7月から医療療養病床の診療報酬が包括化された。その報酬設定は医療の必要度による医療区分1、2、3のそれぞれに介護必要度を点数化したADL区分1、2、3とその中の医療区分2・ADL区分1は認知機能障害評価CPS>3とCPS<2に夫々加算5と10点が付く様に成っている。そして区分数は合計10通りとなる。医療区分には決められた疾病と必要医療状態が定められているのでそれに従って分類する。さらに日々変わる状況を毎日評価する必要がある。それをカルテとレセプトに記載しなければならない。医療区分3は複雑な医療を必要とする状態で、報酬も高い。医療区分2、1と症状、状態は軽度になる。そして報酬も1区分の差でおよそ1日460点前後の差が出る。今療養病床に入院している患者を区分の基準に従って分類すると医療区分1が50%以上を占めると試算されている。医療区分1の報酬では人件費や維持費、使用薬物などを差し引くと赤字となり経営が成り立たなくなる。閉院または他の施設に転換する動きが始まっている。このような急激な医療界の変革は放置できない。日本医師会では現在、会員のアンケート調査を行っており9月にもその実態をまとめて政府に提言して行く予定である。
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今年もお堀の蓮花は咲いていますか-
私は薩摩の歴史に彩られた素晴らしい鶴丸城址と私学校跡で医学部専門課程の4年間を学び、鹿児島大学付属病院で臨床研修を亀ヶ原キャンパス移転までの間の4年間受けた。その後、巡り会わせで南九州中央病院開設に携わり辞める迄13年間、合わせると21年間を過ごした事になる。その意味では医者として私を育んでくれた素晴らしい恩師、先輩・後輩との出会いの聖地でもある。平成3年、開設10周年を記念して出版された本の巻末には当時の南中新聞が転載されている。随想「10年の時は流れて」の特集で、私は「わが青春・鶴丸城址」に国立南九州中央病院で過ごした感想を書いている。開設時に体育館のような伽藍堂の建物内に新しい診療カルテや書類、事務器具、検査機器、手術器械、診療器具を診療しながら揃えた。外科としては麻酔科と連携してICUを稼動させて一般手術から開心術と1歩1歩階段を登る様に態勢を作って行った。また病院運営の話し合いを連日開いて日が暮れて暗くなったのも分からなかった。あの時の情熱を羨ましく思う程で20年の年月が流れたのが信じられない。その間、私が外科で親しく交わり病院発展に大きく貢献した東哲秋君、西村明大君それに有川和宏君を喪った。ご冥福を祈りたい。初代秋田八年院長はじめ2代目西村基院長は御健在であり今でも私の心の支えである。少し前になるが鹿児島医療センターの前身国立鹿児島病院を譲り受けた県民総合保健センターにマンモグラフィーの講習会に出席する為に出掛ける機会があった。門をくぐりって玄関までは昔のままだった。さすがに中に入ると改装され方角の見当さえ付かなかった。矢印を頼りに講習会場に入り、椅子に座って周りを見回して初めてそこが以前に勤務して出入りしていた病室だとやっと気づいた。国立鹿児島病院が南九州中央病院に組織改変され本院と分院に分かれた時、私は循環器科入院中の数名の患者さんとともに今の病院に移転した。白亜の真新しい病院が広い敷地に初夏の陽射しの中に端然と聳えて眩しかったのを思い出す。はじめは8階ある建物を2階に手術棟とICU,6階を外科病棟、7階循環器病棟、8階を内科と放射線科の4階分だけ使った。職員数も少なく、家族のような親密さで仕事をした。ごく最近、救急車に添乗して紹介患者を送って行った。そのとき病院が大きくなりすっかり様変わりしておりめまいを覚えた。南九州中央病院を辞めて指宿に開業して13年になる。当時、毎日出入りしたICUにどのようにして行ったか分からなかった。迎えて呉れたスタッフの中に昔の看護婦さんの笑顔でやっと自分を取り戻す事が出来た。帰りに恐る恐る病院内を見て回った。昔の間取りを思い出しながら歩いたが見当がつかない。見覚えのある部屋を見つけてはつなぎ合わせ、やっとの事で全体像が分かって来た。立錐の余地も無いほど建物が増えて綺麗で近代的病院に生まれ変わっていた。おはら祭りの練習に精出した外来待合、術中照射の為に手術器具一切を運んだ廊下、秋田院長を囲んで医局員皆で食事した談話室、医局会、学術集会を開いた研修室など、泣き笑いした諸々の事を思い出させる名残に出会った。病院の名称は私が辞めて少したって一度、九州循環器病センターに変わったが今度、鹿児島医療センターとなった。何か親しみを感じる。医療環境の変化もさることながら、私達が草創期に形作った医療が認められた気がする。必要時、全ての住民がアクセスでき親切でフランクな医療施設を目指して欲しい。
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