ジャイアン(自己正当化型ADHD)は万事大げさであるが、特に痛みには弱いように思う。
小さいころから、ちょっとした火傷や切り傷などでも、手当てをしてくれとしつこい。年をとっても血圧にこだわったりする。
ただ予防接種の注射だけは、おそらく(目の前で他の子が泣かなかったら褒められるのを見るからであると私は思うが)我慢するジャイアンは多い。
ジャイアンはもともと不安が強く、また表面的な現象だけが認知され、その「意味」までは考えが及ばない。
だから「痛みはあるがなぜ痛いか分からない状態」ということになり、不安が強くなるのだろう。
また、「親を独り占めしたいということで手当ての形でかまってもらう口実になるから」というのもあるだろう。
思春期のケースでリストカットなどの自傷行為や刺青にこだわるケースは、一種の「解離」下にしているケースもある。基本的には「痛いことが嫌い」なのがジャイアンである。
他の不安が強く、また医療サービスに文句をつけることも多いので、歯科に行けない人や先延ばしで痛くても放置するケースも別の意味では多いのだが。
痛みをまったく感じないかのように見えることの多いASとの大きな違いのひとつである。
ジャイアン(自己正当化)型ADHDは「感謝」を要求する。その意味では私の前々回のブログは説明不足だった。
ジャイアン型ADHDの特徴は、注意欠陥や多動、「これはこれ」の場当たり的発想に加えて、「直系親族へのこだわりがあるが基本的には人間にはドライ」、「どの場でも自分が中心であることを求める」という行動特徴があり、よく「モラルハラスメント」の加害者になる。
「自分に有利か不利か」だけには幼少期から鋭敏な状況認知が出来、自分への低い評価には過剰に反応して攻撃的となる。逆に人に対する気配りは(ADHDの部分で)全く出来ず、残忍で攻撃的な発言も多い。
物事の捉え方が非常に浅薄、表面的で、理由や経過を問わず結果としての言葉だけにこだわったりする。
周囲から見ると、「自分に不利なことを言われたことはいつまでも執念深く覚えていて、また察知も出来るのに逆に相手を攻撃したことはすぐに忘れ、相手が傷つくことも全く分からない」という非常に自己中心的な見かけとなる。
そういうわけでジャイアンが何かを相手にしたとき、それが迷惑であろうがなかろうが、「私がこんなにしてやったのに御礼も言わないか」と感謝を要求する。逆に露骨に感謝を要求したら自分が図々しくあつかましく思われるという状況認知は出来ない。
ついでにジャイアンは自分の非を認めることが出来ず、非を認めざるを得ない現実を突きつけられると、ファンタジーの世界に逃げ込んだり、都合の悪いことを頭から消したり、(解離性健忘とも言う)、混迷様に混乱して病気(急性ストレス障害)になったりする。
自分のことながらこの現実に暗い気持ちになる。
これまで説明したように、ADHDもともとかなり「分からない」障害であるが、自分のことをある程度合理的に見ることは出来るため、自分の努力で一部は障害の部分を補うことが出来る。
その中でも大事なことは、「多数派を観察する」作業だ。私もADHDであり、直感的に状況察知は出来ない。カミさんに教えてもらったり、自分自身と多数派を観察し推論した結果をここに書いている。
具体的には、「周囲の人はなぜこういう行動をするのだろうか? 」ということを考え続け、とりあえずその人の行動を説明する仮説を自分なりに想像する。説明の仮説が当たっているかどうかは、現実に現れた行動を「予測できるかどうか」で決める。
当たる確率の高い仮説であれば、「次はこうなるはず」という予測が可能で、とりあえず毎回予測をしておいて、実際に当たったかどうかを確かめる作業を全ての場合に続ける。
そういうわけで、「すぐに反応しないほうが良い」と私は思う。特にすぐに感情的に反応すると、見当違いになる確率が高く、相互理解につながらないことが多い。感情的にならないためにも、「観察と予測」は大事なことだ。
多数派の場合には、本人に「どうしてこういう行動をするか」を直接聞いても答えられないことも多い。その理由は、私の推測では、「思わず、当たり前として直感的に行動しているから、何故と聞かれても答えられない」のだと思う。
