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2007.11.18 15:43 |  生活 / くらし  |  趣味  |  旅行 / 宿  |  その他(一般)  |  でんさん  | 推薦数 : 0

つながれた猫(2)。

猫を繋ぐなんて私の知る限りでは近くの小児科医院院長が飼い猫に首輪をつけリードを引いて散歩に出かけるのと私自身が止むに止まれぬ理由で部屋のなかに猫を繋いで飼っている位かなと思っていた。所が昨日のテレビに我家とそっくりの繋がれた猫が出て来た。それも着物を着せられたうえ帽子まで被されているではないか。猫を繋いでこっそり飼っている当方としては他人が聞いたら虐待だと言われそうで後ろめたく思って居ただけにびっくりした。少しの行き違いでさえ厳しく指弾するプチライトのマスコミが平然と映像を流し批判もしない。件の猫は無人駅で駅長代わりに繋がれて乗降客にかわいがられているとの触れ込みでニュースに取り上げられた。猫は犬と違い自己主張の強い動物である。自分の好きなところに勝手に行くのが普通である。アナウンサーはかわいがられて喜んでいると言ったが私には駅の改札口に繋がれ猫は見ず知らずの乗降客に触られ油断のならない子供にまでみくちゃにされ逃げる事もできずすつかりしょげ返って居る様に見えた。私が在宅医療をしている患者さんの家の猫は飼い主の患者さんに終日べったで離れなかった。急に患者さんが入院する事になり猫を知り合いに預かってもらった。1ヶ月で退院して帰り猫も返されてきた。どうしたことか患者さんに2日もの間警戒して近づこうとしなかったそうである。猫は人間には非情である。ある人が猫の子の処理に困り袋に入れて遠くに捨てに行き帰ってみると自分より早く捨てた積りの子猫が一足先に帰っていたという話があるほど猫は飼い主より家が大切なのである。

2006.05.20 13:01 |  生活 / くらし  |  その他(一般)  |  でんさん  | 推薦数 : 0

Dog & Cat .
英語で 土砂降り、てんやわんや! 
 うちの犬猫に限ってそう言う事はない。生まれてすぐから座敷で一緒に育った犬、猫同士なので、いつもじゃれあい舐めあって過ごしてきた。ところが私と猫とは相性がすこぶる悪い。私が近づくと目を見開き、口が裂けた夜叉面の形相でシャーとうなり威嚇する。構わず接近すると前足の鋭い爪で引っ掻く。それはまだいい方だ。ある日、私の睡眠中に何を錯覚したか私の足首を噛んだのである。私は一瞬、何が起きたのか判らず飛び起きたのは言うまでもない。痛みもさることながらしばらく茫然自失。一番安心安全な場所で訳のわからない災難にあったのだ。猫には理不尽だがこの期に至っては猫との同居は精神的に無理である。どうしたら良いものかと妻と議論、妻にはじゃれ付き甘えるので私の気持ちなど理解してくれそうもない。そっけない。喧嘩の末、外に放り出すことに話が付いた。ところが温室育ちの猫のこと、他の野放しの猫にやられて体中,血だらけでよごれて痛々しい。敵ながら私もさすがにかわいそうになった。住み分けをすべく私の行動範囲外に首輪をつけ紐で繋ぐことに話が付いた。やっと私もくつろげ、言い争いもなくなり家の中は安泰だ。犬のほうは最初こそ猫を気にして近づいていたが、現在はこれまでの関係が何だったのかお互い無関心を装い生活をしている。しかし私には後遺症が残ってしまった。以前、猫が寝ていた家具の前や、机の横を抜けるとき不意に足が出てきて引っかかれる様な気がして,立ち止まる。遠くにつながれた猫を見てやっと思い直す、それの繰り返しだ。私と猫がそのような関係になったのには理由がある。猫が赤ちゃんのとき2階から落ち、後ろ足を骨折した。そこで私はシーネを当てて治療した。それが痛かったためか、回復しても私を恐れるようになった。そして私が近づくと威嚇するようになった。せっかく良くしてあげたのにとの思いもある私。猫につらく当たるようになってしまった。関係がますます悪化、仲直りの機会を失って行った。

