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一本のダン傘。

昔、鹿児島ではオランダから伝わった品物の頭にダンと言う接頭辞を付けて呼んだ。日本の蛇の目傘は油に浸した和紙で出来ている。西洋の傘は布製で強い。オランダから伝えられたこうもり傘を最近までダン傘と呼んだ。傘の他にも穀物を入れる麦わらで編んだ袋をカマスと呼ぶ。外国製ジュートで出来た袋はダンカマスである。戦前、父は母と長男を連れて満州に渡り満州鉄道に技術者で勤めた後は独立、機械工作の事業所を営んでいた。母に言わせれば少しハイカラで当時としては偉丈夫の父は人が二~三人は入れるダン傘を愛用していたと言う。そんな父も兵として老兵の四十歳にも拘らず太平洋戦争末期の昭和二〇年六月に関東軍に現地徴兵された。まずい事に、その二ヶ月後の八月十三日にソ連が和平条約を破棄して参戦して戦車隊が大挙して満州国境を超えて進攻して来た。その戦闘に巻き込まれ未だに最後の様子さえ分らないままである。敗戦国の日本の運命と共に異国満州の日本人達は敗走を余儀なくされたが母のお腹には十月出産予定の私が居た。日本まで無事な筈が無い。そこで母は父を慕い親しくしてくれていた中国人の好意に甘えた。私を出産後の翌年の六月日本に帰る事に成功した。奉天を去るときの母の一つの勇気と判断が家族四人の命を救った。輸送車とて無い状況で母は胸に私を抱いて幼い兄と姉の手を引かなければならなかった。逃避行に必要な荷物の数は一人に一個に限られていた。赤子の私の分はオムツである。後の三個の中で母が選んだ物はなんと命を繋ぐには役立ちそうも無い父が愛用していた大きな一本のダン傘であった。ところが朝鮮に向かう汽車には屋根は無かったし、満員の引き揚げ船上しかり本土の汽車とて同じであった。そして途中の駅舎や野宿する建物も空襲によって破壊されただ壁だけが残っていた。日差しはおろか雨風や夜露さえも凌げなかった。引き揚げ船の中では食べ物も無くなり母の乳も出なくなった。乳飲み子の私は母が小分けにして身に付けて来た米を小さく砕いたお粥で命をつないだと聞いた。そんな状況の中、父の形見の傘が威力を発揮した。母子四人が入る大きな傘の下で体を寄せ合い何とか無事に父の故郷に辿り着けたのである。父の魂が導いてくれたとしか考えられない。道中では多くの幼子達が命を落とし水葬されたそうである。大変な動乱の中で私達子供達が中国残留孤児にもならなかった奇跡を思う時、母の聡明さには感心する。そして運命の不思議さに畏敬さえ感じる。父の帰りたかった故郷で私は父の年齢を四半世紀も超えた。苦労した母は今年百歳を迎えた。

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アポロが月に到達した39年前の夏、私は大きなリックを背中に担いだ当時蟹族言われたスタイルでユースホステルを利用して北海道一周バス旅行をしていた。今は懐かしい思い出である。ユースホステルといえば若者向きの会員制簡易宿泊施設である。宿では学生サークルの合宿さながらに、その日の投宿者全員で夕食を囲みながら自己紹介後ミーティングし親しく歌やゲームを楽しむ。寝床は相部屋の2段ベッドで西欧風の新鮮な雰囲気があった。それも時代の流れから下火になり会員数も減って来ていた。代わりに民宿やペンションが増えた。最近になり若い頃の利用者で今は年金生活者のつましい暮らしの50代以上の方々が帰ってきた。90年頃になりミーティングは廃止され、家族や夫婦が同じ部屋に泊れ食事も豪華になっている。利き酒会などの出来るユニークな施設も出て来た。そして年齢に関係なく利用されている。これは世界的な傾向でユースホステル国際団体も今年、ユースの文字が抜けた。オランダではステイオーケーと改名した。日本でも改名の動きがある。

白い夏 

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2008.07.09 05:52 |  生活 / くらし  |  車 / バイク/ 船  |  その他(一般)  |  でんさん  | 推薦数 : 0

