私どもの病院は所沢保健所管内にありました。所沢市、狭山市、入間市、三芳町が保健所の管轄地域です。でも、未だ埼玉医科大学、防衛医科大学校が本格的に活動をしていなくて、埼玉県西部では小児科医が3人以上常勤でいる病院はなく、とりあえず何でも受け入れることが任務だと考えていました。新生児については、もっと受け入れる施設がなかったのですが、一般小児の患者も似たような事情でした。プライマリケアの場では、初期の患者が現れるかと思うと、専門家により治療が尽くされて、もう方法がなくなった末期の患者さんも来られます。大きな慢性疾患を抱えている患者の急性疾患への対応などもあります。自分が何が専門で、何が専門でないかというのは余り関係ありません。とりあえず受け入れることをやりました。1980年代に入り、ブレンネマンのプラクティス オブ ペディアトリックス に初めてAmbulatory Pediatricsの項目が出てくるのですが、その実践を行っているようなものでした。専門家には、患者さんを通じて連携を求めました。これは、以後、大きな財産になりました。小児専門の医療機関、大学を或る意味自由に選択できたのですから、何でも自分の母校に送る人々よりも精神的に自由だったと思います。今は、専門性が進んだこともあって、なかなか全てを受け入れていただけるとは限りませんが、開業医としての医療のやり方の基本はこの時期に経験できたと思います。
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開院して初期に、岡山大学細菌学金政先生の新生児の院内感染の研究班に入れていただきました。吸引ポンプを研究費で購入して、施設の水道水や色々の水の中の細菌数と菌種を調査しました。水道水は非常にきれいであることがわかりました。水をミリポアフィルターでろ過して、それを培養する方法です。職員の手の付着菌を調査しました。滅菌手袋に滅菌食塩水を20cc入れて、手を入れて握る、広げるを繰り返して、食塩水中の菌数と菌種をみました。医師よりも看護婦の方が手の付着菌は少なく、看護婦は新生児室勤務の看護婦が一番きれいでした。一行為一手洗いを励行していたからです。医師も新生児室を出てきたときが一番菌数が少なく、外来では手を洗っているようでも付着菌はおおいのです。ホギーという会社に空気中の浮遊粒子の大きさと数をカウントできる機械がありますが、それを借りて行ってみると、朝のラッシュの外来の待合室よりも、ラッシュ時の手術場の方が菌数は多いのには驚きました。緑膿菌の群別の抗血清を購入して、新生児の菌を調べてみました。剖検時に臍帯と咽頭から緑膿菌が得られても、群が違っていて感染経路は一つではないこともわかりました。保育器の加湿用の水槽で緑膿菌がでたので、薬局にお願いして滅菌蒸留水を作ってもらっていました。ところが、あるときから、前にもまして菌が陽性になり、調べてみたら薬局の滅菌蒸留水が汚染されていることがわかりました。よく消毒して、水道水に戻したら、菌は陰性になりました。加湿が不要な場合には、水を用いないことにしました。寒天培地を用いたのでは、落下菌は余り、環境の汚染状態を示さないこともわかりました。3年間続きましたが、面白いリサーチができました。結局、手は流水でよくあらうことが、消毒薬を入れた洗面器で洗うよりも効果がよいことがわかりましたし、人工呼吸器の回路をなるべくこまめに消毒した(ガス滅菌)ものと交換して使うことが大事なのがわかりました。水道も湯がでる蛇口は流さないと蛇口に緑膿菌が増えることもわかりました。このときに、論文を沢山読んだことが、勉強になりました。新生児が入院するとルチンに抗菌薬を使う人がありましたが、それは、かえってよくないことから、感染の可能性がなければ使わないことや、培養をこまめに行うことを行うようになりました。
