2011.05.31 13:20 |  診療  |  研究  |  その他(医療関連)  |  ADHD関連  |  AC、人格障害関連  |  YANBARU  | 推薦数 : 3

出口は合理的な納得

 結局出口はここしかない。人の力を借りないで自分が納得するための一番現実的な方法は「合理的な納得」だ。
 「利害損得」という方法もあるかも知れないが、結局多数派の「空気」に代わる納得の方法を自前で編み出すしかないのは大人でも同じであるのだ。

 ジャイアンに戻る。怒りが表面化する。「その怒りをどうしよう?」。

 その答えは、「合理的に考えて理由のあるものは仕方が無いと合理的に納得する」ということだ。

 例えば自分にひどいことを言った相手が居た。その相手への怒りが抑えきれない。

 ジャイアンの場合はそういう理由で解離になったり依存に走ったり摂食障害になったりAC的になったり躁うつ病などの病気になったりいろいろな反応が起こりうる。

 結局解決はその言葉が発せられた状況を具体的に細かく直視して調べて、「当たっているものは仕方が無い」「しかしここまで言わなくてもというくらいの反論は成り立つ」といった作業をカウンセリングの場でもすれば良いということだ。

 その結果その経験に「納得」できれば、「トラウマ」に近いものになっていたものが「解消する」という可能性まで見えてくる。

 だからジャイアンACを治すと同時に、合理的思考のトレーニングを並行して進めるのが良いということだろう。

 出てきた怒りやこれまで納得できなかった数々の経験を、一つ一つ合理的に解決していく作業が可能となる。
 辛いが本人が逃げ出さないことと、ある程度の合理的な思考が出来ることが必要条件だ。

 結局「ジャイアンは衝動統制の障害なので、大人になったあとでも、衝動統制の新たなシステムを新たに再構築するのが解決」という非常に単純な結論だった。

 何でこんな単純なことにたどり着くのにこれほど時間がかかったのだろう。これがジャイアンの「救い」なのだ。

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2011.05.30 01:44 |  診療  |  研究  |  その他(一般)  |  ADHD関連  |  AC、人格障害関連  |  YANBARU  | 推薦数 : 5

自己正当化型撤退

 ジャイアンACの人の非常に特徴的な認知と行動のパターンのひとつに、「全面撤収」「全面撤退」とも呼べるような極端な譲歩のパターンがよく見られる。
 「自分が悪いから」と自己主張を100パーセント引っ込めてしまう形になることが多い。
 言っている内容自体は一見自己評価が下がっている内容であるのに、何か逆に誇大的な印象を持たれる方も多いだろう。

 自分の主張が否定されたりした場合に、ちょっとでもうまく行かないと、「これ以上痛い目に遭いたくない」「はじめから自己主張なんかするからいけなかった」「もう何にも言わなければ良いんでしょ」というような半分逃げの入っている一方的「全面撤収」で、「もうそのことは考えない」と思考自体を放棄して忘れようとする面がある。

 いかにも反省して方針転換しているように見えながら、本当の意味での反省ではないところがいかにもジャイアン的である。
 譲歩、全面撤退しながら同時に「自分は間違っていなかった」と逃げ道を探しているようなところがあり、「自己正当化型撤退」である。子供が「ごめんなさいと言えばいいんでしょ」と居直って言うのに似ている。

 自己主張したことが間違いではない。その内容に相手に受け入れられなかった何かの問題があり、本当は「何が問題だったのだろう」と話を深めて考えるべきであるが、それを確かめる作業がジャイアンには情緒的に辛すぎるのだ、いつも偉そうに上から目線で他人には厳しく高圧的なくせに自分が言われたときだけは弱っちく逃げを打つのは非常に(自分もそうながら)情けない姿であるが、この打たれ弱い小心者の姿が他ならぬジャイアンの本当の姿である。