星空ロマン

 http://www.mahoroba.ne.jp/~gonbe007/hog/shouka/tanabata.html

昨夜の帰宅は夜更けの10時、車から降りて空を見上げたら満天の星。西方の山端には絵本で見るような橙の三日月が浮かんでいた。昨夜は七夕、彦星が織姫の元へ漕いで行った舟かもしれない。実際の七夕は1ヶ月後の旧暦7月7日で新暦では8月7日になる。今朝早くおきると空は曇り雨もぱらついて来た。例年七夕の翌朝は雨の事が多い。七夕飾りが駄目になるので七夕流しという。これは織姫が別れを惜しむ涙なのかも知れない。梅雨明け10日というほど梅雨明け後の暫くは暑い日が続く。連日の猛暑で体がすっかり参ってしまった体には優しい雨ではある。

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一昨日、校医をしている中学校の学校保健委員会があり、早々に昼食を済ませて出掛けた。生徒数130人の小規模校である。山と農地に囲まれた高台に建っている。生徒数は少ないが校区は広範囲で、周辺の農村に、東は篤姫で有名な海に面した漁港の今和泉、西には池田湖を取り巻く山間部で生徒達は、いずれも起伏の激しい道を自転車で通学している。梅雨も終わりの近い蒸し暑い日になった。教室にはクーラーは備わっていないが周りの森の木立を渡ってくる風が涼しく結構凌ぎ安かった。今時の中学校の健康問題として目の調節障害が約半数の生徒に、また通年性の鼻アレルギーや虫歯の無処置のものが目立って居るとの事、私の担当する内科的病気の心臓・呼吸器疾患は殆ど居なかった。肥満傾向の生徒も2~3人で意外と少ない。登校距離が長いし部活が盛んな所為であろう。生活習慣では朝食抜きの生徒は年々少なくなっていい傾向だ。案外家庭を大切にする傾向になっている。就寝時間は10時前後が最も多く、深夜12時までのものも結講見られた。何をして過ごすかのアンケートではテレビやゲームに費やしていた。勉強はそこそこの様である。田舎の故か携帯電話を所持する者は予想外に少なかった。締めくくりは学校医の講話になっていた。中間テストや地区対抗スポーツ競技大会も終わり、もう直ぐ夏休みに入る。そこで私は夏休みでの過ごし方、今流行っているプール熱や熱中症の注意、中学1年生対象のMRワクチン接種の事などを話した。続いて歯科医師が口の健康での歯並びの問題と口腔ケアについて触れていた。その中で興味深い食中毒の話があった。戦争が終わり上海からの日本人の引き揚げ船の中でコレラが発生してパニックになった。船という密閉された環境では全体に蔓延する恐れがあった。乗船した中に一人の軍医が居た。軍医はコレラが伝染しないための方法として全員に一つの約束をさせた。それは食事の間は必要以外に水を絶対飲まない事であった。そして皆はそれに従った。お陰で、その後一人の感染者も出ずに無事日本に帰還できた。コレラ菌は胃液の酸性に弱い。口から入っても胃の中の酸で死んでしまい腸に到達しない。食べ物と一緒に水を飲むと胃液が薄まりコレラ菌の繁殖を許してしまうのである。なかなか賢い医者が居たものである。言われればそんな簡単なことかと思うがなかなか考え付かないことである。伝染病は単純な事でも流行を防げる。いま世界は新型インフルエンザのパンデミックの危機にある。まず手洗い、うがいを励行し流行時は、マスク着用し外出を自粛するなどがまず基本であろう。川でおぼれている人を見たら、慌てて水に入らない、棒かロープを投げてやる事である。また服に火が点いたらどうするかでは、まずその場で転げ回る事だ。そばの人がいればビニール以外の空気を通しにくいシートや衣服で包み込む。また燃えている側を上にして水を掛ける。もし慌てて走り回ったり、打ち消そうとして衣服等であおるとますます燃える。一寸した機転が命を救う。

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2008.07.01 20:27 |  診療  |  旅行 / 宿  |  車 / バイク/ 船  |  その他(一般)  |  その他(医療関連)  |  でんさん  | 推薦数 : 1

海難救助。

  

