本日はどのチャンネルを見ても同じニュースであるが、私には「KY重症の依存型ジャイアンが刹那的な行動のせいで大不信を買った」という風にしか見えない。
ここに至って事態の深刻さをまだ認識できておらず、自己正当化ばかりする。誰かの進言であろうが、少し前は口先だけで謝っていたが、最大の非を目の前にして非を認める発言は結局出てこない。
この種の人について見慣れないと、「本当に何も考えてない」「本当に空っぽである」ということは想像は難しいかもしれないが、「過去を忘れた超刹那的行動」「重症のKY」と想定しなければここまでの経過は説明困難だ。
おそらくこれから袋叩きにあうことだろう。祭り上げた仲間(同じく依存型ジャイアンが多いだろう)を含めて。
一貫性を要求される責任ある立場に立ちさえしなければ表面的なポーズだけでみんなだまされてくれるのでこんな失態とならずに済んだだろうに。
賢くて有力な誰かにぶら下がって100パーセント言うとおりにしていさえすればこんなことにならなかったのに。
権力を持って自分で考えてやって行けると勘違いしたところが最大のKYということだろう。
私も他山の石として、奢ることを恐れ、自分に厳しい自己突っ込みに磨きをかけてチェックを続けることとしよう。
依存型ジャイアンA氏とのやり取りの実例
①YANBARU「例えばAさんがゲームを夜にすることを一週間我慢したら、Bさんが500円くれる約束をしたとする」「一週間してBさんがそんなこと忘れた。言ってないと言ったらあなたは困りますか?」
A氏「ゲームを夜までやりまくる」。
②YANBARU「例えば朝起きたときに今日は作業があるよとBさんが言っていたのに、出かける時間になって急に作業は無しと言われたら困りますか?」「ラッキーと思う」。
③YANBARU「じゃあ逆に、作業無しと言われていて急に作業があることになったら?」「・・・・」(無言で答えない)。
このやり取りの意味がわかるだろうか? どれも見事に、「最終結果だけに対する一時的な反応」になっていることが分かるだろう。つまりA氏は相手がころころ変わること自体によって「困る」ことはないのだ。
②と③の違いは、「不利になったら思考がフリーズする」というパターンであると私は考えている。自分にとって利益にならない事態では、思考がフリーズして「ただ現実的に相手に合わせて従う」。フリーズしているので不利なことの意味はいつまで経っても分からないままだ。
私の意図は、「自分の考えなどの時間的継続性が無いと周囲の人に迷惑になる」ことを説明しようとしたのだが、この答えは実際想定を超えていた。
見事に「結果の状況に対する一時的な反応」という依存型ジャイアンそのままの返答が返ってきて、私自身びっくりした。
依存型ジャイアンの思考の立ち位置がどれほど合理的な世界からかけ離れた場所であるか? この例で少し理解いただけるだろう。
考えてみれば「困る」という判断、思考も、依存型ジャイアンの超刹那的案世界には無い「意味」に属することだった。
コミュニケーションを成り立たせる共通理解の地平を探すのにどこまで遡らねばならないか? このA氏の場合は非常に難しい。
「利益」に引っ掛けさえすれば通じる、ということは何となく分かるのだが。
私はこの一番遠い世界へ何とか言葉を通じさせる努力を粘り強く続けるつもりだ。「分からない」ことが原因であることは分かっているから。
「モラルハラスメント」という用語は最近はポピュラーになっている。
パートナーに対して「お前の考えは間違っている」と言い続けたりすることで、これは合理的強迫的ジャイアンの専売特許と思っていたが、意外に依存型ジャイアンのモラハラがあることが最近分かった。
依存型ジャイアン特有の「その場の場当たり的な対応」の一種として、「とにかく相手を黙らせれば良い」という目的で「威圧する」、「断定する」、「相手の意見を聞きもしないで頭から否定する」という態度が出てくることがあるのだ。
これをパートナーなどの相手から見ると、実はハラスメントとしてのダメージが違ってくる。
