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高齢者の独居や夫婦2人だけの世帯が増えている。特に地方の過疎地ではその傾向は著しい。その様な所ではかかりつけ医が家族の役をしなければならない。先日、かかりつけ医認知症対応力向上研修会の講師である医師がこの事の話をした。南の島で開業し在宅医療や通所サービスをしている。農業以外に働く場所が無いので多くの若者が島を離れて本土に出て行く。残された親達は年を取り、老々世帯か独居になってしまっている。そこでかかりつけ医が親達の病気を診るとその後はどうしても遠くの子供達に代って生活まで見らざるを得なくなる。かねてから地域住民には病気になっても心配しなくても良い。私があなた達の家族の一員になると話してありそのことで患者さんも安心するそうである。

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2008.03.31 12:13 |  仕事 / 職場  |  生活 / くらし  |  その他(一般)  |  でんさん  | 推薦数 : 0

らしさ

社会、つまりは共同体が成り立つ為には皆が暗黙の了解である説明不要の当たり前の事のわかる共通感覚を持っことである。これは経験上の合理性から生まれた約束事の積み重ねで挨拶、気遣いなどの人間関係に始まる。偽装企業の反社会性の違法な行為は法律で断罪出来る。問題なのはトップの釈明会見にみられた社会に対して「恐縮」の姿が感じられなかった事である。かっての日本人が持っていた共通な感覚、暗黙の了解をなくしていた。社会での自分の立場を分って居らず社会との距離感を失って仕舞っていた。今の日本はこれを押さえるシステムを失っている。放置すれば気付かないうちに日本という共同体は崩れてしまう。当たり前のことのわかる、人との距離感、物事の加減の共通感覚は人間のコミュニケーションから生まれる。人間関係の希薄化が自明性の「らしさ」を失う。コミュニケーションにより人は自分の位置を知り自分の立場が分る。上下関係の親しさもその過程を経て生まれる。自分の位置が分らないと責任感も持てない。共同体の基本はコミュニケーションである。読売新聞の編集委員が書いていたものを要約した。

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わがクリニックの前庭に咲く万作
 

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環境問題でエコロジーが重要視され形、機能性より軽量化が優先されている。飛行機、自動車、電車、船舶など輸送に使う燃料の節減も重要課題だ。運ぶ物は品物だけとは限らない。人も動物もある。その中で人の輸送は相当な部分を占める。そこで提案がある。運賃に重量制を取り入れる。基準にBMI 22を使う。あくまでも太りすぎに不利な設定にする。これによってメタボリック症候群を少しでも減らせるのではないか。タバコ規制に税率を高くして禁煙を広げる。化石燃料消費を抑えるためにガソリン税を高くするなどと同じ理屈である。観念よりも金銭感覚に訴える方が効果がある。

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2008.03.29 20:01 |  生活 / くらし  |  旅行 / 宿  |  その他(一般)  |  でんさん  | 推薦数 : 0

回帰

今日、たそがれ時、2階自宅の玄関に続く階段の途中で外を眺めていて不思議な体験をした。私の周りから今まであった人工物の一切が消え去り夕焼けに染まった空と影絵になってかすむ低く重なって続く山並とその前の平原。私の周りには古代からの不変なものだけが現れた。父から受け継いだ私の中の遺伝子が今を消し去り、父が幼き日にみたそのままの風景にワープしたのだ。誰を責めようも無い大きい悲しみ。空しさ。国と言うより許しがたい人間の狂気の犠牲となつて、たまたま戦死した父の魂。その名代としてに遠く満州から父が生まれた故郷に帰還した私の中の父の遺伝子が地球誕生以来の不変以外のものを透視し、昔のままのこの世を見たのだ。そして生きる意味を改めて喚起したのだ。その後、暫くして家に入り何気なくテレビに目を遣るとNHKでアウシュビッツ収容所からの決死の脱走に成功、生き延び、最近になり収容所跡を訪れ、逃走途中にかくまい助けてくれた人と面会している映像が流れていた。狂気の時代に翻弄された魂が今、人々に訴える。

