折角沖縄に行くのだからと思い、沖縄の歴史の本を買って読みました。宮古島は琉球王朝と薩摩の二重支配を受けていて、或る一定の身長に達したら税金がかかるという悪法がなんと明治時代までまかり通っていたのです。人頭税と言うのですが、その基準になる石が平良市にあります。九州大学の植田先生が見出された風疹の大流行と先天風疹児の多発は宮古島でもありました。その子ども達に、補聴器を売るのに、最初は安いもので、好い商品が出たからといって、何度も本土から来て売りつけたのだそうです。ヤマトンチューは悪い人ばかりだとあちこちで聞きました。未だ、マイクロウエーブが開通していなくて、宮古島のテレビはビデオで送られた内容を放送していました。それでも、テレビは売れていたのですが、小さなテレビだと上と下が切れて見えないからと騙して大きなテレビを売りつけたそうです。やはりヤマトンチューはあてにならないと言われていました。復帰を記念して佐藤総理が約束してテレビの同時放送が可能になりました。何処の学校にも復帰を前にして共通語を話そうという運動がポスターなどで読み取れました。標準語といわずに共通語と言うのはうれしく思いました。標準語が喋れないというとコンプレックスを持ちますが、共通語といわれると地方を優先しているように思えるからです。何処の学校でも反省会で、子どもの身長が本土の平均に比べると小さいのでどうすれば伸びるかと質問されました。私が、宮古島でも親よりも子どもが高くなる現象は見られているので、心配はないこと、むしろ本土よりも、肥満や喘息が少なくて健康だと答えて、身長も本土でも県による差があり、民族学的な特徴だと思うと答えたら、折角、復帰を考えているのにと不評を買いました。本島では基地の問題、戦後処理の問題を実感しました。ときどき見るテレビでの宮古島は道路も舗装され、大きな橋もかかり、ホテルも出来て観光の島になっています。当時、健診をした子ども達も、最も若い人でも44歳になっています。どんな大人になったかなと思います。
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医師の数や質が確保できなくて、病気をしても医療を容易に受けることが出来ない事情の下では、優れた診断力を持つ学校医の診断は有用です。九州大学の植田名誉教授は学校健診を通じて先天風疹の大量発生を診断されています。ところが、その逆はかえって児童生徒へ不利益を与えることは宮古島の心臓病が全て弁膜症になっていたことでもわかります。学校医は診断力に長けていなければなりません。アメリカ小児科学会の学校保健の目標の第一にプライマリケアのアクセスを確保するとあるように、1年に1回の定期健康診査では間に合わない健康問題の発生には、学校内部では解決はできないので、プライマリケア(質のよい)に如何にアクセスを促すかが大事だと思います。その結果を如何に学校にフィードバックさせて、かつ学校がその結果を有効利用するか、連携を持つかが大事だと思います。宮古島では自分のトータリティが問われました。それは、日頃の診療におけるのと全く同じです。九州大学でベッドサイドティチングに作られた教科書に子どもはどの患者も同じように基本的に権利を持っていると項目が書かれています。それは、医師には義務があることをさしています。プライマリケアとは?という大きな命題をあたえられたのが健診に参加した結果だと思います。
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自分達の健診が終わり、那覇に戻って、宮古島の心臓病の子ども達が全て弁膜症であるために手術の対象になっていないことを琉球政府の人に訴えて、今からでも対象者に加えて欲しいことをお願いしたが、既に人選は終わっているので次年度から検討すると言われました。一人でも救えたらと思い、熊本大学病院の当時の院長(整形外科玉井先生)に手紙でお願いしたら年に数人ならば学用患者のワクで何とかしようと言って下さいました。それを宮古の教育委員会に伝えました。当時は、熊本大学の第二外科が心臓手術を行っていました。熊本に帰ってから、宮古島から連絡があり、一人希望者が居るとのことで、先ず、心臓カテーテル検査に来ることになりました。小学校2年生の男児でした。カテーテル検査の結果は心房中核欠損で手術可能でした。一度、宮古島に帰ることになりました。医療費は学用で行われても、両親の渡航費、滞在に必要な金が必要です。そこで、当時の屋良主席に手紙を書いて援助方をお願いしました。すると、返事が来て、援助は出来ないが無利子で20年分割返済で1500ドルを貸し出すことは可能との返事でした。患者さんの学校長に熊本はこんなところですと、熊本の絵葉書を買えるだけ買って送りました。校長からは、宮古島には山も川もないので阿蘇の雄大な景色は何よりの教材だとして、学校内に展示したこと、5セントカンパでお金を集めたことをお返事頂きました。手術には血液が必要なので、ガリ版を切って協力を呼びかけましたら、70人以上の人が応募してくれました。
