発熱と厳戒。光と影。過去の克服と未来国際的文化大国への飛翔を目指す中国百年の夢。大人の顔をした宣伝と動員による自己正当化。人権、環境問題、情報統制など矛盾と暗部。北京オリンピックは開催前より内存する大変な矛盾や問題を抱えながらスタートした。夏期アヘン戦争以来150年にわたって西欧列強と日本に翻弄されてきた中国。共産党指導部が国威発揚の為に是が非でも成功させようと躍起になり厳戒態勢をしいている。それに挑戦するようにテロが横行している新疆ウイグル。日本が敗戦の過去と決別し経済大国への飛翔を願い開催された1964年の東京オリンピック開催時、参加も出来なかった中国が対抗するように初の原水爆実験を行なった地域である。ギリシアで採火された聖火は香港から台湾を通り中国本土は迂回して運ばれた。世界に認められるか単に過去の鬱屈の清算だけになるか日本政府の毒入り餃子への対応を含めオリンピック後の成り行きが気になる。

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桜島の噴火

26日の日曜日夕方6時からの城山ホテルで開かれる会に出席するため混雑を予想して早めに指宿の自宅を出た。休日の夕方は郊外から鹿児島市内に帰る車で混雑する。暑い日が続いている為か込み合う事もなくスムーズに走れ1時間も早く着いた。はじまるまでホテルを出て散歩がてら城山展望台まで歩く事にした。夕方にも拘わらず外は昼間の熱気が残り息苦しいほどだった。展望台へは楠の大木に覆われた大きなトンネルの下を抜けていく。中は薄暗く、ひんやりして涼しかった。そこを出ると展望台に行き着く。突然目の前が明るくなり、真っ青な空に雄大な桜島と錦江湾が広がる。眼下には夏の日を浴びて鹿児島市街地が白く輝き展望台には涼しい風が吹いて凌ぎ易かった。多くの観光客で賑わっており、素晴らしい景観に歓声を上げていた。桜島の頂には厚い入道雲が掛かり、その間に見える山肌は目の醒めるように綺麗な深緑で覆われている。見とれていると突然、幾重にも重なる白い雲の上に、もくもくと真っ黒い雲が湧き出て来た。折角の穏やかな情景が一変し何か不吉な気分になった。昨日の夕方も、高く吹き上げた黒い噴煙を指宿からも見ることが出来た。

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アポロが月に到達した39年前の夏、私は大きなリックを背中に担いだ当時蟹族言われたスタイルでユースホステルを利用して北海道一周バス旅行をしていた。今は懐かしい思い出である。ユースホステルといえば若者向きの会員制簡易宿泊施設である。宿では学生サークルの合宿さながらに、その日の投宿者全員で夕食を囲みながら自己紹介後ミーティングし親しく歌やゲームを楽しむ。寝床は相部屋の2段ベッドで西欧風の新鮮な雰囲気があった。それも時代の流れから下火になり会員数も減って来ていた。代わりに民宿やペンションが増えた。最近になり若い頃の利用者で今は年金生活者のつましい暮らしの50代以上の方々が帰ってきた。90年頃になりミーティングは廃止され、家族や夫婦が同じ部屋に泊れ食事も豪華になっている。利き酒会などの出来るユニークな施設も出て来た。そして年齢に関係なく利用されている。これは世界的な傾向でユースホステル国際団体も今年、ユースの文字が抜けた。オランダではステイオーケーと改名した。日本でも改名の動きがある。
白い夏

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昨日の夜、NHKテレビ紀行物「てつ旅」で林家いっ平、熊田曜子の2人が九州JR指宿枕崎線の列車で篤姫ゆかりの里を巡る番組が放映された。私のクリニックはその沿線にある。映像に少しばかり映った様な映らなかったような、いずれにしても興味深く見た。今ドラマで人気の篤姫の里、薩摩今和泉の駅では、地元指宿商業高校の女生徒達と婦人会が合同制作した篤姫団子に私が以前このブログに書いた「車軸を波が洗う駅」の宮ヶ浜駅が出て来た。この駅は昭和58年に無人駅になった。その時の最後の駅長さんが出て来た。しかも興奮したのはその方が何と私のかかりつけの患者さん。昔、国鉄マンで駅長さんの経験もあるとは聞いていた。まさか宮ヶ浜駅最後の駅長とは知らなかったのでびっくりした。私がまだ小さかった頃の駅の様子をブログに書いたが、同じような事を話していた。台風のときは高波が線路を越えSLの床を洗った話や、汽車が来るまでの間は海岸で貝を獲っていた話や当時の駅の賑わいを写した貴重な写真も流れて懐かしかった。