 さて表面上は全面撤退したのだが、実は否定された内容自体には納得は全く出来ていないことが重要だ。「口に出したことが悪かった」とか「どうせ理解なんかしてもらえっこ無い」など
と自分に言い聞かせて否定されたこと自体を記憶から追い出そうとしているだけで、「しっかり考えて納得する」こととは程遠い。(私はこのやり方を「狐とブドウ的な否認」と呼ぶ)。 
  
 飛びつけなかった自分の問題であるのを、「どうせあのブドウは酸っぱいはず」と自分に言い聞かせて「自分が悪くない」とみっともない負け惜しみ的な言い訳をするというパターンがジャイアンには非常に多いのだ。

 しかし実は話はこれだけで終わらない。この納得していなかった感情は、「一方的な譲歩感」として残ることが多い。その結果は、次に同じようなことがあった場合に「ほれこの間言っただろう」という激しい復讐的な攻撃性として出てくるか、またはさらに抑圧されて自覚されないところで身体症状(自己免疫疾患の悪化を含む)として出てくることが多いと私は思う。

 このことの根本的な解決は、「納得」の方向にある。最悪カウンセリングの場に持ち込んででも、本人が納得できる結論を出せればOKである。
 
 だからジャイアンの子供を持ったら何とか思春期までに合理的な思考を身につけさせたい。
 合理的、理論的に考える作業によって「相手から言われたことが正しい」「合理的な理由があるから撤退するのだ」と自分自身を納得させられれば、生きていくのはずっと楽であるからだ。

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2011.05.27 00:18 |  診療  |  研究  |  その他(医療関連)  |  ADHD関連  |  AC、人格障害関連  |  YANBARU  | 推薦数 : 2

「ジャイアンに戻る」

 ジャイアンACは非常に多彩な病形を取りうる。状況察知能力と幼少期の環境により、ボーダー様から摂食障害、解離を伴うこともある。

 私の治療方針は単純で、「ACの部分をまず治す」という方法で進めている。特に自己免疫疾患や難治性のうつ状態が悪化しているようなケースは、とにかくACの部分を治して二次的な病気を治してしまうことが優先となる。
 
 ただ実際の治療の過程では、ADHDの診断を納得するところまでは何とか進むが、そこから治療がパタリと止まってしまうことが多い。
 よくよく話を聞いてみると、「ジャイアンに戻る」ことが実感として理解出来たからだったようだ。

 私もそうだが、ACの前に中心志向が強かった人などは、他者がほめられることへの強烈な妬みやひがみの感情、抑えがたい攻撃性などが徐々に表面化する。それだけの理由で「ACのときのほうが良かった」という人も居るほどだ。 
 
 私は実際に酒を飲めないのだが、実は飲むのが恐ろしいとも思っていた。自分の中の攻撃性が尋常でないことは何となく分かっていたので、「飲酒して合理的に抑えが効かなくなったらどうなるんだろう」と恐れていた。今も例え飲めたとしてもそういう危険なことはしないほうが良いと考えている。

 ACからの回復の途中で自分の本質がジャイアンであることに気付いて不安になり、あるいはあまりの自己中で醜い自分を正視しつづけること堪え切れず、回復がストップすると、一時的には「離人症」に近いような状態となる。
 
 本当のことが分かってしまったからにはADHDとして今更ACには戻れない。さりとてこのままジャイアンに戻ってどうなるんだろうと迷い苦しむ状態だ。

 私が「カミングアウトしたジャイアン」としてケアに当たっている意味はこの場面にあると私は考えている。

 これから本人が戻り行く醜く自己中なジャイアンの姿を「了解」することは普通は困難であるからだ。
 
 私はジャイアンACのカウンセリングで、回復の途上で本人のジャイアン的な部分が見えてくると、「良かった」「良くなっている」と大いに喜ぶが、本人は複雑な顔をすることになる。

 実際そうでもしなければ、ジャイアン的な醜い部分が自分にもあることは隠し続けるしかなくなるだろう。
 隠し続けることはACが治らないことを意味し、本当の意味での回復は望めない。