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2007.11.18 15:28 |  生活 / くらし  |  その他(一般)  |  でんさん  | 推薦数 : 0

ひまわり(2)

9月1日になり、ひまわりの絵が載った8月のページを外しほっとした。ひまわりの花には悪いのだが我が家ではある理由からひまわりの載った写真、絵それに植栽までもがタブーなのである。気に入って飾っていたカレンダーを8月になりめくって初めて図柄がひまわりであると気付いた。一瞬たじろいだが、気を取り直して1か月位は良いかと自分に言い聞かせ見てみぬ振りを決め込んだ。しかしカレンダーに目がいくといけない事をしているようで気が引けた。兄、姉、私の3人兄弟は母に小さい頃から悲しいひまわりにまつわる話を聞かされて育った。殊に私は生まれてこのかた母と離れる事無く一緒に暮らし、結婚してからも同居である。そのような理由から妻は勿論のこと子供達までもがその事を良く知っている。そしてなるべくひまわりに関する事柄は母の周りから遠ざけるようにして来た。その母も今物忘れが酷くなってしまい自宅と庭続きのグループホームでスタッフに囲まれて過ごしている。庭にはひまわりは植えないようにしている。そして母の居ない自宅にもひまわりに関係した物は置いてない。悲しい話とは60数年も前の事で母は結婚してささやかながら鹿児島で幸せな新婚生活を送った。そのうち時代の流れで大陸に憧れる父の情熱に負け反対ながらも満州の奉天に移住した。その時期の大陸は活気に満ち、裕福で穏やかな生活が待っていた。そして初めての女の子が生まれた。利発な子で健やかに育ち将来の期待も大きかった。ところが3歳になった夏のお祭の夜に大好きなおはぎをお腹1杯食べた。夜中になり、お腹を痛がり出し、吐いたり下したり大変な事態となった。近くの医院で診て貰い疫痢と診断されて薬を処方してもらった。疫痢は点滴とてない当時は非常に恐れられどうしようもない病気とされた。その翌日の暑い日、意識の無いままに息を引き取った。悲しみの家の前庭にはその年に限って沢山のひまわりが咲いていた。母が意を決して海峡を渡り満州に移住してからの初めての帰郷はいとしい子供の亡骸を故郷に納めるためであった。郷里の指宿で長女の野辺送りをすませた父母は再び奉天に戻った。エンジニアの父は満蒙開拓団の為の農機具を製作する工場を経営していた。中国人の従業員も多く中国社会にすつかり溶け込んでいた。子煩悩な父は一男一女をもうけかわいがった。それもつかの間、平穏な日は続かなかった。日本は太平洋戦争に突入、敗戦の気運の漂う昭和20年6月に父は39歳で一兵卒として現地応召された。そして8月13日についにソ連軍が国境の牡丹江を超え侵攻した。その戦闘で亡くなった。それまで中国の隣人に慕われて過ごしてきた家族の父の居ない生活は一変した。母は兄と姉そして生まれたばかりの私を抱えてソ連兵に追われるようにしてやっとの事で日本に帰還した。日本中がそうであったが戦後の生活は悲惨なものであった。そんな生活の中でも母は亡くした長女と過ごした豊かで幸せな日々を胸に仕舞って、挫けてしまわない様にまた悲しい出来事を思い出さないようにあの日庭に咲いていたひまわりを頑なに避けてきた。私は小豆が好物なのだが母は小豆で作ったおこわやおはぎを食べ過ぎないように決まって注意した。そんな気持ちを私の子供達も慮ってひまわりを避けてきた。すでに母と居る時間の長くなった妻はむしろ私よりも詳しく満州での事柄を詳細に聞かされている。そして私も初めて聞くような話も知っていて苦労した母を労わってくれる。

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