3月中旬から休みも引越しがあり、5月の連休明けもいろいろバタバタして、メール相談の返事が滞っていた。やっと最近になって遅まきながら返事を書き始めた。
毎回感じるが、「メール相談への回答が私の原点だった」と思う。県の支援センターに関係する仕事などをしていて、結局続けられなかったのであるが、またもや天狗になっていた。
私の原点は、「メール相談に応じる一当事者で医師でもある人間」であり、それ以上の何かであるといつも勘違いをして失敗を繰り返している。
この勘違いに気付かせてくれるのがメール相談である。
そう言えば最近は「発達障害は子供だけと言われた」とか、「どこの医療機関でも診られないと言われる」といった以前は非常に多かった相談がめっきり減ってきた。
やはり全国的に発達障害者支援センターが機能して、成人発達障害を診られる先生方が増えているということだろう。
私の立ち位置は、「精神科医であると同時に当事者でもある」という特徴で、そこを原点に私に出来ることを細々とやって行く方法を考えよう。
私の出発点は二次障害重症の情緒障害系ジャイアンACであり、もともと社会に少しでも居場所が与えられているだけ上等と考えるべきだ。これは非常に大事なことなのであるが、毎回忘れて尊大になってしまう。
これは取りも直さず私のジャイアン的な中心志向の結果である。自分のことながらこの強すぎるエゴをコントロールし続けることの難しさを痛感する。
私は沖縄県発達障害者支援センター(旧法人)で平成19年12月から月に一回嘱託医として 「医療相談」に乗ってきた。
平成21年3月に旧法人が突然委託を返上した時には、ある施設と 一緒にセンターの委託を受ける方に手を上げたが、県の重点方針とは違う方向性で、委託は 受けられなかった。
平成21年4月に新しい支援センターを現法人が受けたが、当時は大学病院も含めて県内に 成人発達障害を診てくれる医療機関が本当に見つからず、実際上私の勤務するクリニックはじめ2、3機関 ほどしかないような状況で、その私も予約がいっぱいで新患を制限する事態であったため、無理やり 私がセンター長に泣きついて嘱託医にしていただくようお願いした。
暴力もあり大変なケースをセンターのPSWがたくさんの医療機関に当たってやっとケアしてくれる 病院を見つけたケースも実際あった。
現法人はもともと子供の施設であったため、成人のニーズが非常に多いこと、ケアできる医療機関も 少ないことを訴えてお願いして「押しかけ」のような形で嘱託医にしてもらった。
そうこうしているうちに、私はクリニックから戦力外通告となり、沖縄県では辺境の地に移った。
新しい勤務先では短時間の診察しか出来ないため、何とかネット相談を併用して成人発達障害ケアを 継続する体制をその後やっとのことで作りつつあるが、その間に県内の事情も良い方向に変わり、 初診でも発達障害の診断希望に応じてくれる精神科の救急医療機関も出てきたということで、結局 未診断のケースは支援センターで受けてもその医療機関などいくつかの医療機関に「そのままつなぐ」形となり、支援センターの医療相談は実際上不要となった。
また、支援センター自体は市町村を中心とした相談窓口の「後方支援」に回るとのことで、 実際立派な実績やキャリアのあるスタッフを増員して体制がさらに強化されている。
この意味でも 県の方針と支援センターの取り組みは実に本格的で、昨年までのように「家内工業的に私がスタッフと 一緒にやって行く」感じでは全く無くなった。
本日この話を聞いて、私自身は個人的にはこれまで支援センターでの相談にかなりのエネルギーを 割き、全仕事の中での優先順位もかなり高く考えてきたこともあり、「さびしい」という感情はある。
しかし、初診でも診断希望で成人発達障害を診てくれる医療機関が登場したのは非常に喜ばしい ことであり、実際上「沖縄県内の成人発達障害全体を私が何とかしなければ行けない」ような感じで 抱え込んでいたのが不要となったことはほっとすることでもある。
