私はメール相談の返事を大体日曜の昼間に他の事と同時進行でうろうろしながら書いている。
今回も携帯アドレスからのメールで返事を書いて送ってみたら届かなかったのでここに掲載しておこう。
(クリニックに催促電話までしておいて返事が届かないようにしているとは何事か!)と腹が立つではあるが。
最近まえはら心療内科に催促電話した心当たりがあるお母さんへのお返事です。
前略メールを拝見しています。お返事遅くなりごめんなさい。
さて本人が中学2年ということは、もう思春期なので、本人の意向が一番重要です。
受診されれば発達障害の診断をする可能性が考えられ、それを本人が理解し納得する
必要があります。
本人には受診のことをどう説明していますか?
本人は受診や診察を希望していますか?
本人が希望していなければ、あなたの名前のカルテでケアの相談は可能です。
ただその場合でも、「本人のことであなたが相談に行く」ことの説明とOKはきちん
ともらってください。
本人との相談がどうなっているか、もう一度メールで教えて下さい。
とりあえずお返事まで
7月31日 まえはら心療内科 後藤健治
日曜に何気なく衛星放送を見ていたらサウンド・オブ・ミュージックの映画を放送していて、毎度のことだが見入ってしまった。
主人公の修道女マリアはどう見ても私にはADHDに見える。
そのマリアが修道院に逃げ帰ってきたときに院長が助言したのがこの歌だ。
Climb ev'ry mountain
すべての山に登り
Search high and low
高き低きをたずね
Follow ev'ry by-way
あなたが知っているすべての脇道と
Every path you know
すべての小道を辿りなさい
Climb ev'ry mountain
すべての山に登り
Ford ev'ry stream
すべての川を渡り
Follow ev'ry rainbow
すべての虹を追いなさい
'Till you find your dream
あなたの夢を見つけるまで
歌詞を読めば読むほど、「ADHDに最適の助言である」と私は思う。誰が何を言おうと、結局自分が納得するしかない。
「すべての山に登ってみる」しかないのだ。
すべての脇道や小道まで全部行けと言うあたりが、「中途半端に逃げるのは許さない」というこれまたジャイアン向けの助言になっている。
何度見てもADHDとして感動する映画だ。
発達障害は多数派と違い「空気」によるビルトインの衝動統制システムが働かないため、自前で「いびつ」な衝動統制システムを身につけ発展させつつ成長する。
例えば中心志向型ジャイアンと私が呼んでいるグループの人は「ほめられるから我慢する」というシステムで生きるため、一番になること、表面的なステータスを追い求めて死ぬまで走り続けなければならない。
成人発達障害の諸問題はこれらの二次的に身につけた衝動統制のシステムが二次的に現実と不適応を起こしているということが多い。
多数派の人から見れば、そもそもこれらのいびつな衝動統制のシステム自体が異常であり、それが不適応を起こすのは当たり前であるということになるだろう。
これらの中で最も現実的で二次的なマイナスが少ないと思われるのが「合理的根拠による衝動統制」即ち「根拠があるから我慢する」という衝動統制システムだ。
しかしこれも当然であるが、自分がこのシステムで衝動統制をすると、必然的に他人にも「合理的な我慢をする」ことを要求することになる。
これが発達障害の人が異常に理屈っぽいという印象を持たれることの理由だろう。
しかしながら、実際の現実世界は合理的に動いているわけではなく、逆に不合理や不条理があまりに多い。
したがって合理的な衝動統制を身につけてもこの「世間の不条理をどう考えるか?」という大問題に直面することになる。
主に思春期以降、頭が働いて自分をごまかしきれないある年齢からは、大人がどんな風に説明しても納得できないことになる。
私は最近この大問題をずっと考え続けている。世間自体が不合理で不条理であることをどう考えるか?
一つの切り口は、「生身の人間である自分自身もそれほど合理的でもない」というもので、例えばジャイアンの「ひがみ」など、「自分自身の中にも不条理極まりない醜い感情が存在する」ことを自分に言い聞かせる。
他には、「判断するだけの情報が不足している」という風な考え方もある。「情報は所詮自分のほうから見た一面でしかないから、えらそうに判断するまで行かない」という考え方だ。
ただこういう「合理的なマイナス反論」ばかりだと、「生きているのが苦しくなる」という結果になってしまう。
私自身は最終的には「意志による選択、決断」しかないと考えている。
「世間には不条理はある。それを承知の上で自分は別の何かを得るために、楽しいこともあるからこの世間で生き続けることを選択する」。
合理的な世界観を「選択と決断」で補えば、とりあえず生きていくことは可能だ。
さて新しいクリニックもスタートしたことであるし、私は一人のジャイアンとして自己を振り返る作業に戻ろう。
私はADHDは個体認識の学習障害であると考えている。特定の名前を持った「**さんとの関係」という関係自体を認識できない。(顔や名前を覚えられないのはその一部だ)。
「無差別、平等、公平、偏見が無い」という特徴はADHDのむしろ良い面であるが、実はこれは「個体認識が出来ないから抽象的な人間対人間の関係になる」というまさに障害そのものの結果なのだ。
私は以前「ジャイアンは人を必要としない」と書いた。実際例えば「筏に乗っていて川下に滝があることを教えられるのを拒否する」ような自己決定権への強いこだわりがあり、逆に変に「人を必要とする」時は病的な依存になっていることの方が多い。
それから私はずっと、ではADHDは「世界にぽつんとただ一人」で他者との関わりの意味は全く無いのか?、他者との関わりの中で精神的に救われることは出来ないのか?
をずっと考え続けてきた。
実は最近ASの若いケースと話す中でやっと答えが出た。
その答えは非常に単純で、「ADHDは理解を求めるが、理解は他者にしかできない」ということだった。
ああ良かった。ADHDも他者と関わる余地があった。ただ少し抽象的であるが。
ADHD流の人との関わり方は、「お互いに自分の考えを述べ合って、かなり議論をして、その後『理解しあった』という実感を得る」という内容だ。
この「理解されることの意味」についてはもっと考え続ける必要があるが、とにかく唯我独尊状態ではなくなったというだけで私自身はかなりほっとした。
これで仕事以外にも人と接触することに少しずつでもトライしくことが出来るかなとも思う。
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