30年位前の話になる。宮崎日南市の漁港の町、南郷の病院に出張した事がある。そこでは鹿児島の病院での勤務とは違いゆっくり出来た。ポケットベルや今のように携帯電話など無かった。勤務が終るといそいそと近くの海に出掛けて魚釣りなどを楽しんでいた。そんな日の昼下がり宿舎で寛いでいると、遥か南方の海で操業中の漁協所属の船が火災を起こし船員が大やけどで救助を求めているとの連絡が入った。ここの港の船はフイリッピン周辺のパラオ諸島付近でマグロを獲っている。病院は漁協の関連病院にもなっている関係もあり自衛隊の飛行機で外科医が救助に行って欲しいとの依頼であった。外科医は私と後輩の2人だけである。1人では大変そうだし、リスクの有る仕事を後輩に押し付ける訳にもいかないので2人で行く事に決めた。私達を鹿屋基地までは救急車が送ることになった。宮崎の救急車は途中県境で管轄外になるので鹿児島の救急車に乗り換えた。鹿屋基地に着くや休む間も無くP3C偵察機に乗り込んだ。そしてすっかり暮れた空を沖縄に向け飛び立った。夜更けて那覇空港に着いた時には午前零時を過ぎていた。2時間後には救援機が出るのでそれまで兵舎の隊員用ベッドで仮眠を取るよう言われ横にはなったがなかなか寝付かれない。うとうとしていると新しく交代した元気な航空隊員が迎えに来た。付いていくと暗闇の中に巨大な水陸両用艇がエンジンを鳴らしながら待機していた。驚いている私達を乗せ明るみかけた南の空へ向け離陸した。空が明るくなると窓の外をサポート役の軍用機が飛んでいるのに気付いた。相当時間飛んだなと感じる頃、火災を起こした漁船の近くに着いたのだろう飛行艇は速度を落とし降下を始め海上すれずれを低空で旋回し始めた。海はしけており高い波は10mを超えると隊員達が話すのが耳に入った。窓から大きな波のうねりが見え隠れする頃から私は船酔いが始まった。そのうち飛行艇が大きく上下しだした。着水を敢行したらしい。突然、突き上げられたかと思うと次の瞬間には急激に落下する。私達の体も座席から浮き上がって頭を天井にぶっつけた後は機体に遅れて座席シートに叩き付けられる。耳は気圧変化で鼓膜が破れたかと思うほどゴトゴトと音を立てた。後で大丈夫な事を確認しやっと安心した。苦しそうにもがく私を隊員がシートベルトでしっかり座席に縛り付けた。船酔いも極限に達し死んだ方がましだと思ったぐらいだ。そうこうしている内に負傷した船員が飛行艇に移され私たちの前に運ばれてきた。かといって私はすでに意識も朦朧となっていて治療どころでは無かった。後輩は船酔いには強いらしい。気丈に負傷者の手当てをしている。しかしそれも限界、彼もゆれる中での処置に船酔いし出したらしい。波にもまれるよりも上空の方が揺れず処置がしやすいからと早く飛び立つように怒鳴り出した。しかしなかなか飛び立たない。慣れている筈の隊員たち迄もが青い顔をしている。それを見て船酔いはますます募り私と後輩は嘔吐のために機内の塵箱の取り合いとなった。後で気付いたが活躍を写真に収めるつもりで持って来たカメラが塵箱の中で吐物まみれになっていた。かれこれ1時間ぐらい波に翻弄されてやっと飛び立った。後から聞いて驚いた。エンジンに水が入ってしまい故障して修理が大変だったらしい。はるか南洋で命を落とすところだったのだ。何とか那覇空港に戻り救急車で沖縄の県立病院で患者を引き継いだ。そこで我々の苦労も知らない担当医師が飛行機の中で何か治療をしたのかと質問した。少し腹立たしかったがぐっとこらえて今後の事をよろしくお願いした。患者は片腕と顔に火傷をしている程度であり元気であった。むしろ船酔いでぐったりの私の方が病人のようであった。沖縄から鹿屋への帰路、隊員が偵察機の天井を開けて呉れた。満天に輝く星を観測しながら飛ぶ方法などの説明を聞き快適な夜間飛行を楽しんだ。また鹿屋基地では赤絨毯の敷かれた司令官室で私の体が沈んで隠れるほどの高い背もたれの椅子に座り接待を受けた。今でも飛行艇の中での苦しかった経験をありありと思い出す。そして飛行機に乗っても少々の揺れには驚かない。

