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30年位前の話になる。宮崎日南市の漁港の町、南郷の病院に出張した事がある。そこでは鹿児島の病院での勤務とは違いゆっくり出来た。ポケットベルや今のように携帯電話など無かった。勤務が終るといそいそと近くの海に出掛けて魚釣りなどを楽しんでいた。そんな日の昼下がり宿舎で寛いでいると、遥か南方の海で操業中の漁協所属の船が火災を起こし船員が大やけどで救助を求めているとの連絡が入った。ここの港の船はフイリッピン周辺のパラオ諸島付近でマグロを獲っている。病院は漁協の関連病院にもなっている関係もあり自衛隊の飛行機で外科医が救助に行って欲しいとの依頼であった。外科医は私と後輩の2人だけである。1人では大変そうだし、リスクの有る仕事を後輩に押し付ける訳にもいかないので2人で行く事に決めた。私達を鹿屋基地までは救急車が送ることになった。宮崎の救急車は途中県境で管轄外になるので鹿児島の救急車に乗り換えた。鹿屋基地に着くや休む間も無くP3C偵察機に乗り込んだ。そしてすっかり暮れた空を沖縄に向け飛び立った。夜更けて那覇空港に着いた時には午前零時を過ぎていた。2時間後には救援機が出るのでそれまで兵舎の隊員用ベッドで仮眠を取るよう言われ横にはなったがなかなか寝付かれない。うとうとしていると新しく交代した元気な航空隊員が迎えに来た。付いていくと暗闇の中に巨大な水陸両用艇がエンジンを鳴らしながら待機していた。驚いている私達を乗せ明るみかけた南の空へ向け離陸した。空が明るくなると窓の外をサポート役の軍用機が飛んでいるのに気付いた。相当時間飛んだなと感じる頃、火災を起こした漁船の近くに着いたのだろう飛行艇は速度を落とし降下を始め海上すれずれを低空で旋回し始めた。海はしけており高い波は10mを超えると隊員達が話すのが耳に入った。窓から大きな波のうねりが見え隠れする頃から私は船酔いが始まった。そのうち飛行艇が大きく上下しだした。着水を敢行したらしい。突然、突き上げられたかと思うと次の瞬間には急激に落下する。私達の体も座席から浮き上がって頭を天井にぶっつけた後は機体に遅れて座席シートに叩き付けられる。耳は気圧変化で鼓膜が破れたかと思うほどゴトゴトと音を立てた。後で大丈夫な事を確認しやっと安心した。苦しそうにもがく私を隊員がシートベルトでしっかり座席に縛り付けた。船酔いも極限に達し死んだ方がましだと思ったぐらいだ。そうこうしている内に負傷した船員が飛行艇に移され私たちの前に運ばれてきた。かといって私はすでに意識も朦朧となっていて治療どころでは無かった。後輩は船酔いには強いらしい。気丈に負傷者の手当てをしている。しかしそれも限界、彼もゆれる中での処置に船酔いし出したらしい。波にもまれるよりも上空の方が揺れず処置がしやすいからと早く飛び立つように怒鳴り出した。しかしなかなか飛び立たない。慣れている筈の隊員たち迄もが青い顔をしている。それを見て船酔いはますます募り私と後輩は嘔吐のために機内の塵箱の取り合いとなった。後で気付いたが活躍を写真に収めるつもりで持って来たカメラが塵箱の中で吐物まみれになっていた。かれこれ1時間ぐらい波に翻弄されてやっと飛び立った。後から聞いて驚いた。エンジンに水が入ってしまい故障して修理が大変だったらしい。はるか南洋で命を落とすところだったのだ。何とか那覇空港に戻り救急車で沖縄の県立病院で患者を引き継いだ。そこで我々の苦労も知らない担当医師が飛行機の中で何か治療をしたのかと質問した。少し腹立たしかったがぐっとこらえて今後の事をよろしくお願いした。患者は片腕と顔に火傷をしている程度であり元気であった。むしろ船酔いでぐったりの私の方が病人のようであった。沖縄から鹿屋への帰路、隊員が偵察機の天井を開けて呉れた。満天に輝く星を観測しながら飛ぶ方法などの説明を聞き快適な夜間飛行を楽しんだ。また鹿屋基地では赤絨毯の敷かれた司令官室で私の体が沈んで隠れるほどの高い背もたれの椅子に座り接待を受けた。今でも飛行艇の中での苦しかった経験をありありと思い出す。そして飛行機に乗っても少々の揺れには驚かない。