多数派を観察し、一つ一つの多数派の行動に対して説明と予測を繰り返して、多数派の行動を説明する「仮説のストック」を作り上げれば、それを直感の代わりに使用することは可能だ。
私が青年期以来25年くらい積み重ねてきた仮設をまとめることが出来れば役に立つかもしれない。今進めている作業がその「基礎編」にあたるのかもしれない。
前回はADHDから見て、ADHDとしての人間を大事にする「相手の生きていく自発性、可能性の尊重」という原則から、ASの支配がどう見えるかをかなりずばり書いてみた。少なくともADHDに対しては支配は人間としての価値の否定になる。
ここで理解してほしいことは、「苦しんでいるのはASだけでなく、相手も同じである」と言うことだ。
さて今回はASの側の視点に戻り、「生きた人間としてのADHDとの共存のためのASとしての最低原則」を探ってみよう。
1.まず「ADHDにとって自由や自発性、未来は何も決まっておらず、自分で自分の行動を決定できる権利はかけがいの無い重要性を持っている」ことを頭で理解する。
2.次に「ADHDの行動については基本的に全面的な自由を認める」 決意をする。ただしこれは自由を認めた後の「期待」「相談」や「交渉」の可能性を否定しない。例えばADHDとはいえ何でもして良いということではない。ASの側の人格を否定するような言動については「理解を目標に相談する」ことは出来る。ただし結果としての「完全な理解」は要求しない。
3.「ADHDの心の中のこと、意図や真意などについては完全に理解することを断念する」または「理解は本来不可能であることを認める」努力をする。相手のことを完全に分かっていると感じるとすれば、それはこじつけの断定でしかなく、ADHDの人格の否定にしかならない。
4.上記と同様に「相手が自分のことを完全に理解することは不可能である」ことを認める。それを要求しないように努力する。
5.ADHDと共存する場合、共にする生活については、「未来は完全に不確定で何も決まっていない」ことを認める努力をする。自分で「予想」や「期待」はしても良いが、これはあくまでも自分だけの中の予想であり、相手には「単なる一方からの希望」として表明する。
6.上記の「努力する」と書いた部分については、これは「努力目標」と理解し、結果として完全に実行できる意味での「義務」ではない。人間は不完全であるから、努力していれば相手はその努力の事実のみをもって「目標に近づいている」と理解する。ただし、相手から「努力の不足」を指摘された場合は、謙虚に受け止め、その反論については(反論自体を封殺するような形では)言葉によってもその他の態度によっても不満を表明することはしない。(上記と同様に理解を目標に相談することは出来る)。
表現が分かりにくいかもしれないが、これを最初の「叩き台」として、いろいろな意見を「期待」します。
アスペルガー症候群の人と話していて驚くことは、「後悔しない」ということである。逆に言えば、「後悔するくらいならはじめからするな」「後で絶対後悔できないので事前に悩む」という思考と行動をとる人たちである。
驚くべき記憶力で、小さい頃のことまで克明に記憶し、また他人にも厳密な首尾一貫性を要求するので、多数派からすると「随分前のことを取り出して難癖をつける」ような形になってしまう。これは思考法の直接の帰結なのだが。
これと「人への愛着」が合わさって、多数派から見ると支配的でストーカー的な行動が帰結する。
また他者も自分と同じく首尾一貫性を重んじ、軽はずみには行動しないと仮定すると、必然的に「何らかの意図があって」ということになり、表面的には被害妄想的な発想ともなる。
成人アスペルガーの人々と時間をかけて対話して理解を試みてきた結果分かったことだ。下記に詳論
私はADHDである。ADHDの一大特徴は、「人に執着しない」ということである。小さい頃から母親が不在でもあまり泣かず、親に頼らず自分で何でもしようとする。