私自身の反省点としては、結局「成人発達障害ケアの裾野を広げる」という本当に必要なことへの 努力はほとんど出来ず、昨年年頭に目標とした学会発表なども結局出来ないまま
で来ていることだ。
結局私のしているケアはきちんとした学問的な根拠を持たない「我流のケア」でしか無く、きちんと 教育を受けた本当のプロの人がいれば何も役に立たない。「分野としてたまたま誰も手をつけて来なかった からこんな我流でも一時的に支援センターに関われた」というのが実際の真相であったと思う。
ジャイアンでも積極奇異型ASでも、思春期以降は基本的に本人が自分の脳の働きについて正確に理解し、多数派の世間とどう関わるか本人が決断して努力する必要がある。
私はHPの「発達障害の適応の基本原則」でも書いているが、発達障害の根本問題は、「多数派の世間でメジャーな地位を得たいのならば大いに妥協するしかない」、逆に、「自分のこだわりを大事にして生きたければ世間が狭くなることを覚悟する」という究極の選択をすることである。
単純に書けば、「メジャーをとるか自分のスタイルをとるかの二者択一」で、(よほど幸運でなければ)「両方は取れない」ということだ。幸運なケースは「職人の家柄」や「スポーツや音楽の才能に恵まれている」などの幸運によって自分のこだわりを通してさらに天才として評価されることが稀にあるが、当然ながら多くのケースのケアの目標には出来ない。
積極奇異型ASはこの問題を考えることに非常に抵抗があるようだ。こだわりも曲げないままでメジャーであることを求める。
実際私がこの問題を突きつけたケースも、「選べません」とうつ状態となって直視を避け続けているケースもあった。
実は思春期以降の発達障害の適応の問題全ての底にこの問題が横たわっている。例えば「漢字を覚えたくない」などのこだわりの問題を解決するときにも、「漢字を覚えなかった場合に進路の選択肢が非常に狭くなることを覚悟するしかない」という現実を突きつけて、本人に選択させるしかない。
逆にこの形で納得しない限り、本人が本当の意味で適応する方向に納得する方法は無いのではないかと私は考える。
だから11歳以降に発達障害の診断をつけた場合は、医師は必ず本人に説明するべきだ。
その説明の中で、「脳の働きの少数派である」ことをきちんと説明し、その結果直ちに上記の根本問題が現れるので、本人に選ばせるプロセスに入るべきだと私は考える。
実際メジャーを目指すか自閉的に生きるかの本人の方向性が定まらないと、ケアの方針も立たないのは当たり前のことで、本人の決断を待って基本方針を決定するという順序になるべきだ。
結局大人のケースも積極奇異型ASでトラブルの多い場合などは、この問題に立ち返って考えることがケア上の「本筋」となる。「何でこのことをもっと早く言ってくれなかった?」と言われて、「ここまで同じパターンで失敗する前はあなたは指摘しても認めなかっただろう」というケースは実際多い。
依存型ジャイアンの行動パターンの一つの転機は思春期である。「依存型ジャイアンは思春期に表面化する」ということに最近気付いた。
私は少年鑑別所で発達障害の診察もしているが、「IQは高いのに年齢相応の考えが足りない」という発達障害のケースがほとんど毎回と言っていいほど見られる。
思春期になって「自分が試験監察期間中である」ことを「忘れていた」というケースがあり、テストではIQはむしろ高いので、これは「発達障害に伴う継続的思考、合理的思考の欠如」と説明するしか理解の方法が無い。
ジャイアンで非言語的状況察知能力が高いケースの場合、「周囲の人の反応を非言語的に察知して合わせる」ことをして行けば発達障害的な不適応はむしろ少なく、ごく「普通」と見なされて成長する。継続的に目をかけてくれる依存対象に恵まれれば、大人になって会社の重役になる人も居る。
社会的な問題が表面化するのは、多くは結婚後にパートナーや子どもから見てあまりにも一貫性が無く責任感の欠如がひどいという段階であるが、その前に思春期に破綻する一つの契機があるということだろう。