~平成21年1月3日の読売新聞より~
日本自動車工業会の青木哲会長(ホンダ会長)は読売新聞などのインタビューに応じた。2009年の自動車市場について、「大変厳しいのではないかと不安に思っている。世界を見渡しても、明るい材料のある市場が見あたらない」と、悲観的な見通しを明らかにした。
具体的には、「国内は(前年同期比)5%ぐらい市場が縮小する。米国も1250万台ぐらいではないか」との予測を示した。米市場では07年に比べて約400万台もの大幅減を見込んでいる。
その上で、今後は「ハイブリッド車や電気自動車、燃料電池車などの重要性がますます高まっていく」と、環境対応型の次世代車の開発競争が激しさを増すと指摘した。政府が09年度の税制改正で、環境対応車の購入者に自動車重量税と自動車取得税の減免措置を打ち出したことで、23万台程度の需要増が見込めるとの見方も示した。
一本のダン傘。
昔、鹿児島ではオランダから伝わった品物の頭にダンと言う接頭辞を付けて呼んだ。日本の蛇の目傘は油に浸した和紙で出来ている。西洋の傘は布製で強い。オランダから伝えられたこうもり傘を最近までダン傘と呼んだ。傘の他にも穀物を入れる麦わらで編んだ袋をカマスと呼ぶ。外国製ジュートで出来た袋はダンカマスである。戦前、父は母と長男を連れて満州に渡り満州鉄道に技術者で勤めた後は独立、機械工作の事業所を営んでいた。母に言わせれば少しハイカラで当時としては偉丈夫の父は人が二~三人は入れるダン傘を愛用していたと言う。そんな父も兵として老兵の四十歳にも拘らず太平洋戦争末期の昭和二〇年六月に関東軍に現地徴兵された。まずい事に、その二ヶ月後の八月十三日にソ連が和平条約を破棄して参戦して戦車隊が大挙して満州国境を超えて進攻して来た。その戦闘に巻き込まれ未だに最後の様子さえ分らないままである。敗戦国の日本の運命と共に異国満州の日本人達は敗走を余儀なくされたが母のお腹には十月出産予定の私が居た。日本まで無事な筈が無い。そこで母は父を慕い親しくしてくれていた中国人の好意に甘えた。私を出産後の翌年の六月日本に帰る事に成功した。奉天を去るときの母の一つの勇気と判断が家族四人の命を救った。輸送車とて無い状況で母は胸に私を抱いて幼い兄と姉の手を引かなければならなかった。逃避行に必要な荷物の数は一人に一個に限られていた。赤子の私の分はオムツである。後の三個の中で母が選んだ物はなんと命を繋ぐには役立ちそうも無い父が愛用していた大きな一本のダン傘であった。ところが朝鮮に向かう汽車には屋根は無かったし、満員の引き揚げ船上しかり本土の汽車とて同じであった。そして途中の駅舎や野宿する建物も空襲によって破壊されただ壁だけが残っていた。日差しはおろか雨風や夜露さえも凌げなかった。引き揚げ船の中では食べ物も無くなり母の乳も出なくなった。乳飲み子の私は母が小分けにして身に付けて来た米を小さく砕いたお粥で命をつないだと聞いた。そんな状況の中、父の形見の傘が威力を発揮した。母子四人が入る大きな傘の下で体を寄せ合い何とか無事に父の故郷に辿り着けたのである。父の魂が導いてくれたとしか考えられない。道中では多くの幼子達が命を落とし水葬されたそうである。大変な動乱の中で私達子供達が中国残留孤児にもならなかった奇跡を思う時、母の聡明さには感心する。そして運命の不思議さに畏敬さえ感じる。父の帰りたかった故郷で私は父の年齢を四半世紀も超えた。苦労した母は今年百歳を迎えた。
白い夏
