呉市には父方の叔母が3人の従男達との5人家族で済んでいて、夫婦は熱心なキリスト教信者でした。叔母が日曜日に来て教会に行くことを勧めます。予定のないときには、おばに連れられて行きました。学生時代にも、大学内で聖書をもらえることがあったり、何度かは通ったこともありましたので、嫌ではなかったのです。或る日、関西から教授の方が見えてお話をされるというので、行きました。前夜、病院の整形外科の患者さんが亡くなられて、私は、当直で必死になって蘇生を試みたのですが効を奏しませんでした。教会に行くと、その方が、そこの信者さんだったのです。最初に、皆で祈りました。教授の話が終わった後、叔母が私をその教授に遭わせて、『私の甥で医者をやっています。何かお言葉を』と言うと、教授は『何か質問はないですか?』と言われるので、『昨夜、何とか死なせたくないと思い、努力したが甲斐はなく亡くなられた、此処では、神の意思で天に召されたと言う、であれば、私の行ったことは、神の意思に対してどのような意味を持つのか』と聞きました。『教授は、神は本人は勿論、全ての人が最大の努力をすることを望んでおられて、君が努力をしたのも、神の意思だ』と言われるので、『では、私は努力さえすればよいのか、若し、間違ったことを行っても、努力をすれば神はお許しになるのか』と尋ねると『あなたは、惜しい、もう少しで良い信者になれる』と言われて、愛は神から生まれると色紙に書いてくださいました。浄土真宗の、善人もて、往生す、いわんや悪人をや、について質問をしたら、それは比較宗教学の世界だと逃げられました。教会で、証しというのをやりますが、反省しやすいことを反省する、するとそのような些細なことを反省して、あの人は好い人だと言われる。でも、もっと、簡単に反省できないこと、大罪、自分も気がついていない罪、をどうするのかが宗教だろうと思うと教授に話をしました。叔母夫妻に貰った聖書は今も診察室の本棚にあり、ときに読みますし、患者さんに読んで貰う事もたまにはありますが、信者ではありませんが、教会に通ったことは悪い経験ではなかったと叔母に感謝しています。
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