ホンの前まで海が荒れると波が軌道敷土盛を越えて汽車の車軸を洗った。日本で一番海に近い駅はどこの駅でしょうとクイズになった事もある。NHK大河ドラマ「篤姫」で人気の高い指宿今和泉駅の南隣駅の宮ヶ浜。今は無人駅となった。篤姫ブームを見越して鹿児島県が8億円の予算を使い、この宮ヶ浜駅を含め篤姫にゆかりの場所を整備し波打ち際と駅の間に湾岸道路が建設された。階段状の防波堤も作られ海浜公園になっていて錦江湾を一望出来る。かっては台風の荒波に赤貝が駅舎内まで打ち上げられ、袋一杯に獲れた経験がある。今は波が駅まで押し寄せる事もなくなった。篤姫が幼少時に遊んだ隼人松原から海岸沿いに広い舗装道路が指宿市街地まで延びている。ドラマでロケ地となった知林ヶ島に続く海岸を経て、砂風呂の砂楽、白水館、岩崎ホテルなどのあるホテル街まで簡単に行ける。駅の近くには薩摩の名物の芋飴工場と、焼酎の醸造所が並んでいる。焼酎天障院篤姫を醸造した会社のコマーシャル用ビデオ撮影現場に行き有った。その後、浜辺を散策した。夕凪の中で鷺が小魚を漁っていた。
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開業してすでに15年が経過した。メリハリの無い15年間のような気もするが医療変革期にあって大変な紆余曲折を繰り返してきたと思う。介護保険が始まった事が大きい。今も気持ちだけは15年前の若い気でいる。髪が薄くなり、白髪も増えた。鏡の中の顔を見て初めて年を取ったなと最近になり感じるようになった。数年前より私の卒業した中学校の職場体験学習を受け入れている。今年は6名の女生徒が応募してきた。つい2~3年前まで男子の希望も有ったが、どうしても医療介護は苦手なのか、だんだん少なくなり、今年は1人も居なかった。私のところは有床診療所で今年の3月、19床あるベッドを全て療養型病床に転換した。それを契機に朝8時半から看護師、介護職、栄養士、理学療法士、薬剤師、ケアマネそして私と全職種が集まり短い時間のケア・ミーティングを開いている。狭い病棟詰め所は立錐の余地も無いほどになる。そこに6名の生徒が加わり廊下まであふれた。最近はミーティングの前に教養の本を輪読して職場の理念を唱和する。お陰でことしは5日間の実習中、毎日、生徒さん達と顔を合わせることが出来た。その中にちょっと気になる顔がいた。一人一人に自己紹介をしてもらってはいたが、覚えるまではなかった。生徒さん達が実習も終わり感想文を書いて持ってきた。私は開業当初は小児科も診ていた。その中に何時も熱を出しては父親に抱かれてくる子供が居た。小さくて人形さんみたいな女の子で何時も指を銜えていたので印象に残っている。4~5歳まではよく診察に連れてこられていた。その後は見ないので、すつかり忘れていた。感想文の中にその懐かしい名前を見つけた。そうか赤ちゃんだったのにもう中学2年生になったのか。思えば遠くに来たものだ。故郷の川のにおいを忘れずに帰ってくる鮭の回遊の事をふと思った。地域に根を生やし住民の信頼を得ている事が嬉しい。
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日曜の夕方、日が翳ったのを見計らって知事選の投票に行ったついでに魚見岳に登った。この山は正面から見ると一つの山に見えるが実際は2つの山が重なり合っている。220mの高さしかないが上まではゆるい勾配を紆余曲折して登るので結構長い。頂上にある鉄塔の螺旋階段を展望台に上ると全てのものが足下に見える。空中に浮かぶ感じで眩暈がする。足が震えて鳥肌が立つ。長い時間は留まれない。東に知林ヶ島、南に佐多岬、その対岸にいわさきホテルを望める。その日は空が澄み切って遥か南の海に浮かぶ屋久島がかすんで見えた。
魚見岳と知林ヶ島は地図の右上端にある。
下の写真の画像は拡大出来ます。画像にポインターを置きクリック。暫くまっと次画面に移行。拡大クリック1回。
知林ヶ島と海の向うに大隈の山々。
深緑の山の向うに雲を頭に屋久島が青くかすんで見える。
佐多岬といわさきホテル。
