私は、運動神経の鈍い子どもでした。運動会には雨が降ればよいなどと考えていました。その鈍さを何とかしたくて、高校に進学と同時に折から復活した剣道部に入りました。師範に、自分のような鈍い者でも、何とかなるかと尋ねると、他人の倍か3稽古をすればなんとかなると言われて、やってみました。すると何とかなりました。2年生のときに、なんと選手になりました。この年に母校は全国優勝をしました。3年のときに、優勝旗を持って全国大会に出たのですが、1回戦で敗れました。努力をすれば報われることと、努力だけでは勝てないことも学びました。高校の同窓会誌には、優勝旗を返しに行っただけに終わったと書かれています。前年度優勝校の看板を背負って、自分では1年間全てを賭けたので、決して優勝旗返還が仕事だったとは思いませんが、人の評価は所詮はそんなものだということも学びました。師範は率先して、掃除や道具の始末など、躾も厳しく、それを教えていただいたことが、医師になってからは生きているように思います。

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医師になる前に、人間としてどのようであるかを学ぶ必要があります。私の父方の祖父は、明治26年生まれの小学校卒業の学歴でした。佐賀の山の中で、曽祖父は味噌醤油製造業を営んでいたのですが、ここでは将来性がないと考え、現在のソウルで味噌醤油製造販売業を営みました。色々困難な出来事があり、浄土宗の熱心な信者になります。自分の子どもは、医者か僧侶にしようと考え、父に選択させたら、父は医師の道を選びました。昭和21年、私が8歳のときに、佐賀に祖父も引き揚げる、我々も転居する形で同居しました。毎日、念仏を唱える、家の掃除や畑仕事に参加する。祖父は、多分、自分で築き上げた概念だったのでしょうが、『念仏精神でやれ』と何事にも厳しく、人が評価しなくともやるべきことをキチンとやることを教育しました。このことは、医者になったときに、逃げない、ごまかさない、やり通すことに繋がりました。高校のときに、何かの本で、南州遺訓として、西郷隆盛の言葉をしりました。祖父の教えはそれと通じると思い、前の方だけを自分の座右の言葉にしました。

即ち、『人を相手とせず天を相手とせよ、己を尽くし、人を咎めず、我が誠の足らざるを尋ぬべし・・・』というものです。私が医師になったときに、祖父が『至誠』と書いてくれました。

医療法人にするときに、法人の名前をこれに会をつけようと思いましたが、至誠会とは東京女子医科大学の同窓会の名前なので、女子医大卒の方が良く使われるので、混同をさけて、働く者が皆誠をつくすようにと考えて皆誠会としました。

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父が開業したのは、現在では佐賀市ですが、当時は村でした。貧乏村で、医師は父が開業するまではありませんでした。当時は、患者さんを運ぶ方法がないので、往診が多く、父は自転車で往診をしていました。健康保険には、日頃は入っていなくて、誰かが病気をすると加入をする時代でした。医療費の不払いが多くて、患者数が多くても経営は大変だったようです。私も、4年生の頃は、集金に行きました。皆が田畑に働きに出て留守で、尋ねると、病気の患者さんが子どもの私に払えないことを詫びながら、庭の柿ノ木から1個もぎとって呉れたりしました。何軒も廻っていると、自分が悪いことをしているような気になります。つり銭を用意していたわけではないので、父も私がお金を貰える事を予測はしていなかったのでしょう。事実、一度も貰ったことはありませんでした。

このことは、私の源体験になっていて、患者さんの医療費にこころをかけるようになっています。父が診療所の医師になってからも、一日の半分は往診でした。村にせめてスクーターでも買って欲しいと要望したのですが、村長も無いのにということで認められませんでした。結局、父は、体がまいってしまい、村医をやめて、当時の電電公社の診療所の医師になりました。

