私が、初めて日本小児科学会で報告をしたのは、名古屋市立医科大学の小川次郎先生が会長の医学界総会のときでした。新生児の発表を特別に集められたので、私が経験した症例を出すことになりました。副腎出血〔右〕の剖検例でした。つい最近、自分の名前で検索をしたら、新生児学会雑誌の3巻1号に掲載されているのが出てきて驚きました。大学で当直をしているときに、夜、産院から呼吸困難として送られてきた患者で、間もなく死亡となりました。黄疸はさほど強くなかったのですが、落陽現象があり、貧血もあり、核黄疸、腹腔内出血を考えましたが、右副腎出血でした。患者もそうでしたが、骨盤位分娩に多く、左の副腎静脈は腎静脈に流入するが、右は直接下大静脈に流入するので、骨盤位で大静脈に圧がかかると、右に出血を来たしやすいことが文献からわかりました。急性副腎機能不全になるので、あたかも肺炎のような病状を呈することから、Pseudneumoniaと呼ばれることなどもわかりました。医局の症例検討では、核黄疸はまぐれ当たりと言われましたが、落陽現象があったので、必ずしもまぐれではないと言い張り、あとで、教授が他の会では、私がうまく診断をしたと話されていました。病理の担当の先生がなかなかまとめてくれなくて、解剖学的に右と左の静脈系の違いや、副腎の中心静脈というと、中心静脈は肝臓にしかない、と言い張られるので解剖の教科書を持っていって納得して貰ったりしました。それを学会で発表しました。
関西医大の松村教授が座長でしたが、高名な新生児専門の先生方に私の症例についても質問され、私は何も追加発言の機会も得ませんでした。初めての日本小児科学会は症例報告でした。入局2年目でした。
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インターン時代は、特別のカリキュラムがあるのではなく、毎日の仕事をこなしながら覚えていく、格好よく言えTraininng in the jobでした。これだと、研修を受け側のモチベーション、指導医との相性、指導医のモチベーションで同じ施設であっても結果的に研修内容に大きな差がでることになります。やはり、カリキュラムはあった方がよさそうです。少なくとも最低のレベルは確保できるでしょう。入局して、大学でも同様でした。個人の意思に任されていました。4年後に何が出来るようになっているかという到達目標は設定されていなくて、個人が目標をたてて、自分で求めるということになります。抄読会が月に1回、退院患者のカンファレンス、教授、助教授回診での、教授や助教授からの質問が、日頃の勉強の機会でした。受身的になると極めて効率の悪いシステムでした。出向した病院での経験も、運であった思います。教授からは、免疫のテーマを貰いながら、教えて呉れる人は周囲にはいなくて、自分で本を読んで知識を得ていました。個人の情報収集の能力には限度があり、これも効率はよくなかったと思います。出向先で、臨床で最も学んだのは、感染症についてのことと、水と電解質でした。ギャンブルの同名の訳本が最も参考になった教科書でした。輸液はありきたりのものでなく、自分で組み合わせてつくることもこのときに覚えました。2年間で論文らしきものを少し書きました。恐らく九州大学の伊東教授の大正時代の自家中毒の論文がドイツ語であることを知っていることと、それを読んだ数少ない人の一人であろうことは、よい経験になったのだと思います。効率よく人を育てるには、我々の時代ようでは駄目で、システムと教育者を備えるべきだと思います。
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昭和39年4月から40年の4月から大学で6月まで、6月から41年1月まで呉共済病院で、1月から3月まで大学でと、いうことになるのですが。自分としては恵まれていたと思います。まがりなりにも、今ある診療科では脳神経外科、形成外科は当時はありませんでしたから、研修は出来ませんでしたが、臨床検査科、放射線科を含めて研修できました。耳鼻咽喉科や眼科は短かったのですが、眼底をみたり、鼓膜をみたりしたことは、以後も自分で見ることを続けられました。臨床医学の基本は内科にありと感じましたので、インターン時代から内科という雑誌を継続して読みましたし、教科書も購入して読みました。これは、今でもセシル、ハリソンは購入していますし、医学書院のJIMは1巻1号から読んでいます。インターンのときに小児科の指導を受けた川崎憲一先生にはその後も御厚誼を賜っていますが、先生が親にポイントをメモ用紙に書いてお渡しされていたのを、今でも私は行っています。1年目の出向した病院で当直を介して色々の科の患者に接したこと、基本を他科の医長に教えていただいたことは私の財産になりました。免疫、水と電解質は呉の時代に学びました。なけなしのお金で買ったアサヒペンタックスは今でも使えます。初期の研修は私は恵まれていたと思います。呉の病院の小児科医長の瀬戸本周司先生は私の自由にさせてくださいました。私も、若い人と一緒に働くときには、患者に迷惑にならないことなら思い切ってやってください。といってきましたが、自分が自由にやらせえていただいたことを感謝しているからだと思います。
