大学を卒業して2年が経過し、やっと一人でも何とか診療が出来る自身がついていた頃の話である。今でも引き継がれ続いている筈であるが医局から1ヶ月交代で派遣されていた南の島の診療所があった。内科、外科の診療科目があり、それぞれ担当医師が1人ずつ配置されていた。私は卒後研修を終え麻酔科から外科に入局しなおし暫くしてからの事である。その年の秋には結婚を控えており資金面の事を気遣った医局長が私にその診療所にいくように命令を出した。それまで遣った手術は盲腸とヘルニア位しかない。私が不安そうな顔をしているのを見て取って医局長は直ぐに「何かあったらすぐ先輩の誰かを応援に遣るから安心して行きなさい」と常套句でもって承知させた。直ぐといってもYS11号機で一時間は掛かる南の島である。何かあればどうしようもない。私は腎結石の持病を持ちその春先から血尿と腰痛に何度も見舞われていた。そのことも不安材料であったが思い切って行くことにした。行って見るとさすがに南の島で空港に降り立つと焼け付いたアスファルトの熱気が頬に痛かった。赴任して2~3日したころ診療所の直ぐ近くで大きな交通事故が発生した。女子高校生2人乗りのバイクと耕運機が衝突した。バイクは弾みで転倒して2人とも全身を強く打った。そのうち1人は非常に腰を痛がり低血圧ショック状態になっていた。耕運機の方も道路下に一回転して転落、運転していた農夫が下敷きになって肝臓破裂と腕全体に大きな裂傷を負って運び込まれた。いずれも緊急に外科手術の必要があった。内科医と2人で救急処置を行いながら如何すべきかを話し合った。車で1時間ほども走ると大きな病院がある。高校生はそこの整形外科に搬送してもらった。農夫のほうは大出血があり、搬送出来る状態ではなかった。大出血に対しては町内放送で献血を呼びかけた。町中の皆が診療所に集まって呉れ輸血を続けながら何とか凌ぎながら大きな病院の外科に応援を要請した。そこの外科医師は大学の別の医局から派遣されて居たが外科部長さんが部下を連れて直ぐに駆けつけて呉れた。部長に指図するから術者になるように言われ緊張のあまりメスの手も動かない私の手を掴んで手術が始まった。長時間掛けて手術を終えることが出来た。患者さんの状態も落ち着いた頃から私のお腹が痛み出した。長時間水も飲まず大量の汗を掻きながらの手術で腎臓の石が騒ぎ出したらしい。手術応援の部長さんへお礼もそこそこに痛み止めを打ってもらい麻酔から醒めたばかりの患者さんと一緒にベッドを並べるはめになった。一応、手術の事と自分の病状を大学医局には連絡して置いたところ1週間ばかりして突然に医局から先輩が交代要員として派遣されてきた。
尿管結石疝痛が頻発している時期に奄美大島の診療所に出張したことがある。暑いところなので汗を良く掻いた。尿管結石からと思われる腰背部痛がしばしば起きた。そのたびに事務長さんが指圧でよくなるからと言って腰を揉んでくれた。なんとか強い発作も無く過ごしていた。ところが大雨の夜、強い発作が襲った。畳の上を転げても、立って走り回っても痛みは治まらない。この世に安らぐところがないのである。体を屈めて痛の遠のくのを待ったがますます痛みは激しくなった。診療所に連絡しても夜なので誰もいない。宿舎は診療所に近いのでうかっにも薬も置いていなかった。気を失うほど痛くなってきた。我慢の限界。どうにかして診療所に行き痛み止めようと決心、何とか外に出た。外は大降りの雨で先が見えない。暗い中を地面を這うようにして診療所の裏口にたどり着きなんとか鍵をあけ診察室に入った。部屋の明かりのスイッチを手探りで探し、薬品棚から鎮痛剤のアンプルを取り出した。やっとの事で静脈に自己注射出来た。その後の事はあまり覚えていない。次の朝は宿舎で目覚めていた。夕べの痛みがうそのようでうれしかった。自分に静脈注射したのは初めての経験、いざとなると怖さをなくしてしまう。鎮痛麻酔薬をよくぞしたものだ。思うと危険な事をしたと総毛立つ。