2010.01.26 22:08 |  診療  |  研究  |  その他(医療関連)  |  ADHD関連  |  YANBARU  | 推薦数 : 7

ADHDは楽をしてはいけない

 ADHDは本来「アウトロー」である。自分が納得するしか無く、納得できなければ法律だろうが多数派の常識だろうが平気で無視する。

 「何でもあり」という表現も出来る。露骨になりふり構わず、自分の衝動や欲望に向かってどんなことでもする。

 「現金」という言い方も出来る。ある意味徹底的に現実的実際的で、「お金をいっぱいもらえば割り切って何でも出来る」ようなところがあり、他方こだわりで偏屈な部分と非常に対照的な面を見せることが多い。

 中でもジャイアン型ADHDは「丸投げ」が大好きである。やってくれる親切な人がいれば「ラッキー」と丸投げしてしまう。自分ですると責任を取らねばならないから、ジャイアンにとって丸投げは「責任を回避するため」という意味がある。

 一方で馬鹿正直でこだわりには忠実で融通が利かない部分と、この「何でもあり」の極端なルーズさが同じ人にも並立していて、見る人に理解が困難となることがある。

 だからADHDは楽をしてはいけない。「楽になろう」という思考には限度が無い。リミッターが無いのでどこまでもダラダラとルーズになってしまう。

 特にジャイアンには逆境が一番だ。家族の問題や経済的な現実の苦労の中で「大変だ大変だ」とぼやきながらも非常にある意味生き生きしているジャイアンを見ることは多いだろう。

 この意味は、「現実的な逆境は自分のせいではない」上に、「頑張れば評価される」、「攻撃性を出してもさもありなんと理解される可能性がある」と、好都合極まりないのだ。  

 私自身も少々きつくても自分に動くことを命じ、ストップしないことを自分に言い聞かせている。「適度に手を抜いて休む」なんてことは高度すぎてADHDにはあまりにも複雑な業だからだ。

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2010.01.18 22:19 |  診療  |  研究  |  その他(医療関連)  |  ADHD関連  |  AC、人格障害関連  |  YANBARU  | 推薦数 : 9

中心志向の過集中

 ジャイアン型ADHDにしばしば見られる現象は、激しい怒りとともに相手を攻撃したり、または異常に強迫的に完璧を求めて集中する状態だ。いずれも集中は強く激しいため、「人間離れした」成果や相手へのダメージを帰結する。

 ジャイアンは過集中の時には関連付け思考が非常に強くなり、被害妄想的になるが、特に「叩き潰してやる」と怒りの過集中になっているときは合理的な自己突っ込みが停止するので、非常に危険な状態となる。

 この怒りの過集中と「やるからにはパーフェクトに」という強迫的な完璧主義の過集中はいずれもジャイアン特有の(自分の当たり前の基準が異常に高いという)「中心志向」からくる過集中状態だ。

 私も昨年の今頃訓練校問題でこの過集中のパワーを使ったが、その間は普段はとても出来ないような動きでその目的のために全エネルギーを動員するので、後でしばらく動けなくなることが多い。また周囲との間でトラブルになることも多い。

 行き詰っているジャイアン諸氏の中には、この中心志向の過集中状態を「頼んでいる」人が多い。実際学校などではこの過集中で成績を上げることが出来た人の場合など、強迫的な(過集中の)エネルギーだけで生きてきて息切れになったケースだ。

 そういうジャイアン氏にとっては、この「中心志向の過集中」は、行動を起こす上での原動力の中心となり、言わば「メインエンジン」としての意味がある。

 実は私はこういうケースには、「メインエンジンを停止する」ことを勧めている。中心志向の強迫性だけをエネルギーとして動くと、一時的には人間離れした集中力を発揮して成果は上がるが、一つは「長続きしない」こと、またこれも大きいが周囲とのトラブルが必至であること、よほど大きな成果や代償が得られないと重症の虚脱状態になってしまうことの問題が大きいからだ。