大体10歳頃までは親が代わりに責任を負う「子ども」であり、本当の意味での本人の責任を問われることは少ない。
それが、思春期になると、「自分で考えなさい」ということが多くなり、「継続的な思考」は当たり前に求められるため、それが無いことで事件を起こして警察の扱いになるなど、「考えの無さ」という形で問題が表面化するのだ。
審判への診断所見には「合理的思考の欠如」と説明、認知療法的なカウンセリングで改善する可能性が高いと記した。もしも私がケアするチャンスを与えられれば、「時間的継続性」「責任」「意味」「他者」という以前にこちらに説明した依存型ジャイアンのケアを試みてみようと考えている。
ジャイアン型ADHDは衝動統制の障害である。「2歳レベルの衝動を我慢できない」という状態がジャイアンの「自然状態」であり、環境により二次的に別の障害に移行する。
以前にも書いたが、「ゴリ押ししたら全部通してもらえた」という環境では「衝動を我慢しない」という障害に成長する。人を困らせてコントロールしたり、強引にゴリ押しを続けて自分の衝動を通そうとする。通る限りこれを続ける。通す限りエスカレートする。大人になってDVの加害者になったりする。
「例外を一切許さない冷徹な合理的基準で律する」(鬼母)という環境では、「理由があるから我慢する」という超合理的なスタイルとなり、その結果は他人にも厳しく、自らをも一生涯責め続ける超合理的強迫的ジャイアンへと成長する。
「非言語的な威圧で押さえつけられて従わされた」環境では、「押さえつける主の顔色を徹底的に伺う」というプロセスの中で、「衝動は強い人が禁止するから我慢する」というスタイルを身に着ける。このスタイルは自分が強い立場に立てば「我慢しない」という結果になる。
さて、この「衝動を人にコントロールしてもらう」という状況で実は「依存」が帰結する。まあ自分だけでコントロールできないわけだから「依存的」であるしかないのだが、実際に強い相手の顔色を極端に伺い続ける行動が出てきて、どう見ても「依存的」という印象となる。
「スネオ」はジャイアンにいじめられながらも、ジャイアンの子分としての立場でノビ太よりも優位を保とうとする。ジャイアンに背くことは考えもしない。スネオ自身が自分の考え、自分の責任で何かを成し遂げるという発想にはならない。
いじめられながら、結局ジャイアンに依存している状態であり、「自立」することは出来ないスタイルなのだろう。
ちなみに「摂食障害」の一つの解釈は、「可愛い」だけで何でも衝動を実現できたジャイアン少女が、学童期や思春期に「責任」や「自分の考え」、「自立」などを求められて、責任を自分で負う不安に耐え切れず、「見た目に走った」という解釈も出来るように思う。死に物狂いに見た目にこだわる姿が非常に「発達障害的」であるからだ。
ジャイアンACの回復のプロセスには、一見すると「悪くなった」としか思えない一面がある。私自身も「これは本当に良くなっているのだろうか?」と確信できないで居たが、最近やっと「回復である」と考えるに至った。
ジャイアンACの強迫的なタイプは、非常に努力家で、家族などの支えになるほどしっかりしていることが多い。配偶者の多大な借金を懸命に働いて返したり、家族の問題を一手に引き受けて解決し続ける。
しかし実際は周囲の人はみんなジャイアンAC氏に依存して良い様に利用し、大変な責任を全て押し付けられているだけというのが真相で、少しでもうまく行かないことがあったり、裏切られたりすると、上記のAC的な強迫的なパターンは見事に破綻する。
大体家事も出来ないほど寝込んでしまうという難治性のうつ状態か、これまた難治性の身体症状(ふらつき、動悸等)で実際上動けない状態が訪れる。
多くの場合アルコール乱用の状態が一時的に見られることが多い。女性の場合はキッチンドリンカーになる。
その段階で心療内科を受診し、カウンセリングと発達障害の診断でACが回復するわけであるが、その後が問題だ。
①異常な「関連付け」が見られ、「被害妄想」とも言える様な状況証拠をつなぎ合わせた恋愛妄想などが見られる。