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篤姫の里、指宿市街地の東に、海から直接せりあがるなだらかな山、魚見岳がある。私が朝な夕なにみて育った。その名の通り頂からは四方に大海を見渡せ魚の群れを直ぐにも見つけられそうな気になる。市内の西側から見ると蚕が這った形をしている。海の向うの雲居には大隈の山々が青く連なる。麓から曲がりくねる広葉樹のトンネルの山道をのぼるり切ると平らな広場に行き着く。車も相当停められる。春は桜で埋まり、秋は紅葉で染まる。かって明治の歌人、与謝野晶子、与謝野寛夫婦はここで遊んだ。寛が読んだ短歌の碑が建っている。最も高い場所にはビルディングを思わせる程の大きな鉄塔が立っている。その下に展望台、横には指宿市街へ向けハンググライダーの踏み台も設えてある。展望台に登るとその絶景に目が眩む。まるで鳥になった気分を味わえる。南には佐多岬から東シナ海。西になだらかな稜線の続く南薩の山並み、その向うに開聞岳が頭を覗かる。東に高隈山が雲の上から首を出す。錦江湾の煌めきの北には櫻島がかすかに霞む。山すその沖合いに大小2つの島が浮いている。大きい島との海べりの間の海峡は干潮時には砂洲で繋がる。昨日の晴れて爽やかな夕方、思い立ってこの山に登った。登山者は私以外は誰も見当たらず夕暮れ時の素晴らしい風景を一人占めした。



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30年位前の話になる。宮崎日南市の漁港の町、南郷の病院に出張した事がある。そこでは鹿児島の病院での勤務とは違いゆっくり出来た。ポケットベルや今のように携帯電話など無かった。勤務が終るといそいそと近くの海に出掛けて魚釣りなどを楽しんでいた。そんな日の昼下がり宿舎で寛いでいると、遥か南方の海で操業中の漁協所属の船が火災を起こし船員が大やけどで救助を求めているとの連絡が入った。ここの港の船はフイリッピン周辺のパラオ諸島付近でマグロを獲っている。病院は漁協の関連病院にもなっている関係もあり自衛隊の飛行機で外科医が救助に行って欲しいとの依頼であった。外科医は私と後輩の2人だけである。1人では大変そうだし、リスクの有る仕事を後輩に押し付ける訳にもいかないので2人で行く事に決めた。私達を鹿屋基地までは救急車が送ることになった。宮崎の救急車は途中県境で管轄外になるので鹿児島の救急車に乗り換えた。鹿屋基地に着くや休む間も無くP3C偵察機に乗り込んだ。そしてすっかり暮れた空を沖縄に向け飛び立った。夜更けて那覇空港に着いた時には午前零時を過ぎていた。2時間後には救援機が出るのでそれまで兵舎の隊員用ベッドで仮眠を取るよう言われ横にはなったがなかなか寝付かれない。うとうとしていると新しく交代した元気な航空隊員が迎えに来た。付いていくと暗闇の中に巨大な水陸両用艇がエンジンを鳴らしながら待機していた。驚いている私達を乗せ明るみかけた南の空へ向け離陸した。空が明るくなると窓の外をサポート役の軍用機が飛んでいるのに気付いた。相当時間飛んだなと感じる頃、火災を起こした漁船の近くに着いたのだろう飛行艇は速度を落とし降下を始め海上すれずれを低空で旋回し始めた。海はしけており高い波は10mを超えると隊員達が話すのが耳に入った。窓から大きな波のうねりが見え隠れする頃から私は船酔いが始まった。そのうち飛行艇が大きく上下しだした。着水を敢行したらしい。突然、突き上げられたかと思うと次の瞬間には急激に落下する。私達の体も座席から浮き上がって頭を天井にぶっつけた後は機体に遅れて座席シートに叩き付けられる。耳は気圧変化で鼓膜が破れたかと思うほどゴトゴトと音を立てた。後で大丈夫な事を確認しやっと安心した。苦しそうにもがく私を隊員がシートベルトでしっかり座席に縛り付けた。船酔いも極限に達し死んだ方がましだと思ったぐらいだ。そうこうしている内に負傷した船員が飛行艇に移され私たちの前に運ばれてきた。かといって私はすでに意識も朦朧となっていて治療どころでは無かった。後輩は船酔いには強いらしい。気丈に負傷者の手当てをしている。しかしそれも限界、彼もゆれる中での処置に船酔いし出したらしい。波にもまれるよりも上空の方が揺れず処置がしやすいからと早く飛び立つように怒鳴り出した。しかしなかなか飛び立たない。慣れている筈の隊員たち迄もが青い顔をしている。それを見て船酔いはますます募り私と後輩は嘔吐のために機内の塵箱の取り合いとなった。後で気付いたが活躍を写真に収めるつもりで持って来たカメラが塵箱の中で吐物まみれになっていた。かれこれ1時間ぐらい波に翻弄されてやっと飛び立った。後から聞いて驚いた。エンジンに水が入ってしまい故障して修理が大変だったらしい。はるか南洋で命を落とすところだったのだ。何とか那覇空港に戻り救急車で沖縄の県立病院で患者を引き継いだ。