そして、患者さんはやってきました。輸血用の血液も揃いました。ところが、手術後の経過がよくなくて患者さんは不幸の転機をとられました。お父さんは戦後、爆弾をいじっていて爆発して指がなく文字が書けません。お母さんは文盲でした。
外科医に死亡診断書を書いてもらい、お父さんと一緒に市役所に行き死亡届を出し、埋葬許可書を貰い、火葬場を予約しました。沖縄出身の看護学生と両親と私で大学病院の霊安室でお通夜をして、翌日火葬場に行きました。嘆く両親と火葬して、お骨を持った両親を熊本駅まで送りました。数ヵ月後、私に手紙を書くために文字を練習したと言うお母さんの手紙が届きました。ありがとうと書いてありましたが、お母さんがどんな思いで書いたことでしょう。それから、もう宮古島からは誰も来ませんでした。私の願いに答えてくださった病院長はもう故人になられました。その患者さんのために動いてくださった沢山の方々の厚意が実らずに残念でした。実は、私はこのときに肝臓が悪くなっていました。日赤から電話があり採血した中で使えない人がいるというのです。名前を聞いたら私でした、患者さんはOでした。それで、私も出したのですが、当時は肝機能をスクリーニングに使っていました。それで、私の肝臓障害がわかったのです。脂肪肝だったのだと思います。以後、半年、飲酒をやめて、やせることに努力したら正常に復しました。私の行動に対して患者さんは報いてくださったと思います。なんとも悲しい幕切れでした。
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琉球が日本に復帰することが決まり、琉球の子ども達の健康状態を調査することが、総理府の仕事として行われました。昭和41年からだと記憶しています。九州の国立大学の九州大学、長崎大学、熊本大学、鹿児島大学と公立の九州歯科大学から、小児科、皮膚科、耳鼻咽喉科、眼科、歯科の医師と歯科医師が総理府から派遣されて、5年間で琉球全土にわたり調査をしました。初年度は内科の医師も派遣されたと思います。いわゆる学校の定期健康診査を行う形でした。最初の年に、昭和39年に琉球で流行した風疹によって、多数の先天性風疹症候群が発生したことを、後に九州大学の小児科教授になられた、植田先生が気がつかれ、九州大学の永山先生が主宰されていた教室の方で、それが解明されました。そのことは久留米大学小児科名誉教授の山下文雄先生がブログ『命の樹』にもお書きになっています。私が参加したのはその4年目で、昭和44年の5月でした。このときは、2班、すなわち宮古島班と石垣島班に分かれました。私は宮古島班になりました。未だ、復帰前で、パスポートが必要でしたし、1ドル360円の時代でした。九州は5月の晴れた日でしたが、宮古島は梅雨のさなかでした。那覇でオリエンテーションを受けてから、宮古島に渡り、毎日が健診でした。内科健診は理学的所見をとり、必要に応じて心電図、検尿などを行いました。前の3年間で、そけいヘルニアの有無がデータになっていましたので、小学校1年生から中学校3年生まで全員パンツの中をみました。医師になって5年目の経験でしたが、私にとって非常に大きな体験をしたことになりました。皮膚科の医師は視診でレプラの患者さんを診断しましたし、26もの疾患を鑑別してリストアップしていました。今、私どもが学校健診で26もの皮膚疾患を診断できるでしょうか。当時宮古島は人口が約7万人だったと思います。医師は非常に少なく、戦後、医師が不足したために、戦時中の衛生兵などを医介補として医療に従事することを認めていたのが、本島ではすでになくなっているのに宮古島では未だ認められていて、その方々を加えても10数名でした。保健所所長は開業しておられましたし、現在の県立宮古病院は200床で3人の医師で、見学を申し込んだらとても対応できないとして断られました。平良小学校を皮切りに始まりました。最初は、打聴診を行いました。教室や体育館なので、打診をしても音がうまくとらえられません。時間もかかり、他の診療科を大幅に待たせることになりました。長崎大からの先生と相談して2校目から打診を原則的にはやめました。すると、2校目の健診の後の話し合いで、昨日行っていた打診をやめたことを、咎められました。理由は、先述のように述べたのですが、決して不必要なものではないので、申し訳なさがいつもありました。私は、医師になってから打診を常に診療の場ではルチンに行ってきました。その有用性も若い人には述べていますが、この期間は意識的に省いたことは今も、しこりにはなっています。尤も、多良間島では、打聴診で胸膜炎の生徒を見つけて、船で宮古病院に送りました。心雑音がある場合には打診は必ず行いました。石垣島班には九州大学から循環器専門の先生が来られていて、心音だけで、肺高血圧があるなどの病態の診断もされていました。私どもは、心室中核欠損、心房中核欠損、動脈管開存などと診断しても後ろに?をつけていました。同じ健診に参加しても、腕の違いをまざまざと知りました。宮古島で、私どもが診断した人はそれまでは、全て心臓弁膜症とされていました。当時、九州大学と鹿児島大学で先天性心疾患の子どもが毎年、国費で手術的治療を受けていたのですが、診断が心臓弁膜症になっていたために、誰一人手術の対象になっていませんでした。医師が的確な診断を行わないと患者が不利益をこうむる例です。また、チアノーゼがある患者さんは一人もいなくて、自然淘汰されて重症心疾患の方は生きられなかったのだろうと思いました。教科書は持って行ったのですが、自分にトータリティがないことをまざまざと知らされました。6月の初めに熊本に戻るまでの約1ヶ月の毎日は勉強になったと思います。