思春期には人とつるまず、孤立していじめにあったりする。結婚は成り行きで「ただそのとき一緒にいたい」から。夫婦冷却してもカネのためと割り切って離婚しないこともある。最終的には自分の好きなモノがあれば無人島でも平気で暮らせる。
究極の「猫的生き方」であると私は思う。オオカミ的な群れは作らず、干渉されなければ無駄な戦いもしない。来るものは拒まず去るものは追わない。体育会系の人にはさぞ自己中に見えることだろう。
愛着の対象とそれ以外の極端な差別を持つオオカミ的なアスペルガーとは対照的である。私はADHDとASの鑑別にこの特徴(人に対する執着の有無)をよく用いる。
心療内科や精神科に受診する治療抵抗性のパニック障害や社会不安障害、うつ状態の人の中には、かなり発達障害が含まれると考えられる。
簡単な鑑別の仕方は、アスペルガーの場合「感触を理由にした偏食と聴覚過敏、変化を嫌う」等、またADHDの場合は「片づけ、物を捨てられない、他人事のように話す」等の行動特徴でスクリーニングできる。
発達障害を疑ったら、まず診断できる医療機関(といってもまだ成人の場合少ないが)に紹介してもらい、診断をつける。
診断如何によって治療は異なるが、いずれにしても、時間をかけて本人の訴えを聞き、本人の疑問点を整理する作業を続けることで身体症状も抑うつも回復する。
私の勤めるクリニックでのコーチングの経過で、ほとんどのADHDは薬を中止できる。ASの場合はもともとストレスが大きいので、抗うつ薬や抗不安薬を続けることになることが多いが、症状はかなり改善可能だ。
下記に詳論
http://www7.ocn.ne.jp/~k-goto/adhd.htm
境界例性人格障害(私はACと呼ぶ)は「治らない」とまで言う人がいる。激しい行動化に振り回され、医師や心理師もボロボロになることも実際多い。若い頃に興味本位で思春期のボーダーの女の子に過剰に関わって、振り回されて「懲り懲り」になった結果、アレルギーのように毛嫌いするケースもある。
実はADHDは境界例を治せる。その理由は、
1.ADHDは態度やそぶりなどに振り回されないので境界例と対決しても苦にならない。
2.ADHDは正直で表裏がないので、境界例を不安にしない。行動化を最小限にすることができる。
3.ADHDは言葉で言われないと分からないため、境界例は言語的にアピールするしかなくなる。(すなわち回復する)。
4.ADHDは思い切って直面化を行っても、正直で表裏が無いので、疑われないでストレートに言葉が通じる。
5.これに加えて、「行動にはとらわれず、認知の修正に焦点を絞る」という方法で、境界例の見捨てられ不安の根本にある「認知のゆがみ」を直接治すと、AC(境界例)は実際に回復する。
下記に詳論あり。
http://www7.ocn.ne.jp/~k-goto/accsl.htm
AC(アダルトチルドレン)という概念は、学問的ではないけれど臨床的には便利だ。診断基準上は多くのACの人は「境界性人格障害」に分類されるが、そう分類することでの治療上のメリットは少ない。なぜならこの分類基準は、原因やどのようにして形成されたかとは無関係に表面上の特徴から並べているだけだからである。
そういうわけで私は本人への告知および病態の説明としてはAC(アダルトチルドレン)という呼び方を利用している。このほうが家庭環境によって作られているという多くの境界例のケースの説明に合致し、また「ACの認知の修正」という枠組みで行動化を抑える治療に有効であるからだ。
ところでACも境界例も、特に境界例の場合行動のほうが目立つためこの行動化への対応が治療と思われているが、逆に必要なことは「評価を過剰に受け取る認知の修正」である。
家系図とアルバムを用いた養育環境の事実関係の徹底した振り返りで、多くの場合、「両親の間の問題を背負わされてきた」経過が分かることが多く、「両親の問題は両親に返そう」という認知の修正でACや境界例の不安は消失し、ほとんど治癒に至るケースは実際多い。
(下記に詳論)
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