 「それで良い」。もともとの脳がそう出来ているのだから、そこから別のほうに行こうとすると必ず別の病気になってしまうから。
 その姿が本当の姿なんだから、そこに戻ってそれなりの生き方を一緒に考えて行こう。
 
 私は自分のことを引き合いに出し、私の場合は「贖罪」のようなものだと説明したりする。自分が醜いことから目をそらさず、自分を責め続けて生きるのは正直きついではあるが、「自分なりに出来ることのベストを尽くすから勘弁してくれ」と自己突っ込みに対して言い訳をし続けて生きている。
 
 一方で自分を責め続けていても、ADHDの過集中とジャイアン的な根性は全開で使える。それらを少しでも生かせる環境に行けさえすれば、とりあえず「直ちに自分を殺してしまう」ところに行かないで行き続けることは可能だ。

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2011.05.23 13:27 |  診療  |  研究  |  その他(医療関連)  |  ADHD関連  |  AC、人格障害関連  |  YANBARU  | 推薦数 : 2

現実感とは

 私は小学校の頃から、仏教の「一切は空」とか、現実はただ思い描いただけのものじゃないか? といった考えを、非常に「リアル」に感じていた。
 別にわざわざ宗教の教えにしなくても最初から当たり前じゃないか、と思っていた。
 その頃は情緒障害で「離人症」の状態であったため、実際冷たい水の中にずっとつかっていて、ガラス越しに世界を見るような感じだった。
 
 28歳を過ぎてから、情緒障害から回復してみると、私は煩悩の塊のようなジャイアンに戻った。とりわけ妬みと僻みは救いがたく激しく、「自分が上に立っていて当たり前」とか、「問題が起こるのは相手が悪いから」といった発想が当たり前にずっと「前提」されている。

 私が「中心志向の自己突っ込み」と呼んでいる異常に誇大的な感情は強烈にあり続けているが、しかし同時にこれらが根拠の無い思い込みであるという認識もあり続けていて、苦しいだけでそれが生きている実感居はならず、実は「空は空」であると今でも感じている。

 「現実感」とは何か? 世間では人との交流で得られる生き生きとした体験から得られると言う。
 しかし私は時々運が良いときに瞬間的にそう感じることはあっても、それ以外の時間は他者との情緒的なつながりを実感できない状態で生きている。
 ADHDの人が訴える「空虚さ」はこういう種類のものであると私は考えている。

 まあ全然別のものではあるが、ゲームでも何でも「モノとの関係」で集中しているときは充実感はあるにはあるが、この充実感には必ず終わりがあり、運にもよるので、ずっとある種類のものではない。

 多数派の人は、「自己」意識も衝動コントロールも、「空気」との密接な関係の中で行われており、言わば「共通の空気にプラグイン」した状態で生活実感が形成されているのだろう。
 ADHDは対人個体認識の障害のためにその「プラグイン」が出来ず、かえって周囲の多数派の人が「空気と連動」しているのを見て自分が疎外感を感じる。

 だから多数派の「生きている実感」は当然「空気」の中に居る感覚であるはずで、それ自体はすでに主観的なものではない。
 「間主観的」という言葉があるが、複数の人がプラグインしていること自体が実感に関係している。
 多数派の空気の主体は、みんなで10円玉を動かすゲームのように、特定の人ではなく、全員が少しずつ参加して空気が構成されるが、意識されない部分もある。

 ADHDには最初からこの「空気にプラグインした実感」は無い。依存型ジャイアンの人は一方向の受身的な参加は可能であるが、「同じ現在の空気に参加している」という形にはならない。

 多数派の「プラグイン」は双方向で、パソコン同士とか携帯電話同士のネットワーク、(ネットゲーム?)のようなものであると私は想像しているが、依存型ジャイアンは一瞬一瞬の状況に受動的に反応しているだけで、自分自身が起こしたアクションと次の「状況」の間が意識の上で切れている。(意識されない形でも切れていると私は想像している)。

