2/7 川崎先生が85歳になられた。
翌日、会って話すことができたので、お祝いを述べると、
恩師二人は100歳まで長生きしたので、私も100歳までがんばるつもり、とのこと。
ぜひとも、日本の宝ともいえる先生には長生きしていただきたい。
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1925年2月7日生。84歳となった今も現役小児科医で、今日も小児科外来をこなした。
以下は柳瀬義男(千葉大小児科、広尾日赤小児科OB)著「大学病院の掟」より
ーボクの自宅が東京だったこともあり、東京は渋谷の広尾の日赤医療センターを訪問することにした。、、小児科の医局を訪れると、にこにこと人のよさそうなオジさんが出てきた。これがこの時部長になりたての、あのK博士(川崎富作氏)だったのである。
ボクは、質問事項を書き込んだメモを片手に、研修内容についてあれこれと質問した。
「研修のカリキュラムは、一体どうなってるんでしょうか?」
K博士は答えた。「カリキュラムなんて、そんな特別なものはないんだよ。でもここに一年もいれば、大学病院の十年分くらいのトレーニングが積めるんだよ」、、
「給料はどのくらい、、」
「給料はボクだって安いんだよ。でもここは忙しいので、遊びに金を使う余裕なんかないんだよ。だから、われわれとしてはそれで十分なんだよ」
、、とにかく安い給料で、目一杯こき使われるらしかった。最後にボクは、こう質問した。
「ここの医局では、なにを専門に研究をなさっておられるんでしょうか?」
K博士は、にやりとしてこう答えた。
「うちの専門は臨床なんだよ。うちは臨床をやっているんだよ」、、
K博士の一日は、研修医以上に多忙であった。、、しかし部長回診になると、その眼はギラギラと輝き、患者のどんな細かい変化も見逃さなかった。外来診察の場で母親達と話している時の、あのニコニコとした温和な笑顔はどこにも残っていなかった。、、部長が関心をもつ病気の子供のベッドに来ると、あれこれ議論を始めて、容易なことでは移動してくれなかった。、、この執念が、川崎病発見の原動力になったのは、間違いない。、、
ボクがK博士の丁寧なムンテラに聞き入っていると、彼はボクにこう言った。
「君、子供が病気になるということはね、その母親も一緒に病気になることなんだよ。自分の子供の熱がいつ下がるのだろうか、、、いつ治ってくれるんだろうかって、毎日が不安で不安で、母親自身がココロの病気になってしまうんだよ。そうなると正常な判断すら、できなくなってしまうんだよ。だから、病気の子供を持った母親を、叱ったり怒鳴ったりすることは、医師としてやってはならないんだよ。、、」、、
ー川崎病の発表の当初から、K博士は東大など既成の大学の権威からたたかれてきた。
「そんな病気は、新しいものとはいえない」とか、「町医者風情が、突拍子もないことをいう」などという大学の声が、当初は大勢を占めたのである。、、
K博士はボク達にいつもこう言った。
「正しいものは常に残るんだよ。どんなに偉い大学教授だって、真理を否定することなんかできないんだよ。だから、自分が正しいと思ったことは堂々と主張する。そういう態度が大切なんだよ」
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ー最初の症例報告は、上司が海外の学会出席でいない時に、千葉地方会で発表。だが、フロアからの反応は皆無で、がっかり。
-高校(当時は旧制中学)の成績は優等生ではなく、医学進学は母親の希望。
-千葉の臨時医専には一浪で、1943年に18歳で入学。本人の希望は東京農大だった。臨時医専には合格する自信がなく、東京農大の入学金を払い込んだほどだった。
ー千葉大小児科に入局したが、経済的に苦しかった(富作の名はお金持ちになるように願って、親がつけた)ので、就職のあっせんを佐々木教授にお願いした。それもあって1年とたたずに日赤中央病院に就職。
-小児科学会(運営が気に入らなかった)を退会していたので、「アレルギー」に川崎病の論文を投稿。「アレルギー」は原稿が不足気味だったこともあって、44Pの長文をそのまま掲載(昭和42年3月号)。
ー上司の神前部長が、川崎病についてのシンポジウムの提案をするが、高津東大教授はSJ症候群だとして、拒否。
ー火、水、金の午後、無料で川崎病の電話相談に応じている。
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