30年位前の話になる。宮崎日南市の漁港の町、南郷の病院に出張した事がある。そこでは鹿児島の病院での勤務とは違いゆっくり出来た。ポケットベルや今のように携帯電話など無かった。勤務が終るといそいそと近くの海に出掛けて魚釣りなどを楽しんでいた。そんな日の昼下がり宿舎で寛いでいると、遥か南方の海で操業中の漁協所属の船が火災を起こし船員が大やけどで救助を求めているとの連絡が入った。ここの港の船はフイリッピン周辺のパラオ諸島付近でマグロを獲っている。病院は漁協の関連病院にもなっている関係もあり自衛隊の飛行機で外科医が救助に行って欲しいとの依頼であった。外科医は私と後輩の2人だけである。1人では大変そうだし、リスクの有る仕事を後輩に押し付ける訳にもいかないので2人で行く事に決めた。私達を鹿屋基地までは救急車が送ることになった。宮崎の救急車は途中県境で管轄外になるので鹿児島の救急車に乗り換えた。鹿屋基地に着くや休む間も無くP3C偵察機に乗り込んだ。そしてすっかり暮れた空を沖縄に向け飛び立った。夜更けて那覇空港に着いた時には午前零時を過ぎていた。2時間後には救援機が出るのでそれまで兵舎の隊員用ベッドで仮眠を取るよう言われ横にはなったがなかなか寝付かれない。うとうとしていると新しく交代した元気な航空隊員が迎えに来た。付いていくと暗闇の中に巨大な水陸両用艇がエンジンを鳴らしながら待機していた。驚いている私達を乗せ明るみかけた南の空へ向け離陸した。空が明るくなると窓の外をサポート役の軍用機が飛んでいるのに気付いた。相当時間飛んだなと感じる頃、火災を起こした漁船の近くに着いたのだろう飛行艇は速度を落とし降下を始め海上すれずれを低空で旋回し始めた。海はしけており高い波は10mを超えると隊員達が話すのが耳に入った。窓から大きな波のうねりが見え隠れする頃から私は船酔いが始まった。そのうち飛行艇が大きく上下しだした。着水を敢行したらしい。突然、突き上げられたかと思うと次の瞬間には急激に落下する。私達の体も座席から浮き上がって頭を天井にぶっつけた後は機体に遅れて座席シートに叩き付けられる。耳は気圧変化で鼓膜が破れたかと思うほどゴトゴトと音を立てた。後で大丈夫な事を確認しやっと安心した。苦しそうにもがく私を隊員がシートベルトでしっかり座席に縛り付けた。船酔いも極限に達し死んだ方がましだと思ったぐらいだ。そうこうしている内に負傷した船員が飛行艇に移され私たちの前に運ばれてきた。かといって私はすでに意識も朦朧となっていて治療どころでは無かった。後輩は船酔いには強いらしい。気丈に負傷者の手当てをしている。しかしそれも限界、彼もゆれる中での処置に船酔いし出したらしい。波にもまれるよりも上空の方が揺れず処置がしやすいからと早く飛び立つように怒鳴り出した。しかしなかなか飛び立たない。慣れている筈の隊員たち迄もが青い顔をしている。それを見て船酔いはますます募り私と後輩は嘔吐のために機内の塵箱の取り合いとなった。後で気付いたが活躍を写真に収めるつもりで持って来たカメラが塵箱の中で吐物まみれになっていた。かれこれ1時間ぐらい波に翻弄されてやっと飛び立った。後から聞いて驚いた。エンジンに水が入ってしまい故障して修理が大変だったらしい。はるか南洋で命を落とすところだったのだ。何とか那覇空港に戻り救急車で沖縄の県立病院で患者を引き継いだ。そこで我々の苦労も知らない担当医師が飛行機の中で何か治療をしたのかと質問した。少し腹立たしかったがぐっとこらえて今後の事をよろしくお願いした。患者は片腕と顔に火傷をしている程度であり元気であった。むしろ船酔いでぐったりの私の方が病人のようであった。沖縄から鹿屋への帰路、隊員が偵察機の天井を開けて呉れた。満天に輝く星を観測しながら飛ぶ方法などの説明を聞き快適な夜間飛行を楽しんだ。また鹿屋基地では赤絨毯の敷かれた司令官室で私の体が沈んで隠れるほどの高い背もたれの椅子に座り接待を受けた。今でも飛行艇の中での苦しかった経験をありありと思い出す。そして飛行機に乗っても少々の揺れには驚かない。