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昭和48年3月31日、教授が最後の出勤をされ、玄関でお見送りをして、その足で中古で買った日産サニーに打ちまたがり、宮崎県日向市に向かいました。そこからフェリーに乗り、翌日川崎に着きました。1日を家内の実家で過ごし、翌日、所沢に向かいました。田舎者は本物の高速道路を走ったことがなく、第三京浜を60km/hで走り、青梅街道、所沢街道と本と時々止めて人に聞きながら走り、無事、新病院に着きました。未だ官舎が完成していなくて、住めずでした。二つの病院が合併して新しい場所でのスタートで、もう両病院からの引越しは終わっていました。二つの病院にあった診療科、新しく設けられた診療科があり、病院は騒然としていました。
小児科の病棟婦長は私が生まれたときにはもう看護婦になっていたという超ベテラン婦長さん、小児科の看護婦は国立小児病院から移ってきた一人を除いて、全員が小児科病棟は初めてというフレッシュ?な陣容で、旧国立所沢病院には小児科は存在していて、新設ではないので、何も新しいものはなく、10のクベースと10のコットがあり、病棟には32のベットが入っていましたが、柵つきが少なく、安全性は確保されていず、見事に何もありませんでした。聴診器、舌圧子、血圧計、手洗いの洗面器を入れる台、蘇生用のバック&マスク
など、見事に何もありませんでした。点滴セットも小児用はなく翼状針を含めての留置針もなし、勿論、輸液ポンプなどもありません。6階の開棟できない病棟に、両病院から持ってきて、既存の科で使わない不要のものがあったので、そこから使えるものを集めることが最初の仕事になりました。
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新しい病院は埼玉県西部の所沢市にあり、人口は18万人台、隣接の入間市、狭山市、大井町などを含めても30万人位が診療圏と考えられ、当時、埼玉県は沖縄についで人口当たりの医師数が少ない地域でした。首都圏で、都内には有数の病院があり、いわゆる団地型のプライマリケアの場であろうと考え、新生児から思春期まで扱う、何でもある八百屋小児科の実践だと考えました。また、患者さんを可及的にプロスペクティブに診たいと考えました。若し、可能ならリサーチもやろう、それは患者さんにフィードバックできるものをやろうと考えました。他の医師がどのような方々がおられるかわからないし、熊本とどのように違うのかもわかりませんでしたが、少しだけ、期待と希望を持っていました。院長からは東京が近いので、勉強できる学会などにも、沢山参加できると言われていました。でも、若し、病床が満床であれば、とても忙しくて病院を離れることはできないだろうと考えていました。大学とは遠いので、自分の母校に簡単に頼ることはできませんが、それだけにいつも緊張感がもてるだろうと思っていました。
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診療の充実を意図して、外来に心臓、呼吸器(喘息)、神経、腎臓の四つの特殊外来を設けることになりました。自分の患者で腹膜透析をしたことから、腎臓に興味を持ったこともあり、先ず、勉強しながら患者さんを診ることを始めました。3年後輩の方が新潟大学に腎臓の勉強に行ってくれました。腎生検の手技は久留米大学の山下先生に教えていただきました。腎生検をする前の日は、斎戒沐浴とはいきませんが、酒は絶対に呑まない、解剖学の本で確認をする、りんごやソーセージで練習をしました。当時は超音波もないので、造影剤を点滴しながら、部位を確認して刺したこともあるのですが、腎臓の外に造影剤が流れるのを見たことがあり、腎生検が決して安易に行うべきでないと思いました。小児腎臓病研究会にも出るようになりました。誰が一番の師であったかというと、やはり患者さんであったように思います。昭和43年に最初の腹膜透析例を経験しました、そのときに、北里大学の酒井先生に教えていただいたのですが、数人の慢性腎不全を経験しましたが、腹膜透析で溶血性尿毒症性症候群