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かって結核は青壮年の死の病として最も恐れられた。今でも油断は出来ない。1年間に人口10万人当たり21名もが罹患している。欧米先進国の中で最も高い罹患率である。古くて新しい問題なのである。罹患後の1年以内に20人の中で1人が死亡する。致命率5%である。今も怖い感染症である。それも年毎に増えている。漫画喫茶(M)、カラオケ、ネットカフェ、パチンコなどの遊興施設やホームレス集団等の無防備集団に偶発的に発生する。しかも化学療法剤の効きにくい耐性菌の事も多い。バイオテロも心配される。1951年に制定された結核予防法もこのような状況に対応するために2005年に改正された。しかし直ぐにこの法律は廃止されて感染症法に統合された。この予防法が予防に偏り過ぎていたため、罹患率1万人に2.1人にも拘らず検診でみっかる患者は1万人に1人にすぎず費用対効果が低すぎたからである。予防に力を入れるより罹患した患者とその周囲の接触者をGメンさながらに徹底的に追跡し治療する方向に変わった。罹患者を徹底して治療し接触者には法的強制力を行使し追跡し発病するのを予防する。プライバシー保護法も免責される。要するに感染症への対応は世の中は1度に良くならなければ無意味なのである。患者を見つけ次第直ちに届け出なければならない。接触者の結核菌株をDNA識別し集団発生の有無を追跡する。ツ反での感染診断をするのはもう古い。血液培養でのQFT診断が使われる。1人から拡がるネット株、M株のDNA判定技術を駆使しての接触者のGメンの捜索が日夜続いている。

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自分で心が動くと体も動く。出来ることから。リハビリに用いられるキーワードであるが全ての事に当てはまる。私のかかりつけのお年寄りで90歳を超えた方がいる。農業試験場に勤務しサツマイモの研究と品種改良を続け退職してからも各地を視察したり、文献の考察を続けて論文を作り続けている。4~5年前には皇居に招かれ国から勲章を受けた。流石に寄る年波には勝てず此れまで何回となく体を壊し入院や通院を余儀なくされてきた。しかし生来の頑張りでリハビリなどに励み短期間で回復され私はその方の事をを不死鳥と呼んでいる。各地に後援を頼まれ出かけていく。その度に自分の体の状態は今度の旅行には大丈夫か私に相談に遣ってくる。私のアドバイスを受け体を調整している。今でも芋の研究で仕残した事が一杯ありへこたれるわけには行かないと一生懸命健康に気をつけている。

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昨日、県医師会館で開かれたかかりつけ医研修会に出席した。この研修会出席者はこれまでは余りにも少なかった。今度だけは違うだろうと予想して行った。案の定、500名以上入る4階の会場は埋め尽くされて、はみ出した参加者200名がテレビモニターの準備された3階会場に案内され、その他に離島など遠隔地の医師会館会場にはテレビ中継され全受講者数は800人ほどになり、講演会としては破格な出席者数となった。介護保険にあまり熱心でない診療科医師の姿も見られた。4月から始まる後期高齢者医療では高血圧など12の慢性疾患を患者同意のもとに1つの医療機関が年間診療計画を作成し継続して診療すれば「後期高齢者診療料」の月600点が算定できる。これは医学管理、検査、処置、画像診断の費用を包括したものであるが、その要件として医師は主治医研修を受けたことを証明する研修修了証書3枚を添え社会保険事務所に届けなければならない。ところが介護保険制度が始まった平成12年から毎年、主治医研修は県下数箇所で開かれて来たのに研修修了書は出されていない。やっと18年から始まった認知症対応力向上研修で受講証を出すようになった。受講した日の記録でも良いとの事であるが義務研修でなかったためか大概の医師が何時受けたかも記憶に定かでないと思われる。年金記録と同じように若い頃は将来の事に疎い。主治医研修の受講は高齢社会の医師としては絶対必要と主張して来た。また研修会の講師として6年間に渡り関わって来ただけに散会の群集に揉まれながら「故郷の訛なつかし停車場に人ごみの中にそを聞きに行く」の心境であった。