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これも5年目のときの話です。教授の診察を受けた患者が、医療費を支払う段階になったら持っておるお金が足りなくなったので、何とかして欲しいと会計係から電話があったので行ってみると、妙齢の和服姿の婦人が立っていて、処方箋を書き直して欲しいと言われるので、小児科に戻っていただいて、カルテを見ると、溶連菌感染症で、当時発売になったばかりの、セフェム系の最初の薬剤が2週間分出ていました。そこで、その方に溶連菌ならばペニシリンの方が有効性が高いし、薬価も低いので、ペニシリンに替えてよいかと話すとよいと言われるのでその様にしました。このときに、溶連菌感染症については説明をしました。勿論、教授の了解を得るべく連絡したら、教授は出かけられた後でした。そして、その方が会計をする段になったら、今度は随分安価なのに驚かれて、またもや呼び出されて、『私に金がないからと馬鹿にしたでしょう。家に帰れば金はあります。』と泣きながら、将に柳眉を吊り上げての怒りです。薬の効果は金額でないこと、溶連菌にはペニシリンで何の不都合もないことを、はなしても、信用しては貰えませんでした。結局、セフェム系をお金のあるだけの日数にして後日、再診をしてもらうことにしましたが、若い医者は若いと言うだけで信用されないのだと思いました。
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昭和44年大学の助手になりました。正式には文部教官助手でした。給料は手取り36000円ありませんでした。この頃は、1ドル360円の時代で100ドルなかったということです。助手になるまで、貧乏で、電気釜と電気コタツを持っていただけでした。給料で3ヶ月月賦で洗濯機を買いました。日立のあおぞらという奴でした。これは結構使えて、昭和50年ごろまで使えました。電気がまは昭和41年に2500円くらいで買ったのですが、これも昭和50年代まで使えて、最後に修理にもって行ったらナショナルの人が博物館行きだと笑っていました。夏に扇風機を買いました。娯楽はヤングセブンというトランジスターラジオを持っていました。文明の利器はこれくらいでした。学会に行ったりするとお金がなくなり、貧乏だなと思いながらも結構楽しくやっていました。助手になり、学園紛争の流れで、研究らしい研究もせず、診療と学生の教育が中心のような生活でした。それでも、結構、忙しかったように思います。
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我々が学生時代には、4年生か5年生で臨床の系統講義が始まり、5年生の秋から、ポリクリが始まりました。また、この頃から臨床講義が始まりました。午前中ポリクリで午後が臨床講義と言う日が多かったと思います。卒業試験は臨床のみで、ペーパーテストがある科もあれば面接試験だけの科もあり、終わって卒業でした。それが、我々が院生の間にスモールグループティチーングとして、講義や実習を兼ねたものが行われるようになり、非常勤講師が大学のスタッフに加わってカリキュラムが組まれていました。教官同士の講義内容が打ち合わされているわけではなかったので、提案して、受け持つ人がテキストまがいのものを作ることにしました。私は治療学、感染免疫、膠原病と作った覚えがあります。当時はワープロが未だ無いので手書きの原稿を渡して、ガリ版刷りのテキストでした。内容は盗作で訴えられかねない図表や記述でしたが、一応、皆、出典は明らかにしていたと思います。これで、教授には医局員の講義内容が把握できる。教官同士が他の人の内容を知ることができる。学生はノートをとるのは、これに加える内容であって、手元に資料が残ることになり、私が大学を離れてからも、学生が自主的に作っていたそうです。大学院4年生のときに、治療学の慶応講義をした覚えがあります。詫間先生が編集されていた、金原出版の差し替え式で途中で継続されなくなった本がありましたが、それを下敷きにして作ったものでした。この頃に、小児科学は国家試験の必須科目に入りましたので、教育でのニーズも高まってきたところでした。
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