②頭が非常に働き、「見たもの全てに突っ込みまくる」ような反応過敏の状態になる。表現はTPO無視のハチャメチャなことが多いが、よく見ると鋭い指摘だったりする。
③「注意力散漫」、「大雑把」、「ガサツ」、「オバちゃん的」というような一種「崩れた」印象の言動となる。特に回復前に強迫的であったケースは、以前にはまったく見られなかったハチャメチャな面が前面に出るので、表面上は「おかしくなった」という風に見える。
④攻撃性が表に出てくる。ADHD的に世の不条理や不合理を許せず、所構わず突っ込んだりあからさまに行動化したりする。これも「慎み深かった」ようなケースの場合「どうなっちゃったの?」という見掛けとなる。
「こうなっても回復である」ことを関係者は理解してほしい。むしろACの時が非常に不自然であったのであり、脳が適応し切れなかったためにうつ状態や身体症状が出現したのだ。
上記①②③④はジャイアン特有のADHDらしい特徴であり、これは「もともと」なのだ。たとえ3歳で完成したACであって現実の人生では一度も現出したことの無いスタイルであっても、それが「もともと」なのだ。この理解がないと治療の方向性を完全に誤る可能性がある。
実は「悪くなった」と騒ぐ人の多くはACの本人に依存してぶら下がっていた依存型の人たちである。本人のACが回復して自立するにつれて、共依存の関係が成り立たなくなり、自分が依存できないで不安になっているから「悪くなった」と考える。
家族の場合はこういう事態であることも実際多い。
ネット上でプライベートモード(パスワードつき)の掲示板を使った相談を思いついたのは、実は「メール相談」に行き詰まったからでもある。
私自身がADHDで、たくさん来るメールをうまく処理できない問題が一つで、現在は「メールのソフトで一つのフォルダに入れて着順に返事を書く」というやり方でやっとこなしている。
以前は一人ひとりのフォルダに往診と返信を保存するまでの余裕があったが、最近はそれも出来ない。
実際以前にフォルダに保存したメールはあるものの、実は再利用がほとんど出来ないのが実情だ。その理由は、「一つ一つメールを開けなければ中が見えない」という手間にある。
理想を言えば、一つのテキストファイルに、往診の内容と返信の内容をずっとコピーし続けて、一覧できるようにしたい。そうしないと実際問題後から参照できないのだ。
メールのやり取りでは、結局ここまでの手間が非常に大きく、専用の秘書でも居ないときちんと管理できないというのが私の悩みだ。「パソコンが出来ないから文書の手紙でカウンセリングを」と希望される人に応じられない事情を理解してほしい。
この「やり取りの経過が非常に見やすいコピーした結果」とは、「掲示板スタイル」に他ならないことが重要だ。
もう一つ、私の認識ではメールは、「手紙」の延長上にあり、「私宛に届けられた手紙」なので、私は返事を書かないで放置することには罪悪感が生じる。実際多くのメールに全て返事を書くことは出来ない。
それで「返信は一回限り」などの苦肉の策をいろいろ考えてきたのだが、その点でも、ネット上の掲示板で相談のやり取りを書きこむスタイルは、私にかかるプレッシャーが非常に少ないということへの理解をお願いしたい。
ネット上の掲示板は、「私の家に来た手紙」でなく、「公園や喫茶店などの第三の場所に私も出かけて行って相談に乗る」ということで、内容的には同じでも、私自身が回答するのに非常にやりやすいという違いがあるのだ。
ちなみにブログと掲示板の違いは、ブログは記事とコメントが一目見て「遠い」ことが多く、長いコメントが書きにくいことが多いので、私は掲示板が一番便利だと思う。
最近メール相談にほとんど返信できていないので、大変申し訳ないのだけれども、当分はこれまで外来で相談に乗って来た当事者を優先として対応して行こうと考えている。
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