土木の機械力、建築技術の革新と普及で日本中何処を旅しても画一的で変哲のない町が多くなった。あこがれて訪れた期待が裏切られる事もしばしばである。そんな中で指宿は温泉もさる事ながら素晴らしい風景に恵まれている。池田湖とその周辺に突き出た大小の丘を眼下に天に向って立ち上がる端麗な開聞岳を望むとまるでそこには幻の神話の国にタイムスリップする。はるか遠方に桜島を望み高隈山を起点にして佐多岬に連なる大隈の青山に抱かれた錦江湾。南国のまばゆい青空を孕み雄大そのものである。指宿はこの素晴らしいロケーションの中でこざっぱりした家並みが点在する町である。
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*もし変える事が出来るなら 変える努力をしよう。
*もし変えることが出来ないなら 受け止める努力をしよう。
*変える事が出来るか 変えることが出来ないか 良く見極める熱意を持とう。
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母は90歳。今年の敬老の日には市長さんの訪問でのお祝いを受ける。飄々とした痩躯の姿は岩壁に生え風雪に耐えた松を思わせ安らぎさえ覚える。昨年の夏の暑い中、テレビの前で項垂れているのを気付かれた。脳梗塞だった。看病の甲斐あって、ボケ症状は酷くなったが、少しの手助けだけで日常生活には困らないほどに回復した。母は以前から近くの父の墓参りを日課にしていた。病気をしてから足しげくなった。少々の雨風でも、朝目覚めると同時に愛用の手提げ袋に線香とマッチを入れて覚束ない足取りで出かける。1日に何度でも出かける日もある。物忘れの為に1~2時間前の事も忘れているからである。私は敢えて止めない。母には丁度いいリハビリになっていると思っている。連れ合いの父は39歳の若さで戦死した。母の頭には若いままの愛する夫が行き続けているのだ。恋人に会う気持ちで出かけているのだ。夏がめぐるたびに母と私たち家族が過ごした戦後の困難を思い出す。しかし母の今の姿に時が昔の苦難を癒してくれるのを感じる。
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李の花が咲きました。
それがやって来たのは4月半ばの輪番開けの朝だった。シャワーを浴びようと風呂場に急ぎコックをひねろうと腰を屈めた瞬間に痛みが走った。声も出せず這ってパンツを穿きベッドに倒れこんだ。似たような事がこれまでもあって、一週間も静かにしていれば良くなるだろうとたかをくくっていた。所が今度は少し様子が違う。横向きに膝を抱えじっと耐えても痛く、少しでも動くと激痛が走る。かといって同じ姿勢でいるのもきつい。意を決して寝返りを打つ、その度に悲鳴を上げた。この拷問が3日3晩続き収まりそうも無い。昼間は周りの賑やかさに取り紛れて何とか我慢が出来た。人の寝静まる夜中がたまらない。一睡も許してもらえない。観念して胸の上で両手組む。窓から差し込む月明かりのもとで、殆ど悲劇のヒーローの最後だ。何の悪い事もしていない。涙がこぼれた。細切れにまどろむだけで何時眠ったかも分らない。このままいけば精神に異常を来たすのではないかと自分の事ながら心配になった。立つ事もならず、寝ても痛くてどうにも安らぐ方法がない。月にでも行けたら腰に重みが掛からず痛みが取れるかもしれないと埒もない事を考える。座れないので食事とトイレが大変である。食餌はおにぎりにして味噌汁はストローで飲む。然し寝て食べるのは何か味気ない。子供の頃のオネショ・コンプレックスもありベッド上での排泄には罪悪感を伴う。尿意に反して尿瓶になかなか出せない。大便もゴム便器を敷きエアポンプでお尻を持ち上げるが引っ込んでしまってうまく行かない。そこでレシカルボン座薬を入れる。焼けるような刺激が肛門全体に広がると同時にクリームを絞るように噴出してくれたので助かった。このような状態を介護保険では要介護3とするのかななんて自嘲する。一方で苦にもせず世話してくれる家内には感謝した。痛みがいくらか遠のき眠れるようになって人心地がつく。張り詰めていた気持ちが緩み涙もろくなってしまった。読み物の他は望むべくも無く、家内が買ってきてくれた読み物を読み漁った。その中に浅田次郎のオムニバス「鉄道員」がある。本の帯に人前で読むべからずとあったので、そうかなと言う思いで読んでいく内に不覚にも枕を濡らしてしまった。・・・5月半ばになり、やっと立てるようになった。鉛を押し付けたような鈍い痛みがつねにお尻に貼り付いて足を動かすたびに太腿からふくらはぎに稲妻のような電撃痛が走る。たまらず風呂場に駆け込み浅く張ったお湯にあをむけにねて手足をバタッかせる。腰を温めながらストレッチ体操で痺れが和らぐのである。まるで亀をひっくり返した格好になる。棺おけ体操と名付けて夜昼何回も行った。効果抜群と自分なりに評価している。今も腰痛ベルトを巻きへっぴり腰で頼りなく歩いている。ぶり返しが怖い。経験したものにしか分らない苦しみである。どこやらで魔女の一撃に合ったら、このたわいない話を思い出して慰みにして下さい。いつか良くなることを信じて。


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スモモの花が今年もきりりと
私は終戦の年に旧満州で生まれた。父は機械を扱うエンジニアで堅実な民間人であった。戦争終結も間近い昭和20年6月に徴兵された。すでに関東軍中枢部は南下を密かに進めていたと聞く。8月8日ソ連は不可侵条約を破棄し国境を越えた。下級の兵は本当の状況を知らされないままに守りについた。同胞と家族の為にと言う大義が唯一の勇気であった。凍てつくシベリアの荒野の小さな壕に身を屈め敵を迎えた。戦車の大群が壕の上を蹂躙した。父の墓には遺骨はない。入隊前に残した髪があるのみだ。広大なシベリヤの凍土の下で眠っている。私は父の戦死時の年齢を超えた。一兵卒としては年寄りである。関東軍は無力の民間人まで駆出し最後の体裁を繕った。当時の私の家族は兄と姉、そして母、そしてお腹の中に私がいた。父は風呂敷包みを1つ下げ兄の見送りでバスに乗り込んだ。それが家族との最後の別れとなった。父は名前を傳吉と言う。私は父の顔を茶色に変色し剥がれた写真でしか知らない。男の子が生まれたら傳次郎と名付けるよう言い残した。私は幼い頃はこの古めかしい名前が嫌で恥ずかしかった。死んだ父の年になり男の子3人にやっと歩き始めた女の子の父親となった。戦場に赴く男の気持ちが痛いほど良く分る。この名前に後に残す家族への思いがこめられている。私は父が生きたかった時を、代わりに生きている。目を閉じると緑の地平線がどこまでも続き花の咲き乱れる草原が浮ぶ。安らかなる父の冥福を祈る。
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