 私はADHDのケアには、「表面的で分かりやすい派手な目標」を設定することにしている。
 「その目標に向かって突っ走っている」という形で現在の自分の「立ち位置」を確認できるからで、その突っ走っている最中はある程度の充実感を味わって実際高いパフォーマンスを実現できるからだ。

 逆に、「先延ばし」状況のように、ADHDが実力を発揮できない状況は、直感的に書けば「自分の立っている場所が分からなくなっている」というのに近く、この現実感のレベルの混乱の状況なのではないかと考えている。

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2011.05.13 01:16 |  診療  |  研究  |  その他(医療関連)  |  ADHD関連  |  AC、人格障害関連  |  YANBARU  | 推薦数 : 4

不登校と身体症状の意味

 小学校高学年頃から見られる不登校のあるパターンのイメージがやっと一つ出来たのでまとめておこうと思う。

 「前日には登校するつもりで準備」し、「行けば元気に楽しそうに学校で過ごす」のに、「朝登校する段になり腹痛や頭痛で行けない」ことになる。「登校の時間が過ぎるとすっかり身体症状は治る」というタイプの不登校をいく例も見て来て、中に「親にほとんど反抗していない」ケースが多いことに気付いた。

 親たちはみんな一生懸命であるが、口では本人の自由にして良いと言いつつも、実際上は「登校させたい」という意志を持ち、それが本人に伝わっているというケースだ。

 私は「思春期なので自己責任の状況に置く」という基本方針で、まず親に徹底して「行くか行かないか本人に任せる」ことを指示し、そのために「行かない意志表示をさせる」「行かない代わりに勉強はする」ことなど少しずつ枠組みを絞る関わりを親を通じて続けた。

 ある親はかなり親自身精神的に追い込まれて、ついに本人に「行くつもりがあるのかどうかはっきりしなさい」と告げた。 
 最近は勉強(自宅学習の通信添削)の内容も本人に任せて「見もしない」ようになって、で本人は学年が変わったのを期にかなり登校するようになった。

 その彼が、週の前半頑張って登校し、後半は休むパターンで、担任は変に気を回して登校しても半日で帰るように勧めていたが本人は担任には抵抗した。
 ところが(頑張って本人に任せて触れなかった)親が担任から言われてちょっと「無理しているかも」と言った後は、あっさり引き上げた。
 で、どう違うかと私が突っ込むと、「お母さんが言うから」という発言があり、全体のシステムが見えた感じがした。
 
 基本は親への「丸投げ依存」で、「自分で考えようとしない」「自分で責任を負いたくない」というパターンになっている。

 で、親が実際上は登校しなさいという態度で居る間は、「登校します」と言い、実際準備もする。朝になり、行動に移す段階になり、不本意ながら腹痛や頭痛で登校できなくなる。このパターンが長期化していた。

 私はこう考える。本人は本心は「納得できていない」何かがあるのだろう。それを言語化出来ないのだろう。その納得できていない部分が身体症状として出てきているのだろう。
 実際上は行けない何かの理由があり、本人は自覚さえしていないかもしれない。
 単に「思春期として親から自立して自分で考えて責任を負っていくことをしたくない」ということかもしれない。

 年配のもとベテラン教員のスクールカウンセラーは母に「本人を理解してあげなさい」と助言した。母は本当に追い込まれ、私と相談して、ついに「あなたが行きたいのに行けないのなら親として行かせる努力をし続けなければならないから、どっちなのか?」と本人に言いたいことを言った。
 実際前日に登校の準備をする行動が親を追い込んでいた事実があったため、私は親を通じて「行かないなら行かないで良いのでその代わり勉強する」という責任を本人に突きつけ、その結果やっと親は「本人に任せる」ことが出来るようになった。