そこで我々の苦労も知らない担当医師が飛行機の中で何か治療をしたのかと質問した。少し腹立たしかったがぐっとこらえて今後の事をよろしくお願いした。患者は片腕と顔に火傷をしている程度であり元気であった。むしろ船酔いでぐったりの私の方が病人のようであった。沖縄から鹿屋への帰路、隊員が偵察機の天井を開けて呉れた。満天に輝く星を観測しながら飛ぶ方法などの説明を聞き快適な夜間飛行を楽しんだ。また鹿屋基地では赤絨毯の敷かれた司令官室で私の体が沈んで隠れるほどの高い背もたれの椅子に座り接待を受けた。今でも飛行艇の中での苦しかった経験をありありと思い出す。そして飛行機に乗っても少々の揺れには驚かない。
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神社前の道路わきに車を停め、カラー・コーンを抱えた御婦人に挨拶し、境内に車を停めさせてもらえないか恐るおそるお願いした。意外にも笑顔でどうぞどうぞお留めになって下さいとごく普通に許可してくれた。てつきりお咎めをもらうと思っていたので飛び上がるほど嬉しかった。しかし、どうしてバリケード代わりのコーンを持っているのかと私が不思議がっていると見て取ったご婦人は続けた。境内は道路より高くなっていて鳥居をくぐる所に階段がある。車で入るときには鳥居横の車道を利用するが、帰りは境内側からは階段が見えず、うつかり鳥居を潜り抜け出ようとする。そこで階段にはまり動けなくなる。これまで何度もあり大変だった。それを防ぐ為に、車止めを置いて居るとのことだった。私も納得した。境内はこんもり何本もの大きな楠木に覆われて緑に染まり、その奥に鮮やかな朱色の社殿が構えていた。言葉にあまえ1本の楠の大木の下に停めさせてもらった。外の暑さとは対照的な境内の緑の爽やかな空気を胸一杯に吸い込んだ。さっそく神殿にお参りをしてた。先ほどまで駐車場を探しに苦労したあせった挙句、こっそり停めさせてもらおうと思いやって来たところに思いがけない親切に出会った。それだけに心豊かな気分になり足取りも軽く祭り会場に向かった。

http://www9.ocn.ne.jp/~sousabro/sabu9.html
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東シナ海の荒波は薩摩半島南端から長く延びた砂洲で堰きとめられ、その内海にカツオで有名な山川の港がある。上空から見ると丁度、鶴が飛び立つ姿に見える。歴史のある山川小学校の校歌に「ああ薩南のよき港、鶴の翼を広げたる、姿も清くもろこしや南の島に通いけん、今に入船出る船の、歌に明けゆく尊さよ」と歌われている。夏の台風の時期になると台風を避けようと大型船がひしめきあう。最近、ひなびたこの町のあちこちで夕方になると鰹工場からの帰りと思われる若い女性の集団が見られる。中国やシンガポールからの鰹節加工の実習生達である。この港は終戦後暫くカツオを中心にした遠洋漁業で賑わった。その後のオイルショック、排他的経済水域、若者の漁船員離れなどで鰹加工も縮小されて今は昔程の面影は無い。室町時代には南蛮貿易の中継基地として栄え、豊臣秀吉の時代には朝鮮出兵の拠点になった。江戸時代の鎖国政策により外国との貿易は廃れ、島津藩の琉球、大島からの砂糖の積み下ろし港となった。幕末には咸臨丸が寄港した。また島津久光の命により奄美大島に遠島に処せられた西郷隆盛はここから出て行った。島津斉彬、西郷は篤姫とは関係が深い。この前の土曜、日曜日の2日間に渡り港祭が行なわれた。私は良く晴れた日曜日の朝、長い岸壁に沿い作られた魚市場の出店に魚を買いに出かけた。港町特有の入り組んだ道と云う道は駐車車両が一杯で車を停める場所が見つからなかった。港の東、少し離れた場所に大きな楠木の森の中にいざなみの尊を祀る熊野神社がある。かってここは大変な賑わいを見せた場所でもある。駐車場所を探しての通りかかりに広い境内をみると参拝の車と思われる車数台だけが停めてあった。ここに停めさせてもらおうと思案中に丁度神社の関係者らしいご婦人がバリケード用のカラーコーンを持って鳥居の石段の向こうに現れた。石段の横には車の通路が作ってあった。てっきり駐車禁止を宣告されると覚悟した。(続く)
http://8.health-life.net/~susa26/natumero/26-30/nangoku.html
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