の患者がキュアされました。ポリオの免疫の研究は、何も結果を出すには至りませんでしたが、患者さんを通じてのアプローチだと、自分の知識が増えることえを実感できる、知りえたことが患者さんにフイードバックができることで、自分が育っていることを実感できました。昭和48年、大学を辞して埼玉に出たのですが、出先でも腎臓病に対する学びは続けることができましたし、今も、継続できています。
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私の祖父が昭和45年に亡くなりました。84歳でした。学歴は小学校卒ですが、大正時代に現在のソウル(当時は京城と呼んだ)で醤油味噌製造販売を始めました。苦労はあったそうですが、何とか経営が順調になったときに、戦争が始まり、終戦、全ての財産を失って九州に戻ってきました。戦後は山を拓いて畑をつくり農業をしました。ソウル時代に、仏教に帰依するようになり、念仏精神なる祖父の概念ができて、それを私に教育しました。それが自分を律することの一部にはなっています。次第に衰え、経口摂取もままならず、枯れ木が倒れるように亡くなりました。祖父の最後の鼓動を聴診器で聞きました。平成4年、父が80歳で肝臓がんで死亡しましたがやはり、最後の鼓動を聞きました。祖父の葬儀の日は、臨床ウイルス研究会を教授が会長として開催される日でした。準備のこともあったので、私は葬儀には出ないで、熊本に戻り、学会の運営にあたりました。
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溶連菌感染の診断はこの頃は、菌の培養かASOを測定することが行われていました。某会社から、ASKを測定するキットが発売されました。ASOとASKを同時に測定してみますと、ASKの方が上昇が早いように思いました。そこで、血清を2メルカプトエタノールで処理して検査をするとASKは2ME感受性抗体を捉えていることがわかりました。それを、雑誌に投稿しました。教授の校閲は得ていました。或る日、教授が非常に喜んで私を呼ばれて、話されました。それは、私の小論文を九州大学の人が引用していたということです。疫痢論争の時には、大原菌の論文は引用して貰えなかったが、お前の論文は引用して貰えたと言われるのです。今になって考えると、私は引用してくださった論文を読んでいません。
暫くはASKを使っていましたが、今は迅速診断が第一選択になりASOもASKも測定することは稀になりました。紛争時代で、研究が出来ない時代になっていた頃でしたから、教授には、なにか結果がついていることが嬉しく感じられたのでしょう。
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何時の頃からか、九州内の5大学、つまり九州大学、長崎大学、久留米大学、鹿児島大学、熊本大学の野球大会を行っていました。九州小児科学会を機に開催されていて、和光堂がスポンサーで、優勝旗も立派なものがありました。学会の懇親会よりも、野球の方がより親睦を深められていたと思います。大分で行われたときは、久留米大学と引き分けになり、9人でじゃんけんをして、最初の5人で勝負がついてしまいました。久留米大学の勝ちでした。私も出ましたが、太っていたので、ネフローゼ坊やと野次られました。剣道をやっていたので、面をかぶるのは慣れているだろうとキャッチャーをやらせられ、盗塁されても、なかなか刺せませんでした。山下文雄先生に『原君は名医になるよ、ひとりも殺さんもんね』と言われたくらいです。産学協同反対で和光堂の優勝旗を使わない、スポンサーも断ることになりました。すると野球大会が消えます。教授に提案して、大会は継続すること、5大学の教授に1万円づつ出していただいて優勝旗を作ることを貴田教授から提案していただきました。九州大学永山教授、長崎大学浅野教授、久留米大学船津教授、鹿児島大学寺脇教授、熊本大学貴田教授の出資で、熊本のメーカーで作ってもらいました。確か、5大学と書いてあるはずです。その後、産業医科大学、福岡大学医学部、佐賀医科大学、大分医科大学、宮崎医科大学、琉球大学、熊本大学発達小児科に講座が増えて、それでも大会は継続しているそうです。
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