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三番目の息子がまだハイハイをしていた頃だからもう20数年前になる。宮崎の日向灘に面した日南海岸の遠洋漁港大堂津の中部病院に外科部長として赴任した。4番目の末娘は生まれておらず鹿児島から家族5人で引っ越した。今は亡き妻の母親が大変だろうと引越しに付き合ってくれたのが今は良い思い出と成っている。町は両側からの延びた岬の突端が岩礁で終わり外洋に開いた中央に数個の槍状の岩が突き出た入り江に面していた。そのため外洋からの荒波は消され白く遠浅の砂浜をすべるように寄せた。病院は海岸に沿って長く延びた低い松の防風林を隔てて建ち、その間を国鉄の日南線が通り時々思い出したように汽車が轟音を立てて走り抜けた。白い壁のコンクリート建の病院の裏手の広い敷地に2軒の2階建ての宿舎が建っていた。私達の宿舎は海寄りの家で2階を寝室として使うことにした。東側の窓を開けると松原の向こうに広がる青い海が見渡せた。岩礁を隔てた遠く太平洋の白い波のうねりも望めた。引っ越して暫くは疲れ、熟睡していた所為か何も気付かなかった。昼は周りの音に消されて気に成らなかったのだろう。暫くたって夜中に目覚めて潮騒の音に驚くことがあった。そして遠く鹿児島から引っ越してきているのを知らされた。ホームシックだったのだろう。町の人たちはものすごく素朴で優しかった。新しいく外科の医師が来たと喜んで、何かにつけ世話を焼いてくれた。家内も職員や周りの人たちにすぐに受け入れられた。大きな松の生えた広い公園や、遠浅の海岸など遊び場は多く、子供達は毎日、自由に走り回り真っ黒になって遊んだ。そのうち友達も増え、家の中は1日中賑やかな子供達声で一杯になった。黒潮の北上する日南の冬は暖かく、霜は降りず雪も勿論降らない。日南での初めての正月は暖かかった。しかし運悪く、町に麻疹が流行った。まず長男が罹り症状は酷かった。そして次々に次男、三男へと感染した。体の発疹、目のただれ、高い熱に咳の合唱で二階はまるで避病舎となった。医者は身内の病気にはまるで素人、私はおろおろするばかりでもっぱら家内が寝ずの番をした。外では遠く潮騒が間断なくうなり、北風が松林をゆする音が一晩中耳に付いた。

大学病院外科医局に在籍中に宮崎県日南の漁業の町大堂津の公立病院に出張した。外科部長ではあったが外科医は私のほかに部下が1人だけ。家族もともなって行った。大学に比べ患者さんも少なく手術は週に1~2回程度でその都度大学から応援の医師に来て貰っていた。外科なので外傷の他は整形外科関連の疾患が多く余り忙しくなかった。病院の近くに医師の住宅はあり、職住一緒で家族ともどものんびりした生活が送れた。また患者さんの殆どがマグロなど遠洋漁業の従事者の家族で、操業を終えた船が入るたびに貰った魚で冷凍庫が何時も一杯であった。近くに大きな川があり海に近く満潮のたびに海水が逆流し海からチヌが上がってきた。私は本格的では無いが、ほどほどに釣りが好きなので、早朝の満潮の時を見計らって川に出掛けた。食べきれないほどの冷凍庫のマグロの切り身を餌に調子の良い時には短時間に沢山釣れた。最初のうちは面白く楽しんでいたが、釣っても小物で食べるわけにも行かずそのうちに飽きてきた。大物を狙って場所を川から河口に変え、仕掛けも投げ釣り用に変えた。その場所が丁度、新聞記事の写真の鉄橋の下であった。そこである日、大きな鯛を釣り小躍りして喜んだ。家にいそいそと持って帰り、妻に刺身におろして貰い家族で食べた事を懐かしく思い出した。
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