 以前「管理型共依存」と書いたことがあったが、親の管理責任の弱みで共依存に巻き込まれるパターンは多いと思う。
 特に思春期のケースでこれまで「親に反抗していない」という場合は、徹底して「自己責任にして親は指示しない」形にするのが関わりのベストであろう。

 「自分で考えて登校することを自己責任で決定する」以外に本当に登校するようになる道は無いと私は思う。

 それでないと、学校で起こったちょっとした嫌なことも我慢出来ないだろうからだ。

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2011.05.09 00:46 |  診療  |  研究  |  その他(医療関連)  |  ADHD関連  |  AS(アスペルガー)関連  |  YANBARU  | 推薦数 : 4

ASは庇護を求める

 ある高機能のASの人とのカウンセリングの中で、本人から「庇護を求めていた」という言葉が出てきて、さまざまなASのタイプを統一するイメージが浮かんだ。

 もとは「庇護」なんだ。だから「100パーセントが当たり前」で、「対等の関係にはならず」、「相手の人格を想定しないで良い」のだ。

 「庇護」という言葉は無条件の理解と保護を意味する。だいたい胎児から乳児に対する親の行うことが「庇護」で、親は当たり前に100パーセントの責任を負い、乳児本人からの要請や
親子の相談は必要なく「以心伝心」で親は乳児の求めていることを理解し、提供する。
 
 反対にケア(世話)する立場になった場合はASの人はケアされる側のニーズを聞くことをせず、結局第三者から見ると「支配的な押し付け」になるが、これも「庇護」モデルの反対側を演じているのだと考えると説明がつく。
 
 ASの人の理想とするコミュニケーションのあり方にも非常に似ている。「言わないで分かってほしい」。これを求めていると想定すると、ASの人の行動が理解可能となる。

 乳児期までは当たり前に「庇護」を求めることが出来る。
 しかし3歳くらいになり、「自分の気持ちを言語的に説明しないと伝えられない」段階になり、多数派の場合は、「親対子の二者の庇護関係」から、「その場の全体の空気の中での親と子の関係」に移行する。
 その中で庇護の持つ100パーセント無条件の特質は不可能であることを子供も少しずつ受け入れて行くと想像も出来る。
 
 対してASはおそらくこの二者関係の「庇護」のイメージでずっと成長して行くのだろう。その結果が受動型ASの特定の愛着対象への100パーセント要求と考えると理解可能だ。

 積極奇異型ASの「仕切りたがる」「全体からの注目」欲求ももしかするとこの「庇護」の変形したものと考えると直感的に理解が出来る。

 思い切って図式的に整理すると、受動型ASは「相手を限定する方向で適応する」、積極奇異型ASは「ちょっと形式を変形して自分が注目される形になることで満足する方向で適応する」という風に想像できる。

 このケースの場合は、母親がジャイアン型ADHDで、こっちは対人個体認識の障害(顔や名前を覚えられない等)のため、実は乳児期に「庇護を断念せざるを得なかった」ような形となり、一種の情緒障害となったことが思春期以降の激しいいろいろな症状の基本になっている可能性があるという話になったのだが、庇護を求めるASの子と、与えられない「平等な」ADHDの親という相性は必然的にこういう結果をもたらすことが想像できる。
 
 私はASの人の対人行動の特徴を「愛着」という言葉で表現していたのだが、基本に「庇護を求める」心性があるとイメージすると理解しやすいので、もっと良い表現を考えているところだ。

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2011.05.02 09:31 |  診療  |  研究  |  その他(医療関連)  |  ADHD関連  |  AC、人格障害関連  |  YANBARU  | 推薦数 : 7

「本人が一番苦しい」

 親に暴力を振るう引きこもりなどの場合で、家族から相談が受けることが良くある。ネット相談などでは私は親自身にカウンセリングを受けることを勧めることが多いのだが、これは「共依存」の場合を半分念頭においているからだ。

