医局の机の上に二つのリングを2段に重ねた鉛筆立てが置いてある。一番上のリングには火消の纏の馬簾の様に糸が何本も結んで垂れている。クリニックには週二回、2人の外科医が診療の手伝いに遣って来て呉れる。どちらかの医師が診療の合間に糸結びの練習をしたのだろう。それを見るたびに大学の外科医局に在籍していた昔を懐かしく思い出している。私はもともと心臓外科医であるが今は外来で外傷処置程度の診療しかしていない。鏡視下手術が大勢を占める現在はどのようになっているかは知らない。私の時代は外科の修業はまずは鈎引きと糸結びから始まった。止血、胃腸の縫合など糸の結び方が悪いと、術後出血、縫合不全など合併症が生じ大変な事になった。特に心臓手術では魔術師的早業で糸結びをしなければ心臓を止めている時間が少しでも長引けば術後に成績が悪くなる。人工弁一つを縫い着けるのにしっかりともつれないように200回ほどの糸結びをする必要がある。外科結び、片手結びなど結び方にも色々ある。場面、場面で使い分けなければならない。上手になるよう暇があるとポケットに忍ばせた糸を引きだしのつまみ等に引っ掛けて練習をした。糸にも用途により種類がある。時間とともに吸収される羊の腸から作った糸や化学合成糸に吸収されないナイロンやテフロン糸。撚り糸とそうでないテグス状のフィラメント状のもある。心臓血管手術に使う糸は非吸収糸である。血管、心臓は術後すぐに機能しなければならない。また壁には相当な血圧が掛かる。しっかり固定されていなければ出血し、人工物は外れてしまう。一昔前、テレビで「 刑事コロンボ」 と言うシリーズものの推理ドラマがあった。その中に「溶ける糸」と題する一章があった。あらすじは大学病院の心臓血管外科医局内で起きた話で、何かにつけ主人公の助教授にとっては出世の妨げとなっていた上司の教授が心臓を悪くして人工弁置換術をしなければならなくなった。願ってもないチャンス到来と巧妙に完全犯罪を装って教授を殺害する方法を考え実行したのである。それをコロンボが見破る。ヒントは手術のときに使われた糸が鍵になる。教授の悪くなった心臓弁を切除し、代わりに人工弁を縫いつける。縫いつける糸は非吸収のナイロン糸でなければならないのに吸収糸を使う事を考えた。助手の看護師が渡したナイロン糸を術衣のポケットに隠し持っていた溶ける糸と取り換えたのだ。溶ける糸を使うと手術後しばらくは持ちこたえる。しかし吸収糸ではだんだん溶けていき数日後に人工弁は完全に外れ教授は死んでしまった。術後しばらくの間、心臓機能は回復し、外目に手術は完璧に行われ高に見えた。術者に責任は無い。まさに完全犯罪成功とほくそ笑んでいる助教授の犯罪をコロンボが見破る。洗濯に回された術衣のポケットにナイロンの糸が残っていた。犯罪者の考えることは洋の東西を問わないらしい。医局の鉛筆立てを見ながら昔を懐かしんでいる。
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