注意欠陥と多動を伴うASの一群がいることは臨床的には明らかで、発達障害を見慣れない医療関係者には表面上の診断に困るケースだろう。
こういうケースと、自閉的な特徴をたくさん持ったジャイアンをどう分類するかについて私はずっと考え続けてきた。このことはこのブログをお読みの人には良く分かるはずだ。
さて多動を伴うASには普通のASの人に加えてさらに困難なストレスが加わる。つまり、「自分自身が落ち着きが無いためにこだわりを実現できない」ということだ。
堅い保守的なASの人は努力の結果も含めかなりの程度、「後悔するなら初めからやるな」という徹底的な時間的継続性、一貫性の世界で生きることが可能だろう。しかし多動を伴うASの人は自らそれを破壊し続けるために、こだわりの部分ではストレスが生じ続けることになる。
また、感覚過敏の部分でも、ADHD的に情報が無差別に雑多な状態で飛び込んでくるので、耐えられないノイズになることが多くなる結果となる。
こういうケース(学童か思春期まで)にコンサータを使うと、本質はASであっても非常に有効である。「本来のASとしての一貫性と過敏性に立ち戻れる」という結果になるからだ。
さて自閉的な特徴を備えたジャイアンとの鑑別であるが、これは私がASの根幹と考える「関連付け志向」とその結果である「全てを説明し尽くしたい認知」、また「人が非常に近く感じられる」特徴の部分ではっきり分けられる。
ジャイアンは根本的に場当たり的であり、過集中の一時を除き関連付けとは正反対の「これはこれ、あれはあれ」という断片的な思考であり、また「人を必要としない」。
もう一つ二刀流のASと一刀流のジャイアンという違いも重要だろう。
少なくとも学童の場合にはADHDと同様にコンサータは有効であるようだ。ASの本体のところには効かないが、ASの本体に反する部分を改善する働きがあるというところが面白い。
私は自分が死んだほうが良いのかと考えたとき、「これまで殺してきた動物」のことを考えることにしている。
(さすがに結婚後は家族への責任のことを先に考えるが)
毎日のように、鳥や豚や魚を殺して食べてきているわけで、この事実は消えない。子供の頃に飼い切れないで殺した虫や海の生物も多かった。血を吸いに来た蚊も数え切れないくらいにつぶしてきた。高速道路で走ればトンボがフロントガラスにぶつかって死んで行く。
私の人生に関わって死んで行った生命を「関係ない」「当たり前」とは言えないだろう。中途半端に死んだら、食べてきた、殺してきた動物や植物などの「生命」に対して申し訳が立たない。
誰も「手が全く汚れていない」人などいないと私は思う。
違うのは、「そのことを自覚しているかどうか」だろう。
時に私も過集中で自己正当化の木に上ってしまうことはあるが、大事なことは、その後で自分自身の立場について考え直すことだ。
単純にこれまで食べて殺してきた生命のことを思い出すだけでも、自分の人生にベストを尽くすしかないという結論は導き出せる。食べてきたことだけでも、私にとってはどんなに何を埋め合わせしても埋めきれないような負い目だ。
社会的に迷惑をかけてきたことはなおさらのこと。
私が最後に取り出す「究極の自己突っ込み」だ。
生き続けることは責任であり、その場その場でベストを尽くし続けることしか出来ない。
どんな理由があろうと、死ぬことを人のせいにするのは根本的な無責任であると私は思う。
ジャイアンはその「中心志向」のために意識して努力し続けないと万能の神になったような気になってしまう。
その中心志向を「反証」し続ける努力が必要だ。自己突っ込みはそのために役に立つプラスの努力となりうる。
共依存は当たり前だが依存させているほうにも責任がある。だから受動型ASや甘やかされた依存型ジャイアンが働きもせず、引きこもったりして、親に金を出させている場合、責任の半分は親にある。
一番悲惨な図は大人になっても依存が成り立たなくなると暴力を振るったり、自傷や自殺企図をしたりするパターンだ。
こういうケースの多くは親の側にも「責任を取りきれない」事情があることが多い。
例えば親が受動型ASの場合には、もろに文字通り「振り回され」て極端に行動する羽目になる。また親が依存型ジャイアンやジャイアンACの場合にも、「パートナーに任せてあったのに」と逃げ口上を言ったり、要求されるままに金を渡すだけになることが多い。「自傷などが心配だから」と言い訳をして、結局は自分自身の親としての責任をあいまいにして、正対してきちんと子供と関わることから逃げているのだ。