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医者になるには、その動機となる何かがあるだろうと思います。私は、母方の祖父が会津の猪苗代の出身で、野口英世とほぼ同世代でした。やはり、小林先生に教えていただいたそうです。野口英世が何か身近な人でかつ偉人としてのイメージがあって、憧れました。父が小児科の医師でした。幼い頃は、広島県呉市の海軍共済病院に勤務をしていました。夜討ち朝駆けのようにして官舎と病院の間を往来していました。戦時中で、父は昭和19年に再び、戦地に赴くのですが、父の日頃の仕事が多くの人に感謝されているということを感じていました。そんなことがあり、何となく医師になりたいと思っていましたし、幼い頃から聞かれると『医者になりたい』と言っていました。戦後、父が復員してきてからは、元の職場には職業軍人〔軍医)であったとして戻れず、佐賀の田舎で開業したり、村に国民健康保険直営診療所を誘致するのに働いて自分も勤めたりしました。そこでは、父は小児科医ではなく何でも診る医師でした。父と同じような医者になりたいとは思いませんでしたが、医者に患者が何を求めているのかはよくわかりました。高校生になり、クローニンの城砦などは読みましたが、長崎原爆で奥さんを亡くされて、ご自分は白血病で二人のお子様を残して逝かれた長崎医科大学放射線科助教授の永井隆先生が書かれた『この子を残して』

は有名ですが、自分のご両親のことを書かれた『村医』は

強く惹かれた書物でした。何となく、学者ではなく、プライマリケア医を頭に描いて医者になろうと考えていたように思います。

 

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2006.08.27 13:17 |  診療  |  開業 / 病院経営  |  その他(一般)  |  波良張  | 推薦数 : 3

今の私の毎日の仕事

毎日、診療は8時40分に始まります。ネット、電話、受診時に予約を受けているので、救急車、急患、予約制度を無視した患者さん(非常に少ない)以外は、予約済みです。多いときは1日130人、8月の最も少ないときで、30-40人の診療にあたります。私は、小児科医と名乗っているのですが、医師としての常識で解決できる医療問題には応じると言うので成人の患者さんも20%はあります。昼休みは、余程でないとありません。乳幼児健診、予防接種を行います。1日が終わると、夜です。夜は、テレビをみたり、本、ネットを利用して学びますし、原稿を書いたりして過ごします。他に、市の乳幼児健診、ポリオなど集団接種の予防接種、小児夜間診療の当番、嘱託になっている保育園、幼稚園、心身障害者の通園施設に関っています。かなり、よく働いていると思います。1日10時間以上は平均的に働いています。もう少し、知識の再生産の時間が欲しいと思います。子どもが笑顔で話しかけてくれるときが、至福に感じられます。関る健康問題は、治療の必要のないものから、非常に深刻な問題まで様々です。最近では、私がときどき拝見していました、お嬢さんがプールで吸い込まれて亡くなられたことが痛恨事でした。私が、属している日本が以来小児科学会で、アドボカシー委員をしているのですが、子どもの事故予防のシンポジウムを10月15日に行うのですが、プールの事故に特化して事故予防の問題を論じることを計画しています。委員でのMLでのやりとりも仕事の一部です。口惜しい。悲しいだけで終わらせたくないと思います。そんな、毎日です。

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2006.08.27 01:28 |  診療  |  研究  |  その他(一般)  |  波良張  | 推薦数 : 1

はじめまして

私は、昭和39年に卒業して、1年のインターンのあと、国家試験に合格して、熊本大学の小児科に入局して小児科医の道を歩き始めました。大学院学生、文部教官助手、付属病院の医局長、国立病院の医長を経て、開業して15年になります。40年の医師の生活のなかで、起こった色々の出来事、出遭った多くの人々、患者さんとして出会い色々のことを教えてくれた人々、その方々のお陰で今日の自分があると思います。途中で、別の道を歩く選択肢もその機会もありましたが、結局は、開業医として毎日を送っています。満足度は、『まぁ、好いか』というところです。自分では、寝ても覚めても、1日24時間、1年365日、小児科医でやってきたと思っています。余りボケない内に伝えられるものは伝えてみたいと思い、書き始めました。

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