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呉市には父方の叔母が3人の従男達との5人家族で済んでいて、夫婦は熱心なキリスト教信者でした。叔母が日曜日に来て教会に行くことを勧めます。予定のないときには、おばに連れられて行きました。学生時代にも、大学内で聖書をもらえることがあったり、何度かは通ったこともありましたので、嫌ではなかったのです。或る日、関西から教授の方が見えてお話をされるというので、行きました。前夜、病院の整形外科の患者さんが亡くなられて、私は、当直で必死になって蘇生を試みたのですが効を奏しませんでした。教会に行くと、その方が、そこの信者さんだったのです。最初に、皆で祈りました。教授の話が終わった後、叔母が私をその教授に遭わせて、『私の甥で医者をやっています。何かお言葉を』と言うと、教授は『何か質問はないですか?』と言われるので、『昨夜、何とか死なせたくないと思い、努力したが甲斐はなく亡くなられた、此処では、神の意思で天に召されたと言う、であれば、私の行ったことは、神の意思に対してどのような意味を持つのか』と聞きました。『教授は、神は本人は勿論、全ての人が最大の努力をすることを望んでおられて、君が努力をしたのも、神の意思だ』と言われるので、『では、私は努力さえすればよいのか、若し、間違ったことを行っても、努力をすれば神はお許しになるのか』と尋ねると『あなたは、惜しい、もう少しで良い信者になれる』と言われて、愛は神から生まれると色紙に書いてくださいました。浄土真宗の、善人もて、往生す、いわんや悪人をや、について質問をしたら、それは比較宗教学の世界だと逃げられました。教会で、証しというのをやりますが、反省しやすいことを反省する、するとそのような些細なことを反省して、あの人は好い人だと言われる。でも、もっと、簡単に反省できないこと、大罪、自分も気がついていない罪、をどうするのかが宗教だろうと思うと教授に話をしました。叔母夫妻に貰った聖書は今も診察室の本棚にあり、ときに読みますし、患者さんに読んで貰う事もたまにはありますが、信者ではありませんが、教会に通ったことは悪い経験ではなかったと叔母に感謝しています。
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9月に日本小児科学会地方会に演題を発表したのですが、大学に戻ったときに、同期の4人に対して学位論文の課題が教授から発表されました。そのあとは、お祝いと言うことで、医局で、簡単なビールパーティがありました。私には、ポリオの生ワクチンと不活化ワクチンでは抗体産生に部位の差がある、それを蛍光抗体法を用いて証明せよというものでした。昭和36年にポリオが北海道と熊本で流行しました。当時は、不活化ワクチンが用いられていました。これでは、予防効果が劣るというので、急遽、アメリカとソ連から生ワクチンが輸入され、治験を待たずに投与されました。日本で最初に投与開始されたのが熊本です。抗体蛋白が一つではないことは判っていましたが、まだIgG,IgA,IgM,などと分類されていませんでしたし、T,B細胞などという言葉もない時代でした。抗体をつkるのは形質細胞だということくらいの理解だったと思います。組織に抗体蛋白があることの証明には蛍光抗体法は便利ですが、その抗体がポリオの抗体であることの証明をとなると複雑で医師1年目の私にはわからず、Nairinの蛍光抗体法の本を注文して、届いたのは呉に戻って10月末だったと思います。免疫学の本を診療の合間に読み始めました。
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今まで元気だった子どもが、急に嘔吐をするようになり、脱水になるという患者が多いのに気がつきました。尿中のアセトン体が強陽性で、下痢は伴わない、数日するとケロっと良くなる、それを『所謂、自家中毒症』と診断していました。輸液は、東大輸液1号、3号を5%ブドウ糖、生理食塩水、1モルの塩化カリウム、乳酸ソーダ液を混合してつくり、輸液をしました。データをまとめてみようと考えて、半分はレトロスペクティブに半分はプロスペクティブにまとめてみました。実は、その症例のなかに、低血糖と判断してよい症例がありました。未だ、ケトン性低血糖の概念が知られていませんでした。日本で初めて論じられたのは、慶応大学の先生で、後に都立清瀬小児病院の院長をなさった熊谷道夫先生でした。9月に熊本地方会で発表し、熊本同門会誌に書きました。また、父親が外科医の幼児で、祖母が買ってきた感冒薬を35錠食べてしまい痙攣を起こして送られて来ました。当時は、抗痙攣薬はフェノバルビタール、フェニールヒダントインなどで、挿管して、呼吸管理をしながら、サクシンを使いました。輸液をしながら様子をみて、痙攣がとまったところで、抜管をしてことなきを得ました。これは、教授の指示で、熊本の地方の医学雑誌に投稿をしました。院内の勉強会で喋ったところ、九州大学の出身であった院長が、自家中毒の最初の報告が九州大学の初代教授であったことを、私の発表でわかったと喜んでくださって、自宅のご招待してくださりご馳走になりました。
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病院が用意してくれた住まいは、本当に豚小屋の隣でした。アパートの2階で、2部屋あり、トイレはついていましたが、風呂はなく、冷暖房不完備でした。赴任したのが夏で、締め切った部屋に帰ると、部屋は暑くて、豚小屋の悪臭、豚は夢でもみるのか、夜中に突如として、悲鳴のような声をあげてなきます。そこで、毎日、11時くらいまでは病院の外来で本を読むことにしました。すると、病棟からよく声がかかります。外来からも急患が来たと呼ばれます。病院の図書室には、余り有用な参考書はありませんでしたが、当時は未だコピーは、今のように良いものがなく、時間がたつと消えてしまうタイプであり、自分で買った雑誌や、教科書を読みました。水と電解質の本をよく読み、経口輸液をダロウーの液ではじめました。宿舎が悪いお陰で勉強が出来ました。携帯電話もないので、具合の悪い患者がいるときには、外来で夜を明かしたことも度々でした。あとで、院長に、私が豚に似ている(体重が99kgくらいあった)かといっても、豚小屋の隣では辛いと話したら、即座に自分で探して移って良い事になり、きれいなところに移れました。
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