 こういうケースで医療や福祉の専門家から「本人が一番苦しんでいます」「じっくり見守りましょう」という助言が出てくることがある。

 私はこのケア方針は引きこもっている本人の健康度に関してかなりの自信が無いと出せないものだと考える。
 情報が少ない段階で出てきた場合は、「医療者や福祉関係者の責任逃れの逃げ口上」では無いかと言いたくなる。

 重要なアセスメントは、「積極的な介入をしないで見守るだけで自力で回復する見込みを持てるかどうか」だ。専門家はその判断をする立場にあり、その結果に責任を持たねばならない。

 私は医療のプロとして、自分のアセスメントとそれに基づくプランには責任を負うべきであると当たり前に考える。「じっくり」を助言するからには、「少なくとも数年の間には自然に解決へ向かう」という確たる見通しが必要だ。これは口で言うほど簡単ではない。

 「支持的な関わりを続けて行きながら本人が自力で立ち直るのをじっくり見守って10年以上経ってしまった」というのでは冗談にならない。
 もしもこの経過になるのであれば、それは「アセスメントの見立て違いであった」と考えるべきではないか?
 もっともはじめから「10年以上かかる覚悟で行きましょう」と親などに告げるのなら話は別であるが、その場合は家族は普通は別の専門家のもとへ移るだろう。

 例えば「11歳、小学校5年生のいじめを原因とする不登校」などの場合は、適応指導教室のスタッフやスクールカウンセラー、時にはフリースクールの仲間などの環境で「本人が成長して自然に立ち直る」可能性を想定して強い介入を差し控える根拠は十分にあるだろう。
 
 しかし同じ引きこもりでも18歳を超えてしまうと、「サポーティブに話を聞いておけばその後本人が成長して自分の生きる道を見出して行くだろう」と安易に想定できるだろうか?
 こういうケースでも「本人がいちばん苦しい」はその通りだが、「それを理由に積極的に介入しない」というケア上の判断はどうなんだろうか?
  
 上記のアセスメントで最も重要なことは、「親との共依存のシステムが出来上がっていることが無いかどうか?」、「本人の発達障害などの問題が隠れていないか?」である。
 
 成人しているのに「この子は自分で生活出来ないから」「他人様に迷惑をかけないため」と言って面倒を見続ける親は多い。
 多くは幼少期から過保護過干渉で、本人は失敗から自己責任で学ぶ機会を与えられず、管理され支配されて生きてきて「自分で考える」ことをしなくなっている。

 「本人が自分で出来ないから」、「親に丸投げしておけば最後は親が尻拭いしてくれる」という共依存のシステムが出来上がってしまうと、それ自体が引きこもり体制を支えているため、そのままで自力で解決へ向かう可能性は非常に少ないと私は考える。
 実際親が年取って限界になってから医療につながるケースも保健所などでは今でも時々目にする。

 共依存の場合は、極端には「最後は叩き出す」というハードな自立への環境調整を目標にして、親が親からの共依存のプラグを抜くための努力を続けることになる。
 
 脳自体が依存的に出来ている受動型ASのケースや、ADHDで超場当たり的に支配的な親の顔色を窺うスタイルだけを身につけ成長したケース(私は依存型ジャイアンと呼ぶ)は、本人の側にケアするべき発達障害があり、「自然に成長して解決」という形にはならない。
 「その脳の特徴を持ちながら、どう社会に生きていくか」のオーダーメイドの方針が必要だ。

 統合失調症やうつ病で未治療のままニートだったケースは昔からあった。
 
 これらの場合は最低でも医療で「診断」はつける必要があり、家族の定期受診などにより診断をつけるだけの情報収集と、家族との緊密な相談による(時にはハードな)「環境調整」が必要になってくる。
 
 いずれにしても「本人が苦しいからじっくり様子を見ましょう」では駄目なのだ。その駄目なケースをきちんと鑑別して介入するか見守るかを決めるまでは医療と福祉の専門家の最低限の責任なのだ。

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