もちろん本気の自殺企図かどうかについては専門家の見立てが必要であるが、親として事態を打開する努力を先延ばしにせず行うべきである。
そのために私が勧めている方法は、「振り回されている親のほうがカウンセリングに通う」という方法だ。少なくとも、子供の問題の責任を自覚して、親自身が変わらなければならないという現実を直視する姿勢を取るべきだろう。
「子供だけの問題だから入院でもさせて(親は何も努力しなくとも洗濯機のように)きれいに治してくれ」と病院に求めるだけの親が多いのは残念だ。
親の関わり方と本人の行動が一組の悪循環を形成していて、そのパターン全体を変えないと本人の行動は変わらないというアセスメントを専門家がして、そのアセスメントを元に親に細かい関わりを助言する形が一番現実的だろう。
受動型ASの場合は脳からして依存的なのでちょっと別の考え方になるのだが。
私は心療内科のクリニックに勤務しているが、不器用なので「短時間で早くさばく」ということが出来ず、結局予約制の長時間面接というスタイルとなっている。
そういうわけで診られる数に限りがあり、新患を制限せざるを得ないので、定期通院希望のケースも先にメールで相談したい内容の概要を伝えてもらい、そのやり取りの後に新患の予約を取っていただくという方法をとっている。
その最初のメールの中で、私が注目するのは、「治療に何を求めているか?」ということだ。特に以前の通院歴の説明の中で、以前の主治医のことをどう表現しているかを見ると、その中に治療に求めることが現れることが多い。
私はADHDであり、ジャイアンの一刀流なので、本人にはきついことも容赦なくはっきり言うスタイルをとっている。それだけでなく非言語的なフォローも出来ない。
だから依存相手、「あなたが悪くないと肯定してくれる相手」を求めて来られてもそのニーズには応えられない。
「結局出来なかった」ことを確認するために貴重な時間を取ってもらうのも申し訳なく、また最初に出来ないことは出来ないと分かっていただく方が治療に導入した後でもやりやすいので、このメールの確認作業は有意義であると考える。
私の治療は、本人とともに「本当のことを明らかにする」作業だ。少なくともその作業から逃げない、不利なことを否認して自分自身をも誤魔化してそれで良いという段階を過ぎてから来られるのが一番のタイミングだと思う。
受動型ASは依存が受け入れられないときに自傷行為をすることがお決まりのように良く見られる。(依存型ジャイアンでも、いわゆるACや境界例と言われる人にも、要は依存パターンが存在するところには同様に良く見られる)。
この自傷は「自分の不安はこれくらい大きいことを身をもって伝えたい」というアピールであって、本気の自殺企図とはかなり異質な行動である(受動型ASは自分から本気で死ぬことも少ないと私は考える。良く見られるのは愛着の対象に殺してくれと頼む図だ)。
思春期のケースの親や、パートナーの立場からするとこれほど精神的に揺さぶられる状況は無いだろう。自殺をちらつかせた最も効果的な責任ある保護者への脅しであり、「依存をさせ続けろ」と強要する強烈なメッセージともなりうる。
私はもともと「人格障害」を専門にしようと考えていた医師であり、自傷についてはずっと考え続けてきた。
私の対処の方法は、「何か訴えたいことがあるのであれば、言葉で言いなさい」という方法だ。言葉で表現すれば一生懸命に聴く態度を示し、他方で「自傷のような意味の分からない行動では何も変わらない」ことを周囲の全ての関係者がドライに本人に対して行動で示すのが一番大事なことだ。
具体的には、かすり傷程度なら「これくらいなら大したことは無い」「死ぬことは無いよ」と冷静に説明し、縫合の必要の無いケースは淡々と消毒を指示し、縫合の必要なケースは外科の先生にお願いして、外科用のホッチキスでガッチャンと止めてもらう。
このホッチキスの利点は3つある。①「糸のように上からまた切れない」、②「傷の直りが比較的綺麗」、③「縫合のように丁寧に大事に対応されたという感じに欠ける」。「あなたのように自分で自分を傷つける人はこれだよ」とでも言いながらやってもらうのがベストだ。保険も適用しないで実費で処置費を取る先生も居られる。
