むかし薩摩ではオランダから伝わった品物の名前の頭にダンと言う接頭辞を付けて呼んだ。日本の蛇の目傘はあぶらの和紙で出来ているが西洋の傘は布製である。オランダから伝えられたこうもり傘を薩摩では最近までダン傘と呼んだ。傘の他にも穀物を入れる袋で麦わらで編んだ袋をカマスと呼ぶが、外国のジュートで出来た袋はダンカマスと最近まで呼んでいた。父は戦前、満州に渡り技術者として満鉄に勤めた後、機械工作の事業所を営んでいた。当時としては偉丈夫の父は人が2~3人は入れるダン傘を愛用していた。一兵卒としては年をとっていたにも拘らず太平洋戦争末期になり関東軍に徴兵された。悪い事に、そのあとすぐソ連が参戦し満州国境を超えて進攻したのである。国境の戦闘で行方知れずになってしまい、未だに最後の様子も分らないままである。敗戦国となった日本の運命と共に異国の地、満州での日本人は敗走を余儀なくされる事になったのである。残された4人の家族は、幸い戦前父と親交のあった現地民間人の助けを借りてなんとか本国へ変えることが出来た。満州の奉天を引き上げる時の母の判断は全家族の命を救った。車とて用意出来るはずも無い母は私を抱き幼い兄と姉の手を引かなければならなかった。逃避行に必要な荷物は限られた。そんな中の1つに母は父が愛用していた大きな1本の傘を選んだのである。朝鮮に向かう汽車は貨物用であり屋根とてなかった。引き上げ船で本土に着いてからも、故郷に向かう汽車も同様であり、途中の駅舎や野宿する建物の屋根も空襲によって破壊され尽くし壁だけが残っていた。日照りや雨風、夜露も凌げず、食べ物も不足して弱った赤子や幼子には余りにも過酷であった。そのような中で父の形見の大きな傘は力を発揮した。母子4人の家族をすっぽり入れる傘の下で体を寄せ合い何とか無事に父の故郷にたどり着けたのである。その道中には多くの幼子達が命を落とした。父が帰りたかったであろう故郷。愛する妻と子供達を父が見守り通したとしか考えられない。あの動乱の中で私達兄弟がよくぞ中国残留孤児ならなかった奇跡を思う時、母の聡明さに感心すると共に運命の不思議さに畏敬さえ感じる。

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