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2008.06.29 05:50 |  仕事 / 職場  |  生活 / くらし  |  車 / バイク/ 船  |  その他(一般)  |  でんさん  | 推薦数 : 1

ゆがんだ風景

私達は移動手段に車を利用している。時々その利便を享受しながら複雑な気持ちになる。まるで人間の数よりも多い車の洪水の中で相当なスピードを出しぶつかりそうになりながら行き会っている。固い金属の塊の中の潰れそうな軟らかい体。ゲームの中のカーレースの世界にも似ている。ゲームなら失敗してもコインを継ぎ足せばリセット出来る。現実は厳しい。一つ間違えば激突が待っている。怪我どころか死さえ覚悟しなければならない。車に乗っていてそれをイメージした途端に耳がツーンとそば立ち頭痛が起こる。途端にアクセルを緩める。車の無かった時代の人々がこの状況を見たらびっくり仰天、腰を抜かすだろう。今後時代が進み人間の行動や思想がよりソフトな自然との共生を大切にする様になったら、土の中に埋まった鉄の塊を見て、野蛮な人間の生きていた時代があった事を悲しむに違いない。今の感覚では最新の車の外観は立派で滅多に故障せずに人間の作った機械の中では最高の傑作であると思う。しかし1台の車が出来上がるまでに気の遠くなる程の多くの人間の手が加わっている。その人間の群れの中に先日、秋葉原で事件を起こした非正規労働者の自動車工も混じって居た。自由で民主的で効率的に見えるが、実は欺瞞に満ちた奴隷制で支えられて出来上がったのにそんなことはおくびにも見せない。完全無欠で立派な車が世の中のどろどろしたあらゆるものを飲み込み昇華させて出来上がった現代のオブジェに見える。寛容の無いプチライトがはびこり、個人が疎外される搾取社会その物である。

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神社前の道路わきに車を停め、カラー・コーンを抱えた御婦人に挨拶し、境内に車を停めさせてもらえないか恐るおそるお願いした。意外にも笑顔でどうぞどうぞお留めになって下さいとごく普通に許可してくれた。てつきりお咎めをもらうと思っていたので飛び上がるほど嬉しかった。しかし、どうしてバリケード代わりのコーンを持っているのかと私が不思議がっていると見て取ったご婦人は続けた。境内は道路より高くなっていて鳥居をくぐる所に階段がある。車で入るときには鳥居横の車道を利用するが、帰りは境内側からは階段が見えず、うつかり鳥居を潜り抜け出ようとする。そこで階段にはまり動けなくなる。これまで何度もあり大変だった。それを防ぐ為に、車止めを置いて居るとのことだった。私も納得した。境内はこんもり何本もの大きな楠木に覆われて緑に染まり、その奥に鮮やかな朱色の社殿が構えていた。言葉にあまえ1本の楠の大木の下に停めさせてもらった。外の暑さとは対照的な境内の緑の爽やかな空気を胸一杯に吸い込んだ。さっそく神殿にお参りをしてた。先ほどまで駐車場を探しに苦労したあせった挙句、こっそり停めさせてもらおうと思いやって来たところに思いがけない親切に出会った。それだけに心豊かな気分になり足取りも軽く祭り会場に向かった。

 