一番やってはならない対応は、「大騒ぎして、その後周囲の人の態度が一変して本人の言いなりになる」というパターンだ。これをしたら最後、「要求が通らないと毎回でも自傷する」という悪循環に嵌ることになる。
これは情緒の問題ではない。何よりも「本人のためにならない」という合理的な判断で関係者全員が統一し、医師の判断のもと(本物の自殺企図との鑑別は医師の責任で行うしかない)、周囲が決して振り回されないように一貫して徹底した態度を一切変えないで続ける。
片方で前向きに本人が努力して認められる道を示し続けながらこの「逃げ道を封鎖する」方式を実践できれば、自傷のパターンは治療は可能となる。
関係者、特に親やパートナーの「度胸」「忍耐力」「本人に向かい合う真剣さ」がストレートに問われる場面である。関係者(特に医者)の側に少しでも正対できない弱さがあると、見事にそこに付け込まれる。
これが私がプロとして行っている治療の世界だ。
受動型ASの育て方に関して、(依存型ジャイアンの場合も似ているが)、大事なポイントは、「精神的にはサポートしつつも現実的な苦労をするのを妨げない」ということが重要だと思う。
例えば「本人の考えをきちんと聞き、合理的にきちんと是々非々の説明を続ける」とか、「本人が自分で努力したときにきちんと誉める」とかの、「理解」や「努力の評価」の精神的なサポートが一番大事であって、出来なかったときの気休めとか、辛いときのねぎらいなどの一般的に言われる情緒的な優しさは、下手をすると「共依存の誘惑」になりかねない。(特に子供がジャイアンの場合は注意が必要だ)。
受動型ASは小さい頃から、「愛着の対象が全て理解して、全てやってくれるのが当たり前」という認知を持っているので、「優しさ」は、その歪んだ生来の共依存的な認知を助長するものにしかならないだろう。(ジャイアンの場合はもっと露骨に利用出来るかどうかを見ているので、この場合も同様だ)。
現実には「愛着の対象が全て理解してくれて、全てやってくれる」などありえない。大人になっても、性懲りも無く、そういう依存相手を探し続ける空しい努力を続ける受動型ASが多いのは悲しい現実だ。
それは甘やかして尻拭いしてきた親の責任でもあると私は思う。受動型ASと分かった時点から、「現実的な苦労」をさせることは最低限必要で、特に経済的な自立、社会的に仕事を持つようにすることについては決して甘やかすことをせず、厳しく育てることが重要だ。
受動型AS本人には面白くは無いだろう。しかし大人になっても共依存の相手を探して空しい努力を続ける人生という結果になるよりは、子供のときに「自分で動くしかない」ことを自己責任の環境下で厳しくされることで身に着けることのほうがトータルの苦しみは少ないと私は思う。
何よりも、ジャイアンなり積極奇異型ASなり、(もしかすると多数派でも)に尽くしながら安定した関係を長期に維持することが可能となるからだ。(ごく稀な例外としては、飛びぬけた才能や特殊能力にジャイアンがブランド志向で惹かれる場合があることはある)。
「自分で動かない」スタイルのままで共依存の生き方をすると、「相手を病気にするウィルス」にしかなれない。これが受動型ASの厳しい現実だ。そのために必要なことは、情緒的に甘くせず、現実の責任は全て自己責任として尻拭いは一切せず、合理的な助言指導を続けるということになる。
結局合理的なADHDがすることそのままになるのが面白い。
私は受動型ASケアにはずっと悩み続けてきたが、最近やっと一つイメージが浮かんだので記しておこう。
受動型ASの基本発想は「共依存」だが、私は次のように考える。
「必要とされることが必要」 + 「自分からは動かない」 = 「共依存」(郭公の雛的生き方) という図式だ。
つまり「必要とされることが必要」だけではウィルスのように寄生しなければ生きられないスタイルは帰結しない。第二項の「自分からは動かない」という部分が問題なのだ。
「自分からは決して電話しない」とか、「必ず愛着の対象を動かすように非言語的な手段を使いまくる」という受動型ASの周囲にとって困った行動は、私は養育環境によって変化しうると思う。
例えば、私の知る受動型ASの人で、ジャイアンとカップルで結果的にうまく行っている人もいるのだが、その人の養育環境は、「親が早く亡くなり、弟や妹の学費を稼いで、世話もしてきた」というものだった。