 「メインエンジン」を停止して、「好きなこと、楽しいからという単発の対象ごとの興味に基づく過集中をつなぐ」という「サブエンジン」だけで走り続けるほうが、結果的な失敗が少なく、何よりも長続きする。

 ADHDの最も苦労するモチベーションの問題だ。

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2010.01.12 00:13 |  診療  |  研究  |  その他(医療関連)  |  ADHD関連  |  AC、人格障害関連  |  YANBARU  | 推薦数 : 6

「過集中頼み」症候群

 言語性IQの高い(言語性IQ優位の)ADHDの場合に、過集中の時を「本来」とみなして、地道な努力をする気になれなくなることがある。

 過集中という現象はADHDには非常に快適だ。好きなことの場合、努力を省いても記憶出来、またしばしば多数派よりも高いパフォーマンスが可能となる。例えばある思春期ケースの場合には、難解な演劇の台詞を一度読むだけでほぼ完全に記銘し、家で練習しなくてもそらで言えたりする。

 このケースが受験勉強に関して「集中できないで困る」と訴えることをよくよく聞いてみると、結局演劇の場合のように短時間で記銘できる集中が受験勉強では困難であるという意味であった。

 私は主治医として「受験勉強は時間が長すぎるので過集中は使えない」と告げた。
 
 過集中が使えるのは高々テストの一夜漬け程度で、受験勉強は長丁場なので効果から言っても継続時間から言っても過集中が使えない場合であるのだ。

 躁うつ病の人は躁状態の時が絶好調であったと思い込み、「全く悩みが無かったあの状態に戻してくれ」と希望することがある。躁のときを「本来の状態」と思い込み、落ち着いた状態を「うつ状態」だと思い込んだりする。

 これと同じことがADHDの過集中の場合に起こるのだ。

 確かにADHDにとって過集中は快感であり、しかも能率も高く、これがずっと続くことがもしもあればありがたいことだろう。

 しかし残念ながら過集中は長く続くことは無い。3日過集中が続けば少なくとも同じくらいの時間は虚脱状態となるだろう。

 加えて過集中のときは「周囲の人との温度差でぶち切れてしまう」という問題の現象も起こり、チームプレイの中でも過集中は使えないと言って良い。ほとんどと言って良いほどチームの協調を破壊する。

 だから「過集中のときが本来出来るはずの当たり前の姿」と思い込むことはとんでもない非現実的な幻想であるのだ。

 ついでに書いておけば、最後の頼みの綱である「合理的な自己突っ込み」が停止した状態となる。ジャイアンの場合は人を攻撃したり、大体後で落ち着いてから後悔する行動となる。

 当たり前のことだが受験勉強などの長丁場を乗り切る自分なりのスタイルを確立する必要がある。

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2010.01.08 21:21 |  診療  |  研究  |  その他(医療関連)  |  ADHD関連  |  AC、人格障害関連  |  YANBARU  | 推薦数 : 6

社会参加への不安と依存

 発達障害の当事者のニーズは現実的な問題解決である。世間の多数派のように、「大変ですね」と話を聞くだけでは満足しない。

 特にジャイアン型ADHDの場合は「金銭的な得があるかどうか」に関わる相談が多い。

 だから私の外来での相談内容は実はケースワークの部分が大きく、PSWと共同作業で現実的な解決を目指すことになる。

 本人のニーズが現実的実際的であるだけでなく、ジャイアンのケアは「現実的な表面的な実績から自己評価を改善して中心志向からの自己突っ込みを軽減する」しか治療の決め手が無いことがほとんどであり、主治医として私自身も遮二無二本人の社会参加を目指すことになる。

 具体的には精神障害者の「就労移行支援」等のサービス、職業訓練校や障害者職業センター、ハローワークの障害者窓口、精神障害者地域生活支援センター、発達障害者支援センター等との連携をフルに活用して環境調整を行う。

