父は61年前にソ連と満州の国境の牡丹江で死んだ事になっている。日ソ中立条約を破って侵攻して来たソ連軍の装甲車を迎え撃っている最中に戦死したとされている。仮定的に書いたのは戦いの後に集められた生き残りの兵士の中に父は見当たらず、父の最期を見届けた者もいなかったからである。母は3人の幼子をつれて苦難の末に満州から指宿に引き揚げて帰った。そして父は生きているとずつと信じて来た。父と同じ部隊の復員した人の噂を聞くと合いに行き手紙でやり取りしていた。戦後10年余りが過ぎた頃、国から戦死の公報が出た。私は小学5年生位、母と一緒に遺骨の入っていない空っぽの白木の箱に通知文を受け取りに県庁に行った。私達家族にとって父は何処かで生きていると言う思いがあり父の霊魂を信じていない。遺骨も確認していない。死の証拠がないのである。ソ連に連行され抑留された兵の名簿を必死に探したり、さらにはソ連の政治体制崩壊前1991年のゴルバチョフ政権が公開した死亡者名簿を穴の開くほど見返した。空しくも父の名前はなかった。1993年に訪日したエリチン大統領がシベリヤ抑留を謝罪し13000人の死亡者名簿の引渡しと遺骨収集を約束した。いまだに果たされていない。私達にとってこの事が最後の残された希望でも有る。もしその時期が来たらDNA鑑定でも何でもしてもらい確認したい。以前ロシア市民になっている日本人の報道があると父親もひょっとしたらと心を動かされて来た。しかし父も生きていればすでに100歳を超えているので流石に最近は平静になって聞ける様になった。今、靖国神社が政治的に使われている。母は戦死した兵士の妻として靖国参拝に招待された事が有った。しかし帰ってきて何も語りたがらなかった。虚しさだけが残ったのだろう。私も参拝に何度か訪れたが決して父と結びつく何の感慨もなかった。何時も心は遙か西の大草原の空の下である。
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