に組織所見を出すようになったとき、慶応大学病理の坂口教授に組織が厚くて判断が難しいといわれました。病理の先生と色々試みてもらったのですが、診断によい組織標本が無理だとわかったので、診断については、取り付き寄せ小児病院にお願いをすることにしました。病院発足初期に腹膜透析を行いましたが、その後は新生児急性腎不全で一人行って救助したのと、先天性代謝異常で高アンモニア血症の患者さんに腹膜透析を行いました。SLEで慢性腎炎に急性腎不全を合併した患者さんに清瀬から透析器を持ちこんでもらって助かったことがありました。小児腎臓病学会にも演題を何度か出すことができました。新潟大学の小林教授が班長であった、尿路感染の研究班にも入れていただいて、尿路感染症についても知見を得ることができました。

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2007.01.12 02:28 |  診療  |  開業 / 病院経営  |  その他(一般)  |  波良張  | 推薦数 : 0

ケトン性低血糖症

早朝に痙攣を起こして急患で受診する患者さんがいました。何度も起こすので東京大学を紹介し、てんかんとして投薬を受けていました。或る日、当直をしているときに受診されました。血糖を測定してみると確か20mg/dl以下の低血糖でした。鑑別をしようということになり、絶食にしても低血糖にはなりません。むしろ、ケトン食負荷で低血糖が起こりました。グルカゴン負荷でも起こりません。アラニン負荷でも同じでした。低血糖をケトン性低血糖と診断しました。痙攣は、前日完全に夕食をしなかったときは起こらず、むしろおかずだけ摂取したときに起こっていました。この病気を最初に報告されたのは、熊谷道夫先生だった。慶応大学の小児科で、都立清瀬小児病院の院長を勤められました。先生には、直接、お話を伺う機会がありました。以後、気をつけていると、結構、頻繁に診るようになりました。小児科の外来にカルピスを置いていましたが、これはこれへの対策です。今は、チョコレートや飴をおいています。病気と言うよりも、発達途上の問題なのでしょう。其の患者さんは、以後、痙攣をみることもなくなり、抗痙攣薬はやめました。

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