 実際私の外来では多くのジャイアン氏やAS氏が職業訓練校や就労移行支援から就労継続支援などのサービスを活用して社会参加をどんどん進めている。

 訓練校で資格を取ったり、実際に就労継続支援(旧福祉工場)で収入を得たりする中で、自己評価を改善し自信を回復することがジャイアンとしての真の回復である。

 というようにうまく行く人も多いが、反対にいろいろつべこべ言って実際の社会参加へのプロセスを自分で進めようとしないジャイアン当事者も多い。

 病気そのものを言い訳にしたり、同居の親族が居る場合にはその親族のケアが言い訳になることが多い。

 家族のケアが言い訳になるケースは、よく見れば「共依存」となっていることが多く、「この家族のせいで自分はストレスを受けて大変である」と言い続ける割にはその家族をいざ自立させようとすると何だかんだ抵抗するので本人の依存性がはっきりする。

 「本人を困らせる家族がそのたびに変わる」、「本人のカルテを作ることを提案すると急に家族の問題が解決したりする」等の現金なケースもある。「代理型ミュンヒハウゼン症候群」という例だ。

 「いろいろ言っているけれども、結局は自分から動くことへの不安、責任を取りたくないだけのこと」ということがジャイアンの場合は非常に多いのだ。

 この正反対の状況が「現実的な逆境」である。「自分のせいで無い状況のせいで不幸となり、立ち向かって攻撃性を出してもかえって本人は支持され同情される」という状況は実はジャイアンにとって垂涎の的なのだ。(そのために病的な思い込みや妄想などでこの被迫害状況を作り上げることも実際多く見られる)。

 この「自ら前に進もうとしない」一群について、最近私は「主治医としての私の存在自体が依存を招いている」可能性を考え、強引に治療関係を一時断ち切ることも必要なのではないかと考えている。

 あるいは始めから「3年で治療の一区切り」等と決めておいて、ある程度の治療への緊張感を維持することが必要ではないだろうか?

 実際あまりに依存がひどくなったので「2年間別の主治医でやってみなさい」ということを試みたケースもあるが、このケースは最近戻ってきて、治療関係をうまくリセットすることに成功した。

 特に「ケースワークで本人の個人的な難問に答えを出す」形で関わってきたケースには、結局私の存在は「答えを出す人」で、こともあろうに丸投げする対象になっている可能性が非常に大きい。

 本人が自分で考えきれるようになることを目標として「実習」として手本を見せてきたつもりであったのだが、気がついてみると本人は自分で考えようと全然していなかった。

 (これは私自身ジャイアン的に仕切っていい気になっていたことの結果ではあるのだが)。

 外来カウンセリングの枠組み自体に「自己責任」を持ち込むという発想である。   

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 「子供に厳しくする」ことは親だったら当たり前で、祖父母が孫に対してするようなべたべたに甘やかす態度は親の責任を自覚した場合はとれないのが当たり前だ。

 それは親には「子ども自身のこの先の長い人生への親としての責任」があるからで、それを明確に意識するためには、親として自分の子にどう生きてほしいか?を考えるとか、「親として子供にどんな大人になってほしいか?」、もっと単純に「子供がこのまま育って行って社会的に困ることにならないか?について真剣に心配する」といった合理的な思考が必須となる。

 逆にこうならないケースは、おそらく私の想像では「その場その場だけ表面上無難に治まれば良い」という依存型ジャイアン特有の思考か、「子供のことを責任を持って考えるのは自分で無くてパートナーや親がする」という形に丸投げが当たり前になっている場合であろう。
 
 「厳しくする」ことは「押し付け」であり、逆にそうされるほうからすれば好ましいことではない。しかしそれは「思春期以降の自分で自分をある程度コントロールできて自己責任で行動できる場合のみ」であり、少なくとも学童期(小学校4年生くらい)までは子供本人の責任にはならず、親が責任を負うべき時期がある。

 学童期までの親には、(当たり前だが)「子供本人が嫌がるから」という逃げ口上は使えない。これははっきり親としての責任放棄であり、仮に「子共自身の好むようにさせる」という選択をする場合でも、そういう選択をした親としての責任ははっきり存在し、その結果については当然親としての責任を負う必要がある。

