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2007.09.01 12:07 |  生活 / くらし  |  旅行 / 宿  |  その他(一般)  |  でんさん  | 推薦数 : 0

ひまわり

9月1日になり、ひまわりの絵が載った8月のページを外しほっとした。ひまわりの花には申し訳ないが、ある理由でひまわりの写真、絵、植栽までが我が家ではタブーなのである。たまたま気に入って飾ったカレンダーの8月の写真が選りに選ってひまわりであった。1か月の間、我慢すればよいと考え、見てみぬ振りを決め込んだ。しかし心の底では気になっていた。私達3人の兄弟は小さい頃から母にひまわりにまつわる悲しい話を聞きながら育った。特に私は母とずーつと一緒に生活し、私が結婚してからも同居してきている。一緒になった私の妻や私の子供達もその事を聞かされて私と同じ気持ちで過ごして来た。そしてなるべくひまわりに関係のある物は母の周りから遠ざけるようにしている。いまは母は自宅と庭続きの施設で離れて生活している。庭にはひまわりを植えないようにしている。母の居ない自宅にも今もひまわりの絵はない。悲しい話は60何年も前の事である。母は結婚して暫くは鹿児島で新婚生活を送り、大陸に憧れる父の情熱に負けて一緒に満州に渡った。そして奉天で初めての女の子を生んだ。慶子と名づけた。利発で元気な子で健やかに育つのを楽しみにしていた。3歳の夏、お祭の夜に大好きなおはぎを食べた。ところが夜中にお腹を痛がり吐いたり下したり大変な事になった。近くのお医者さんに見てもらいその当時恐れられていた疫痢との診断で薬をもらつた。なかなか治まらず点滴とてない時代、諦めるより仕方が無かった。その次の日暑い日中に息を引き取った。その年に限って庭には沢山のひまわりが咲いていた。満州に渡ってから初めての帰郷がお骨を納めるためであり慶子姉に取っては初めての日本海と関門海峡を越えての里帰りであった。父母は郷里での弔いをすませ再び奉天に戻った。その後、2人の男子と1人の女子をもうけた。それもつかの間、平穏な日は続かなかった。日本は戦争に突入、父は応召され昭和20年8月13日ソ連の満州侵攻で戦死した。一方母は兄、姉2人と生まれたばかりの私を抱えてソ連兵に追いかけられるように日本への逃避行が始まった。そして1年後に故郷になんとか帰還できたのである。しかし周りもそうであったように戦後の生活は悲惨なものであった。そんな生活の中で、母は無くした長女と過ごした幸せな日々を思い出し挫けてしまわない様に、また悲しい出来事を思い出さないようにかたくなにひまわりを避けてきた。私は小豆で作ったおこわや、おはぎが好きなのだが母は何時も食べ過ぎないように注意した。そんな気持ちを家族も慮ってひまわりを避けてきた。母と居る時間の長い妻は私よりも詳しく満州での話を知っている。いま母とは別々の家で生活しているがその気持ちは心のそこで続いて居るのである。

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