支配的な親からの理不尽な愚痴をずっと聞かされ続けている依存型ジャイアンのケースの言葉。
「親も精神的に持たないから」「死ぬといっているから」。
こう考えて本人は理不尽と感じつつも親の現実的、心理的なフォロー、尻拭いをずっと続けてきた。
私は本人に聞いた。「何故子供であるあなたがフォローする必要がある?」「親本人はその
問題から逃げていいのだろうか?」
本人は再度「でも親は本当に責任を突き付ければ死ぬかもしれない」と言いつつも、
自分の発想の問題点に気付いた。
私はその本人を見て、依存型ジャイアンの発想のひとつの特徴に気付いた。
「逃げて良い」のだ。依存型ジャイアンの世界では辛ければ、死ぬといえば、どんな責任からも逃げて良いのだ。いつもながら依存型ジャイアンの世界には驚かされる。
その理由は、結局「その場だけ」という一瞬に生きる依存型ジャイアンの認知と行動を考えれば容易に推察できる。「自分が逃げたいから親のフォローを続けざるを得ない」というのが本人の根本問題であった。
依存型ジャイアンが依存型ジャイアンを作るプロセス、ダメ息子の尻拭いをし続ける過保護親や、ダメ夫と知りつつも(共)依存し続けるAC妻など、ドライな周囲から見ると「何で甘やかすの?」と首をひねる行動の根本原理は上記のような説明が可能ではないだろうか?
「自分が自己責任に直面できないから人も甘やかす」という依存の世界の流儀なのだ。
WAISなどの知能検査では明らかな学習障害の特徴は示さず、また文章も比較的うまく書けるのだが、相手は「どこか話が通じていない」と感じるASや高機能自閉症のケースに時々出会う。
「木の絵を描いて」と言われて、「何で葉っぱが無いか?」と聞くと、「木の絵を描けと言うから」と答える。最近話した高機能自閉症のケースで印象的だったのは、「先輩の言うことを
聞かないことが出来ると知らなかった」という発言だった。
これは狭義の学習障害というよりも、社会的な状況理解の障害でASないしは高機能自閉症的な認知の特徴と見なされることが多いだろうが、見ようによっては「連合の学習障害」と
見ることも出来ると感じた。
観念の連合とは、具体的には「連想」のこととも言えるが、「木」から「葉」まで行かない。「葉を書けと言われていないから幹だけ描く」という発想は、「連合の及ぶ距離が非常に短い」という見方も出来る。
だから多数派的な想像、連想の及ぶことを「普通」と考えれば、非常に連想の及ぶ距離が短い、範囲が狭いというのは一種の「学習障害」と考えることも可能だろう。
例えばASや高機能自閉症の人が「空気が読めない」という場合、現象としては「特殊な自分なりの読み方をする」ということになるのだが、その独特の認知と行動はこの「連想の
距離が短い」という認知・思考の特徴から来ていると考えると理解しやすい。
だからADHDの「注意が継続できないから周りの情報を十分に取ることが出来ず空気が読めない」のとは根本的に異なる現象であるということになる。ここがASとADHDの根本的な違いの一つだ。
地元の福祉保健所で発達障害サポートの医療機関を集めた会議が開かれるが、私は都合で参加できないので、文書を出すこととした。以下はその原稿より。
医療としての成人発達障害支援には二つの困難がある。
①「時間と手間がかかりすぎて民間医療機関のサービスとしては成り立ちにくい」。
②「依存的で他罰的なケースを依存させた末に、ケアの限界で逆に主治医が攻撃されるパターンとなることがある」。
①はまず診断にも生活歴や家族歴の聴取にかなりの時間と手間が必要となり、通常の精神科診察よりも診断に多大な時間と手間を要する。
ケアにも、まず本人のストレスとなっている問題自体を探り当てるためにかなりの時間と手間をかけた聴取が必要。その後で多数派での行動の意味を考えながら本人のストレスとなっている問題の「答えを出す」作業にも同様に多大な
時間を要する。
何よりも本人が納得するまで説明するには通常は省略される非常に根本的な部分から説明を試みなければならないので、短時間では根本的に困難なのだ。
②これも重大であり、結果として発達障害ケースが医療機関で嫌われる大きな要因の一つであると私は考える。
ASに多いが、主治医なり福祉のスタッフなどの相手が「自分を理解してくれる」と思うと、「理解しているのは当たり前」となり、説明を求めても努力しなかったり、素振りや細かな表現から察知するのが当然だろうと考えるようになったり、また現実的な依存となると、極端なケースでは生活まで主治医に保障しろと求めたりするケースもある。
(私自身の失敗例だが、例えば福祉事務所とのやり取りなどで主治医として影響力を行使した結果、「生活の困ったことは全て主治医が保障する」ような形になってしまい、主治医として大失敗であったと大いに反省した)。
最終的には、「2年も相談しているのに解決しない」等と福祉担当者や主治医を攻撃することまであるため、そういう目に遭った医療や福祉の担当者は「こういうケースは懲り懲り」となり、発達障害支援に協力するスタッフが減っていく。
(原稿についてはここまで)
私は受診希望のケースに全員先にメール等で相談の概要を伝えてもらい、私自身が予約するかどうか指示する形にしている。これは上記の②の状況を回避するためであり、「最初から依存相手を探しているケースを除外してトラブルを回避する」ことを考えてのことだ。