 もっとも逆に「親は全面的に押し付けて良い」という発想も単純に推奨は出来ない。思春期以降は大人と同様に自己責任で扱うとして、それまでは親として「どこまで押し付けるか、どこまで子供本人の意向を通すか」について具体的な場面で悩み続けながら、「徐々に子供本人の意向を尊重して本人に責任を取らせる部分を拡大して行く」ことを考え続けるのが(これも当たり前であるが)親の責任であろう。

 親が依存型ジャイアンであったり、またパートナーや祖父母への依存があったりすると、子供が幼児期から子供の異常行動として問題が表面化する。問題は子供のほうにあるのではなくて、(ジャイアン型ADHDの子供が多いのだがそれとは別に)厳しく出来ず責任を負いきれない親(ジャイアン)の依存性にあるのだ。

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2010.01.01 21:14 |  診療  |  研究  |  その他(医療関連)  |  ADHD関連  |  AC、人格障害関連  |  YANBARU  | 推薦数 : 7

年頭所感2010

 年頭に当たり、一番大事なことを確認しておく必要があると考え、記載しておきます。

 私は世間の多数派の人々のように「直感的に場の状況を察知して、その中で安心感を得る」ことが出来ないという障害(ジャイアン型ADHD)を抱えて生きている少数派である。ここが全ての考えの出発点であり、この原点を忘れることが無いようにすることが最も重要なことだ。

 ジャイアン型ADHDには、この根本的な不安定性から、(多数派から見れば)「過度な合理性を自分にも周囲にも要求する」、「普通では不足であり、特に注目や賞賛されるべき特別な立場を自分自身に要求する(中心志向)」、「周囲の全ての人からの注目を要求する」と言った社会的に見ればあまりに自己中心的な認知と行動上の特徴がある。

 ジャイアン型ADHDには「自己突っ込み」という非常に手厳しい自分自身への批判と自責が見られ、中心志向と私が呼ぶ認知からは「特別な地位でないことで自分を責める」、合理的な認知からは「口にする理屈どおりに実際に合理的に生きられていない自責」という二つの強烈な自己突っ込みに24時間さらされて生きている。

 この「一番の地位」や「周囲の全員からの注目」などには、ジャイアン型ADHDの中ではこれらの自己突っ込みへの「反論」または「言い訳」としての意味があり、結果、「回遊魚」のように停止できない前進を死ぬまで続けるしかないことになる。

 当たり前であるが、ジャイアン型ADHDの行動のほとんどは上記の自分の中の勝手な都合によって決定されるため、周囲の人を巻き込んで大いに迷惑をかけることは必定である。

 ジャイアン型ADHDはこの厳然たる事実を常に頭において生きる必要がある。脳が自己中に出来ていて、特有の表面的な認知と強烈な攻撃性を内包する認知と行動のパターンからは逃れられない。

 だから我々ジャイアン型ADHDが合理的に考えるべきことは、「この脳の特徴でいかに周囲に迷惑をかけることを最低限とするか?」、「この脳の特徴でも結果世間に対してプラスになる可能性が少しでも存在しうるのか?」ということだ。

 今年も多くの当事者の問題を解決することをともに考えつつ、私はこの根本的な問題を考え続ける。
 これを続けることで直ちに「この醜く救いがたい自分を抹殺しろ」という自己突っ込みへの言い訳を続け、時間を稼ぐという「潔さ」から程遠い行動を続ける。

 これまでに私がジャイアン特有の怒りで当り散らしたり、自覚しないで失礼な態度を取り傷つけ続けてきた来た全ての人に対し謝罪し、この醜い形のまま存在を続けて結果的に今後とも迷惑をおかけするに違いない多くの人々に対し(おかしな話だが)先に申し訳ありませんと謝っておこう。(私の中の自己突っ込みには何の言い訳にもならないのであるが)。

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