新緑に萌える木々 笑う春の花火

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浅い緑の若草の田んぼのでは九州新幹線の架橋工事が進む

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春草は足の短き犬に萌ゆ 中村草田男

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運転免許を取る時、構造の学科でハンドルの遊びを学ぶ。遊びがハンドルになければ、少し回しただけで車が急に方向を変えて車体が大きく振れてバランスを崩し衝撃が車全体に及ぶ。それと同じ事は人間の体でも言える。関節が動くのは筋肉のお陰である。筋肉の両端は腱とって骨に付着する。この腱が軟らかくしなやかでなければ筋肉と骨に大きな負担がかかる。特に急な動作で簡単に肉離れや腱の剥離を起しやすい。これを防ぐために腱に遊びが必要なのである。運動不足はこのしなやかさを失わせる。しなやかさを保ついい方法がストレッチである。アスリートは運動の前に必ず準備運動をする。ところで春先になると腰痛や肩の痛みで来院する患者さんが増える。春の暖かさにつられ屋外での活動する機会も増え寒さで縮こまっていた体を急に伸ばすため腱や筋肉が傷つくためである。充分にストレッチを行ない体を慣らしてから始める事が大切である。

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2008.03.24 14:40 |  診療  |  仕事 / 職場  |  その他(一般)  |  その他(医療関連)  |  でんさん  | 推薦数 : 0

島での試練

大学を卒業して2年が経過し、やっと一人でも何とか診療が出来る自身がついていた頃の話である。今でも引き継がれ続いている筈であるが医局から1ヶ月交代で派遣されていた南の島の診療所があった。内科、外科の診療科目があり、それぞれ担当医師が1人ずつ配置されていた。私は卒後研修を終え麻酔科から外科に入局しなおし暫くしてからの事である。その年の秋には結婚を控えており資金面の事を気遣った医局長が私にその診療所にいくように命令を出した。それまで遣った手術は盲腸とヘルニア位しかない。私が不安そうな顔をしているのを見て取って医局長は直ぐに「何かあったらすぐ先輩の誰かを応援に遣るから安心して行きなさい」と常套句でもって承知させた。直ぐといってもYS11号機で一時間は掛かる南の島である。何かあればどうしようもない。私は腎結石の持病を持ちその春先から血尿と腰痛に何度も見舞われていた。そのことも不安材料であったが思い切って行くことにした。行って見るとさすがに南の島で空港に降り立つと焼け付いたアスファルトの熱気が頬に痛かった。赴任して2~3日したころ診療所の直ぐ近くで大きな交通事故が発生した。女子高校生2人乗りのバイクと耕運機が衝突した。バイクは弾みで転倒して2人とも全身を強く打った。そのうち1人は非常に腰を痛がり低血圧ショック状態になっていた。耕運機の方も道路下に一回転して転落、運転していた農夫が下敷きになって肝臓破裂と腕全体に大きな裂傷を負って運び込まれた。いずれも緊急に外科手術の必要があった。内科医と2人で救急処置を行いながら如何すべきかを話し合った。車で1時間ほども走ると大きな病院がある。高校生はそこの整形外科に搬送してもらった。農夫のほうは大出血があり、搬送出来る状態ではなかった。大出血に対しては町内放送で献血を呼びかけた。町中の皆が診療所に集まって呉れ輸血を続けながら何とか凌ぎながら大きな病院の外科に応援を要請した。そこの外科医師は大学の別の医局から派遣されて居たが外科部長さんが部下を連れて直ぐに駆けつけて呉れた。部長に指図するから術者になるように言われ緊張のあまりメスの手も動かない私の手を掴んで手術が始まった。長時間掛けて手術を終えることが出来た。患者さんの状態も落ち着いた頃から私のお腹が痛み出した。長時間水も飲まず大量の汗を掻きながらの手術で腎臓の石が騒ぎ出したらしい。手術応援の部長さんへお礼もそこそこに痛み止めを打ってもらい麻酔から醒めたばかりの患者さんと一緒にベッドを並べるはめになった。一応、手術の事と自分の病状を大学医局には連絡して置いたところ1週間ばかりして突然に医局から先輩が交代要員として派遣されてきた。