これは「必要とされることの必要」の状況だが、ウィルス化する共依存型受動型ASとの違いは、「自分が動いて生きていくしかなかった」ということだ。
「自分で動く」限り、行動の形で責任は取っているので、ジャイアンとの共存は可能だと私は思う。(ただジャイアン側からは「利用」に近い形になるとは思うが)
だから共依存ウィルス型の受動型ASは結局「甘やかされた」経過の帰結なのだろう。愛着の対象である親が共依存的なあり方を許して、身に付けさせてしまった結果、「自分で動かなくて良い」というスタイルが出来上がったのだろう。
受動型ASの一つのケアは、「現実的にどんどん厳しい状況に追い込む」という方針だ。愛着の対象からはどんどん遠ざけて、だれも尻拭いをせず、本人が周囲の人を絶対に振り回せないような環境を作り、徹底した自己責任の原則で育てる。
飽食の日本でウィルスのように生きるくらいなら、発展途上国に行って井戸を掘り続けるとか、木を植え続けるとか、干潟の掃除をし続けるとか、「絶対に揺るがない必要とされる状況」を自分で探して、自分の力で「必要」に応える行動をし続けて生きたら良いと思う。下手に人間を相手にする立場をとるから厄介な問題が生じるのだ。
積極奇異型ASの場合に、小学校4年くらいになると、「廊下を走る(ルール違反をする)人が居る自体ストレス」と言うのがよく見られる。
また受動型ASは、「社会全体が自分を理解しない」とか「社会全体から迫害されている」という発想によくなる。
これらから推測してASにとっては、常に「社会全体が相手」という認知と思考の特徴があるように思う。
自分と「社会全体」があり、(特に受動型ASには)それが平和に一致しているか、または決裂状態にあるかどちらかしかない。
無理に説明をしようとすれば、「関連付け思考」の結果、ASの認識の細密画の一方の端がぼやけていることは許されないので、どんなに遠い社会の果てでも明確に白か黒かになっている必要があると説明は出来ないことは無いが。
ジャイアンから見ると、「常に社会全体を相手にしている」というのは、「誇大的、自意識過剰もいいところ」という風に映る。(これは多数派から見ても同様になるはずだ。もっとも多数派はそう思っても言わないだろうが)。
例えば、「社会全体が自分を受け入れるはずだ」と考えれば明らかに誇大的となるし、逆に受け入れないと言えば被害妄想になる。
「理解不可能なことの理解」でも確認したことだが、この前提からものを言う限り、ジャイアンは「井戸の中の誇大的」と反応するだろうし、個々の人の集まりを超えて「社会全体」を考えること自体が、(ナチズムでもない限り)発言の責任を著しくあいまいにして、結果として無責任な発言をすることになることは理解するべきだろう。
どんな権威や被り物をかぶっても、「ASを持つ一人の個人の発言」でしかないのだから。
言語的な表現と非言語的な表現の二つを別々に使えるかどうかが発達障害特にジャイアンの根本問題であるということが分かってきた。言語的な表現をオモテとすれば、非言語的な表現はウラだ。
幼少期に、例えば親ジャイアンが、支配的であると同時に弱みや無責任さを見せて共依存的に子ジャイアンを引っ張り込むと、依存的なジャイアンACが出来上がる。
これに対して、子ジャイアンに強い愛着を持ったAS親が、オモテで言語的に厳しくしながらウラで愛着のために非言語的にやさしくした場合、「ウラ一刀流」という状況が現出する。
これは表面的には「境界性人格障害」とか「身体表現性障害」などの形をとることになるだろう。情報の送信も受信も主にウラ(非言語的なチャンネル)だけでやり取りし、オモテは言い訳とか誤魔化しとか全くの表面上の「建前」とか、その程度のテキトーな意味しかない。
ちょっと不安げに見せたり、自傷などの相手を必要と感じさせるような行動に出たり、非言語的にちょっかいを出したり、要は「AS親が喜んで言いなりになってくれる」ような非言語的な行動を鍛えられるわけだ。
その結果ウラ一刀流の境界性人格障害に良く似た依存型ジャイアンが出来上がり、思春期から以降も、周囲のASをいとも簡単に手玉に取りながら生きていく。
特に受動型ASは簡単に利用できるので便利だろう。
問題は「便利すぎてそれなしで生きられなくなる」ことなのだが。
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