http://www9.ocn.ne.jp/~sousabro/sabu9.html

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東シナ海の荒波は薩摩半島南端から長く延びた砂洲で堰きとめられ、その内海にカツオで有名な山川の港がある。上空から見ると丁度、鶴が飛び立つ姿に見える。歴史のある山川小学校の校歌に「ああ薩南のよき港、鶴の翼を広げたる、姿も清くもろこしや南の島に通いけん、今に入船出る船の、歌に明けゆく尊さよ」と歌われている。夏の台風の時期になると台風を避けようと大型船がひしめきあう。最近、ひなびたこの町のあちこちで夕方になると鰹工場からの帰りと思われる若い女性の集団が見られる。中国やシンガポールからの鰹節加工の実習生達である。この港は終戦後暫くカツオを中心にした遠洋漁業で賑わった。その後のオイルショック、排他的経済水域、若者の漁船員離れなどで鰹加工も縮小されて今は昔程の面影は無い。室町時代には南蛮貿易の中継基地として栄え、豊臣秀吉の時代には朝鮮出兵の拠点になった。江戸時代の鎖国政策により外国との貿易は廃れ、島津藩の琉球、大島からの砂糖の積み下ろし港となった。幕末には咸臨丸が寄港した。また島津久光の命により奄美大島に遠島に処せられた西郷隆盛はここから出て行った。島津斉彬、西郷は篤姫とは関係が深い。この前の土曜、日曜日の2日間に渡り港祭が行なわれた。私は良く晴れた日曜日の朝、長い岸壁に沿い作られた魚市場の出店に魚を買いに出かけた。港町特有の入り組んだ道と云う道は駐車車両が一杯で車を停める場所が見つからなかった。港の東、少し離れた場所に大きな楠木の森の中にいざなみの尊を祀る熊野神社がある。かってここは大変な賑わいを見せた場所でもある。駐車場所を探しての通りかかりに広い境内をみると参拝の車と思われる車数台だけが停めてあった。ここに停めさせてもらおうと思案中に丁度神社の関係者らしいご婦人がバリケード用のカラーコーンを持って鳥居の石段の向こうに現れた。石段の横には車の通路が作ってあった。てっきり駐車禁止を宣告されると覚悟した。(続く)

http://8.health-life.net/~susa26/natumero/26-30/nangoku.html

 

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 鹿児島のあちこちの道沿い、丘の斜面、空き地には黄色いコスモスに似た花の群が咲き誇っている。5月の今が盛りである。地元ではこの花を特攻花と呼び若くして命を落とした特攻隊員を偲ぶ花である。なにか物悲しさを漂わせる花である。62年前の第2次世界大戦末期、日本の戦局が悪化、戦艦大和も沖縄近海で撃沈されると言う状況の中にあって戦闘機に爆薬を搭載し人間爆弾として敵艦めがけて突っ込む特別攻撃隊が構成された。お国の為とマインドコントロールされ拒絶できない半ば強制的な雰囲気の中、主に17~20歳の志願兵が選ばれた。正常な思考が出来たとも思われない。限り有る命に突然向き合う心境は到底想像できない。その苦しみはいかほどであったろうか。主戦場の南方海域に近い鹿児島には航空隊が多く作られた。そこを拠点に爆弾と片道だけの燃料を積んで、沢山の特攻機が飛び立った。二度と帰らぬ若者を見送るほうにも悲壮感が漂った。その地上と空の境に鮮やかな黄色の花が揺れていた。すべての人々の心に忘れえぬ花として刻まれている。画像

 

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2008.05.07 18:14 |  生活 / くらし  |  車 / バイク/ 船  |  その他(一般)  |  でんさん  | 推薦数 : 0

皮肉

母は1909年(明治42年)に指宿で生まれた。今年で99歳の白寿である。1世紀を生きた事になる。母の父、つまり私の祖父は大日本帝国海軍の軍人であった。母が生まれる少し前、1905年の日露戦争での対馬沖海戦においてロシアのバルチック艦隊を撃滅して日本を勝利に導いた鹿児島出身の司令官、東郷平八郎の乗る旗艦、三笠艦上で砲弾の着地点を寸時に計測して砲手に指示を出す役目をしていた。歴史の教科書にはその海戦時に指揮を取る東郷大将と、その部下達の様子を伝える絵が載っている。大将の右側でコンパスを覗き込んでいる人物が祖父と思われる。普通、自分の先祖が歴史教科書に載る事など思いもよらない事である。日本が国際社会にデビュウーするきっかけとなった日露戦争の後から第2次世界大戦開戦までは神のように崇められ、出身地では修身教典と同じように学校校門の拝殿に掲示されて、家族まで尊敬の目で見られていたと古老から聞いた。敗戦後はすつかり忘れ去られた。人の口に乗ることも無い。私の父は日本が日露戦争で大陸進出の利権で設立した満州国に渡った。そして太平洋戦争末期の私が生まれる2ヶ月前の1945年8月9日、ヤルタ協定の決定に従い日ソ和平協定を破棄したソ連の満州侵攻の際の戦闘で亡くなった。歴史の皮肉である。

 

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