2006.06.04 22:16 |  仕事 / 職場  |  生活 / くらし  |  その他(一般)  |  でんさん  | 推薦数 : 0

結石騒動

尿管結石疝痛が頻発している時期に奄美大島の診療所に出張したことがある。暑いところなので汗を良く掻いた。尿管結石からと思われる腰背部痛がしばしば起きた。そのたびに事務長さんが指圧でよくなるからと言って腰を揉んでくれた。なんとか強い発作も無く過ごしていた。ところが大雨の夜、強い発作が襲った。畳の上を転げても、立って走り回っても痛みは治まらない。この世に安らぐところがないのである。体を屈めて痛の遠のくのを待ったがますます痛みは激しくなった。診療所に連絡しても夜なので誰もいない。宿舎は診療所に近いのでうかっにも薬も置いていなかった。気を失うほど痛くなってきた。我慢の限界。どうにかして診療所に行き痛み止めようと決心、何とか外に出た。外は大降りの雨で先が見えない。暗い中を地面を這うようにして診療所の裏口にたどり着きなんとか鍵をあけ診察室に入った。部屋の明かりのスイッチを手探りで探し、薬品棚から鎮痛剤のアンプルを取り出した。やっとの事で静脈に自己注射出来た。その後の事はあまり覚えていない。次の朝は宿舎で目覚めていた。夕べの痛みがうそのようでうれしかった。自分に静脈注射したのは初めての経験、いざとなると怖さをなくしてしまう。鎮痛麻酔薬をよくぞしたものだ。思うと危険な事をしたと総毛立つ。

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むかし薩摩ではオランダから伝わった品物の名前の頭にダンと言う接頭辞を付けて呼んだ。日本の蛇の目傘はあぶらの和紙で出来ているが西洋の傘は布製である。オランダから伝えられたこうもり傘を薩摩では最近までダン傘と呼んだ。傘の他にも穀物を入れる袋で麦わらで編んだ袋をカマスと呼ぶが、外国のジュートで出来た袋はダンカマスと最近まで呼んでいた。父は戦前、満州に渡り技術者として満鉄に勤めた後、機械工作の事業所を営んでいた。当時としては偉丈夫の父は人が2~3人は入れるダン傘を愛用していた。一兵卒としては年をとっていたにも拘らず太平洋戦争末期になり関東軍に徴兵された。悪い事に、そのあとすぐソ連が参戦し満州国境を超えて進攻したのである。国境の戦闘で行方知れずになってしまい、未だに最後の様子も分らないままである。敗戦国となった日本の運命と共に異国の地、満州での日本人は敗走を余儀なくされる事になったのである。残された4人の家族は、幸い戦前父と親交のあった現地民間人の助けを借りてなんとか本国へ変えることが出来た。満州の奉天を引き上げる時の母の判断は全家族の命を救った。車とて用意出来るはずも無い母は私を抱き幼い兄と姉の手を引かなければならなかった。逃避行に必要な荷物は限られた。そんな中の1つに母は父が愛用していた大きな1本の傘を選んだのである。朝鮮に向かう汽車は貨物用であり屋根とてなかった。引き上げ船で本土に着いてからも、故郷に向かう汽車も同様であり、途中の駅舎や野宿する建物の屋根も空襲によって破壊され尽くし壁だけが残っていた。日照りや雨風、夜露も凌げず、食べ物も不足して弱った赤子や幼子には余りにも過酷であった。そのような中で父の形見の大きな傘は力を発揮した。母子4人の家族をすっぽり入れる傘の下で体を寄せ合い何とか無事に父の故郷にたどり着けたのである。その道中には多くの幼子達が命を落とした。父が帰りたかったであろう故郷。愛する妻と子供達を父が見守り通したとしか考えられない。あの動乱の中で私達兄弟がよくぞ中国残留孤児ならなかった奇跡を思う時、母の聡明さに感心すると共に運命の不思議さに畏敬さえ感じる。

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