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当時は、救急医療告示病院が急患を時間内、時間外ともに診ることになっていました。開業医の方々も1日に数百人の患者に対応すると言う有様でした。小児科医が必ずいるという病院は近くにはなく、患者が殺到するのは致し方のないことでした。昭和48年度は急患が年間で2600名ほどあり、そのうち約半分が小児科で、それは3人で診ました。急患の中には、院内出生で入院した新生児は含まれていないので、小児科の時間外の診療は大きいことがわかります。昭和48年12月30日は約130人の急患が来て、そのうちの一人は入院後に死亡しました。福岡県で出生し、大学病院に入院していて、退院して飛行機で羽田に着き、着いた時に痙攣があり、羽田から直行して入院して亡くなりました。黄疸が強いと言われていたそうで、脳内出血でした。当時は、超音波、X 線CTもなく、画像診断が出来ていませんでした。一人では診ることができない数ですから、小児科は3人で診ました。開院したときは、蘇生用のバッグ&マスクもなく、それを購入し、新生児にCPAPが出来るようになり、昭和49年9月に新生児用の人工呼吸器が入るのですが、機器整備と新生児の救助率は平行して向上してきました。
それでも、所沢保健所管内の新生児死亡の27%しか、我々のところでは死亡していないので、我々が本当に地域の新生児施設になるのには、当院での死亡がもっと大きな割合になり、かつ実数が減ることだと報告しました。新生児医療について、学びに行く時間的余裕がありません。1日国立岡山病院を訪ねて山内逸郎先生にお会いして来ました。
それでも、学ぶところは大きく、患者を通じて学びました。
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昭和48年夏でした。近くの小学校の児童が入院しているときに学校長が見舞いに来られました。病院内学校の必要性を話すと、その校長はいとも簡単に『作りましょう』と言われます。学校長は県や市の教育委員会に働きかけてくださり、私は病院長を通じて厚生省に申し出て、結局、昭和49年4月に開学級になりました。以来、平成3年5月に退職するまで、病院内学級は継続されました。入院しているこどもにとって、学校に繋がっていることは少し大げさに言えば、生きる希望になります。市は病院内に鉄筋2階建ての4室ある学校を作りました。今は、利用者が減って、学校は閉鎖されていますので、残念です。昭和49年当時では、病院内学級を持っているのは珍しい方でした。子どもが学校に行っていると、治療や検査が制限されたり、学校行事が優先になりますが、それでもメリットは大きかったと思います。
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昭和48年当時は、救急指定病院かどうかということで、救急指定病院だと毎日が当番のようなものでした。検査、放射線、薬局が全部が体制がとれればよいのだが、人数が少ない、超過勤務が多くなりすぎるなどで、医師以外は揃わずでした。そこで、自分でやることになります。ついでにケースワーカー等もかねてやれば、仕事のレベルは落とさずに済みます。幸いに、何をやっても法的には咎められることはなく、医者はなんでもできるのです。夜は薬局に入り、自分で調剤し、検査室の医はいり自分で検査を行い、レントゲンは自分で撮る、ことに慣れました。産婦人科の医師が検査技師を呼んで妊娠反応をやらせる、小児科の医師が自分で妊娠反応を行うということもありました。
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当時は、既に四頭筋萎縮症などが有名になっていたにも、関らず、注射を希望する親があとを絶ちません。注射をする、点滴をすることが好い治療の代表のように思われていたようでした。解熱剤の注射を断ったら、怒った親がドアのガラスを割っていったこともありました。そこで、外来に掲示を出すことにしました。題して、『注射の好きなお母さんへ』
注射は次のような場合に行います。
1)注射でしか効かない薬を使う
2)効果を急ぐ場合
3)気休め
当院では気休めに注射を行っていません。
これを掲示して暫くすると、流石に注射をして欲しいという人はいなくなりました。よく、患者が抗生物質を欲しいと言うのでやむなく処方するという医師がいますが、それは医師が悪いと思っています。日頃から、どのような場合に抗菌薬を使うかを説明して処方し、情報を提供すれば、それでも欲しいというう人は非常に稀です。昭和48年の経験でした。
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