メール相談でも、親からの相談で親自身の責任を自覚せず「本人の病気だけを治してくれ」と言ってきたり、あるいは「自分は被害者」ということだけを訴えて助けを求めたりする文面には私は「親であるあなた自身が変わることを考えないで本人だけを治すことは出来ません」とか、「被害者的な考えだけをしているうちは助ける方法は無い」と世間的には非常に不親切な返事を書くことも多い。
それが本当のことだと私が考えるからそう答えるしかないのだ。
統合失調症の幻覚や妄想を抑える薬を「抗精神病薬」と呼んでいる。今は使われなくなったが「メジャートランキライザー」というのもほぼ同じ意味だ。以下「メジャー」と略すことにする。
ほんの2、3年前までは抗精神病薬といえばドーパミン神経の「ブロッカー」のことで、セロトニン系やノルアドレナリン系を同時に一部分ブロックする等タイプは違っても、基本的には
ドーパミン神経をブロックするのが抗精神病薬の作用だった。
ドーパミン神経はいくつかあるが、意欲や快感などに関係するドーパミン神経の一群をブロックすると、当然意欲が低下し、基本的に思考能力は低下し、メジャーを服用しながら普通に就労することはほとんど不可能と言っても良いように私は思う。
だから私は「メジャーは最後の手段」で、なるべく思考力を抑えない感情調整薬(躁うつ病の薬)やてんかんの薬をいろいろ組み合わせてイライラを抑えたり衝動をコントロールすることを目指す。
子供の自閉症や成人のASにもよくリスパダールやセロクエルが使われているが、私はよほど問題行動が激しくない限りメジャーは使うべきではないという方針だ。
ところが「エビリファイ」(一般名アリピプラゾール)という新しい薬は、作用の仕方が全く違う。
ドーパミン神経のブロッカーとしてではなく、「弱い刺激剤」として働くので、ドーパミンが出すぎて居るときはブロッカーとして働き、少ないときは刺激剤として働き、結局ドーパミン神経の働きを「安定させる」作用がある。
私は最近ADHDの過集中と虚脱は、「ドーパミン神経の不安定」であるように考えている。この意味では、「ちょうど良くする」エビリファイの働きはADHDに最適と言うことになる。
メジャーの仲間ではあるが、衝動の激しすぎるタイプやファンタジーが妄想のようになるタイプのADHDにはエビリファイを使ってみることをお勧めする。
私もほんの5、6年前までは、「自分が世間に迷惑にしかならないのなら生きていけない」と考えていた。
ところが今では、AC的に「迷惑になるなら仕事に行けない」と言っている人に「何を中学生のようなことを」と偉そうに言っている。何が違うのだろうと考えた。
直接の変化はやはり「偏屈者宣言」だろう。「普通」を諦めた段階で、自分なりに生きて行くしかなくなった。平成18年の5月で、たしか何年か前の10月頃にこの話題で全国のニュースに出た。
「世間に迷惑になるなら」という発想は、自分が生きている根拠を世間のほうに証明してくれと言う意味で、「甘ったれている」「依存的」な発想だ。世間のほうからすると、「何でお前のようなやつにそこまでしてやる必要があるか」「自分で生きて行く意志が無いやつはさっさと死ね」と言われても仕方が無いと今はジャイアン的に考える。
結局「必要」で自分を正当化して、「必要」にぶら下がって生きて行きたい。AC(アダルトチルドレン)に非常に似ている。
しかしながら、どのACにも言える事なのだが、ACとは一面「異常に自意識過剰」で、「世間から必要とされる存在でありうる」「そうでない可能性を想定しない」と言う意味で非常に誇大的であるとも私は思う。
自分自身のジャイアン性についてとことん考え抜いてきたこともあるだろう。ジャイアンはどう考えても自己中で妬みや僻み、相手より優位に立ちたい心理、攻撃性など、どうあがいても正当化しようの無い醜さの塊である。これは事実でどうしようもない。
ここからすると、「必要を証明できる」なんてもしかすると到底無理なとんでもない身の程知らずかもしれず、自分自身に「だったら死ね」と突きつけざるを得なくなる。実際そうしながら生きているのだが。
私の場合は、「仕事」があるにはある。「必要を確認する」なんては言えない。それよりも、「生きている手ごたえ」にはなっている。相談者とともにある行動や心理について考え、一定の答えが出て「理解」が成立したときの楽しさのような充実感を積み重ねてきたことは上記の変化の一つの要因ではあるだろう。
生きていて楽しい、充実感がある。大半の時間は自己突っ込みに苦しんでついつい大声を出して叫びたくなるのだが、他方で短いながらそういう瞬間もあることで、今の私は生き続けている。
実際問題、過去3年間で3回戦力外通告を受け、実際辞めさせられてきたが、これは完全な確信犯で、医療機関には他の先生が貢献しているだけの外来収入をもたらさないで好き勝手なことだけしてきた。
だから辞めさせられても仕方が無い。とっとと別の場所をまた探し、またもや「寄生」的な立場で自分の好きなことを続けようとしている。そういう意味では怪しい組織が弱体化している場所のほうが私には都合が良いということは言えるだろう。
これが「偏屈者宣言」の実際の応用だ。私は世間に迷惑をかけても、好きなことをやり続ける。
一部は役に立つ可能性はあるだろうが、それはあくまでも結果としての世間からの評価でしかなく、私が生きている根拠ではない。
ジャイアンACの回復の一つの姿である。ちなみに自己突っ込みで自分を責め続けることは継続したままだ。
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