2006.10.29 01:31 |  診療  |  開業 / 病院経営  |  波良張  | 推薦数 : 0

宮古島の心臓病の子どもと

自分達の健診が終わり、那覇に戻って、宮古島の心臓病の子ども達が全て弁膜症であるために手術の対象になっていないことを琉球政府の人に訴えて、今からでも対象者に加えて欲しいことをお願いしたが、既に人選は終わっているので次年度から検討すると言われました。一人でも救えたらと思い、熊本大学病院の当時の院長(整形外科玉井先生)に手紙でお願いしたら年に数人ならば学用患者のワクで何とかしようと言って下さいました。それを宮古の教育委員会に伝えました。当時は、熊本大学の第二外科が心臓手術を行っていました。熊本に帰ってから、宮古島から連絡があり、一人希望者が居るとのことで、先ず、心臓カテーテル検査に来ることになりました。小学校2年生の男児でした。カテーテル検査の結果は心房中核欠損で手術可能でした。一度、宮古島に帰ることになりました。医療費は学用で行われても、両親の渡航費、滞在に必要な金が必要です。そこで、当時の屋良主席に手紙を書いて援助方をお願いしました。すると、返事が来て、援助は出来ないが無利子で20年分割返済で1500ドルを貸し出すことは可能との返事でした。患者さんの学校長に熊本はこんなところですと、熊本の絵葉書を買えるだけ買って送りました。校長からは、宮古島には山も川もないので阿蘇の雄大な景色は何よりの教材だとして、学校内に展示したこと、5セントカンパでお金を集めたことをお返事頂きました。手術には血液が必要なので、ガリ版を切って協力を呼びかけましたら、70人以上の人が応募してくれました。

そして、患者さんはやってきました。輸血用の血液も揃いました。ところが、手術後の経過がよくなくて患者さんは不幸の転機をとられました。お父さんは戦後、爆弾をいじっていて爆発して指がなく文字が書けません。お母さんは文盲でした。

外科医に死亡診断書を書いてもらい、お父さんと一緒に市役所に行き死亡届を出し、埋葬許可書を貰い、火葬場を予約しました。沖縄出身の看護学生と両親と私で大学病院の霊安室でお通夜をして、翌日火葬場に行きました。嘆く両親と火葬して、お骨を持った両親を熊本駅まで送りました。数ヵ月後、私に手紙を書くために文字を練習したと言うお母さんの手紙が届きました。ありがとうと書いてありましたが、お母さんがどんな思いで書いたことでしょう。それから、もう宮古島からは誰も来ませんでした。私の願いに答えてくださった病院長はもう故人になられました。その患者さんのために動いてくださった沢山の方々の厚意が実らずに残念でした。実は、私はこのときに肝臓が悪くなっていました。日赤から電話があり採血した中で使えない人がいるというのです。名前を聞いたら私でした、患者さんはOでした。それで、私も出したのですが、当時は肝機能をスクリーニングに使っていました。それで、私の肝臓障害がわかったのです。脂肪肝だったのだと思います。以後、半年、飲酒をやめて、やせることに努力したら正常に復しました。私の行動に対して患者さんは報いてくださったと思います。なんとも悲しい幕切れでした。

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琉球が日本に復帰することが決まり、琉球の子ども達の健康状態を調査することが、総理府の仕事として行われました。昭和41年からだと記憶しています。九州の国立大学の九州大学、長崎大学、熊本大学、鹿児島大学と公立の九州歯科大学から、小児科、皮膚科、耳鼻咽喉科、眼科、歯科の医師と歯科医師が総理府から派遣されて、5年間で琉球全土にわたり調査をしました。初年度は内科の医師も派遣されたと思います。いわゆる学校の定期健康診査を行う形でした。最初の年に、昭和39年に琉球で流行した風疹によって、多数の先天性風疹症候群が発生したことを、後に九州大学の小児科教授になられた、植田先生が気がつかれ、九州大学の永山先生が主宰されていた教室の方で、それが解明されました。そのことは久留米大学小児科名誉教授の山下文雄先生がブログ『命の樹』にもお書きになっています。私が参加したのはその4年目で、昭和44年の5月でした。このときは、2班、すなわち宮古島班と石垣島班に分かれました。私は宮古島班になりました。未だ、復帰前で、パスポートが必要でしたし、1ドル360円の時代でした。九州は5月の晴れた日でしたが、宮古島は梅雨のさなかでした。那覇でオリエンテーションを受けてから、宮古島に渡り、毎日が健診でした。内科健診は理学的所見をとり、必要に応じて心電図、検尿などを行いました。前の3年間で、そけいヘルニアの有無がデータになっていましたので、小学校1年生から中学校3年生まで全員パンツの中をみました。医師になって5年目の経験でしたが、私にとって非常に大きな体験をしたことになりました。皮膚科の医師は視診でレプラの患者さんを診断しましたし、26もの疾患を鑑別してリストアップしていました。今、私どもが学校健診で26もの皮膚疾患を診断できるでしょうか。当時宮古島は人口が約7万人だったと思います。医師は非常に少なく、戦後、医師が不足したために、戦時中の衛生兵などを医介補として医療に従事することを認めていたのが、本島ではすでになくなっているのに宮古島では未だ認められていて、その方々を加えても10数名でした。保健所所長は開業しておられましたし、現在の県立宮古病院は200床で3人の医師で、見学を申し込んだらとても対応できないとして断られました。平良小学校を皮切りに始まりました。最初は、打聴診を行いました。教室や体育館なので、打診をしても音がうまくとらえられません。時間もかかり、他の診療科を大幅に待たせることになりました。長崎大からの先生と相談して2校目から打診を原則的にはやめました。すると、2校目の健診の後の話し合いで、昨日行っていた打診をやめたことを、咎められました。理由は、先述のように述べたのですが、決して不必要なものではないので、申し訳なさがいつもありました。私は、医師になってから打診を常に診療の場ではルチンに行ってきました。その有用性も若い人には述べていますが、この期間は意識的に省いたことは今も、しこりにはなっています。尤も、多良間島では、打聴診で胸膜炎の生徒を見つけて、船で宮古病院に送りました。心雑音がある場合には打診は必ず行いました。石垣島班には九州大学から循環器専門の先生が来られていて、心音だけで、肺高血圧があるなどの病態の診断もされていました。私どもは、心室中核欠損、心房中核欠損、動脈管開存などと診断しても後ろに?をつけていました。同じ健診に参加しても、腕の違いをまざまざと知りました。宮古島で、私どもが診断した人はそれまでは、全て心臓弁膜症とされていました。当時、九州大学と鹿児島大学で先天性心疾患の子どもが毎年、国費で手術的治療を受けていたのですが、診断が心臓弁膜症になっていたために、誰一人手術の対象になっていませんでした。医師が的確な診断を行わないと患者が不利益をこうむる例です。また、チアノーゼがある患者さんは一人もいなくて、自然淘汰されて重症心疾患の方は生きられなかったのだろうと思いました。教科書は持って行ったのですが、自分にトータリティがないことをまざまざと知らされました。6月の初めに熊本に戻るまでの約1ヶ月の毎日は勉強になったと思います。

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