小児看護の経験がある看護婦も少なかったので、看護婦には経験をつみながら育つ必要がありました。点滴の固定の仕方一つにしてもどうすれば漏れないですめか、経験を重ねて、見つけていきました。看護婦からの報告を大事にし、看護婦が不安を持っていればなるべく病棟にいて、それに応えました。看護婦達も新しい病棟を作っていくことが喜びになっていたように思います。看護婦が少ないために、病室を閉鎖することになったことがありました。ところが、入院を断ることは出来ず、結果的に閉鎖した病室もも使うおとになってしまいました。使わなければ、入院できない子どもが行く場所がなかったのです。人口急増の地域ですから、予定入院は少なく、時間外が多く、土曜日も日曜日もありました。新生児の入院も増えてきて、重症が増えてきました。昭和49年9月に、レスピレーターが入るまでは、手でバックを押して人工呼吸もしました。工夫をしたことが生きる、成果があがると次の課題に意欲が高まるということで、スタッフが少しずつたくましくなりました。私達も育ちました。3人で、抄読会、症例検討会をやり、勉強も怠りませんでした。本当に皆で育ったと思います。
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