合理的強迫的ジャイアンでも、積極奇異型ASでも、強迫的な発達障害のモラハラは自分自身にも厳しい条件を課していることが多く、モラハラの加害者の行動をしっかり見据えれば首尾一貫性があるので、理不尽であっても理解の可能性は無いことも無い。
これが、「依存型ジャイアンのその場相手を黙らせるだけのための術」となると、その首尾一貫性すらなく、全く逆にたちまち忘れ去られてコロコロ変わる結果になるので、どうにも理解が困難で、ハラスメントとしてのダメージは非常に重症になる。
パートナーが素直なノビ太型ADHDであった場合など、断定口調だけに圧倒されて、「言われるように自分の考えが間違いなんだ」とつい思い込んでしまうことも想定できる。
身体的な暴力が見られない場合でも、この依存型ジャイアンのモラハラはもっとも悪質なDVの一つだと私は考える。人格の全否定であり、何より相手に与えるダメージが大き過ぎる。
ある高機能のジャイアン型ADHDの引きこもりのケースの話をじっくり聞いてみると、自分のジャイアン性を自覚して「人に迷惑をかけるから」というために引きこもるということだった。
私自身もジャイアンであるが、たしかに「世間に居ると人に迷惑をかける」ちうことは正しい。反論の余地が無い。私自身合理的に自己突っ込みを絶えず続けている問題だ。
実際新聞記者時代まで、同期の中ではむしろ優遇されていながら、自分自身の問題を自覚することも無く、多くの先輩や同僚に迷惑をかけたことを後から痛感した。
私は今は辛うじて仕事があるので一人前の顔をしているが、地域の活動にも参加せず、子供の行事でも話しかけられないように一人ポツンとしている。家族と仕事で関わる人以外には実は非常に「非社会的」とも言える。
ジャイアンは強気で、その場では押しが強く、一見自信満々に見えると思うが、実は本性では非難されることを恐れてビクビクして生きている。
「脅し」は出来るが、本当の意味で真剣勝負になると、負けた場合が怖くて勝負が出来ない。
だから、うまく世間で表面的な成果を得るのに失敗すると、途端に弱気になり、引きこもりを選ぶことになる。
実際問題迷惑をかけるのだから、「迷惑をかけるから出ない」という議論は正しく、引きこもりを正当化できることになる。
強い中心志向を持つジャイアンは本来は表面的な世間的な実績を獲得しないと中心志向の自己突っ込みをかわし切れないで非常に辛い。
引きこもりの状況では「世間に接触しない」と言いながら実際は何かに逃げ込まないと自己突っ込みで辛くて仕方が無いはずだ。
私は私自身の模索していることも含めて、「ジャイアンでありつつ世間にどう行きて行くか」をともに考える作業を続けている。
以前に「ジャイアンの使い方」でも触れたが、激しい攻撃性も使い方によっては世間を迅速かつ強引に動かすのに生かせないことは無いと考える。
もっとも合理的な自己突っ込みの批判だけはどうやってもかわすことは出来ないのであるが。
実は薬物依存やギャンブル依存などのaddictionの背後に依存型ジャイアンがあることが多い。考えてみれば当然とも思えることだ。
依存型ジャイアンは一瞬の刹那に生きるので、「その瞬間に不安が簡単に確実に解消する」「面倒な意味や意義よりも結果が手っ取り早く明白に手に入る」意味でアルコール、薬物などの依存性物質や、ギャンブルなどは「利用価値が高い」。
逆に、依存型ジャイアンの刹那の認識からは、addictionの恐ろしさ、問題性は見えないようになっている。時間的継続性に立って考えないから、「依存から抜けられなくなる」ことは何ら問題ではなく、また負けた損害の瞬間も過ぎ去れば忘れるので、addictionによるマイナスはほとんど認識できないことになる。
他方で、「ギャンブルに当たった時のメリット」、薬物急性中毒症状の中での快感、目前の不利な現実から目をそらし頭から除去することを可能とする作用など、addictionは依存型ジャイアンにとって有利なことはたくさんあるのだ。
「他者」から見た「意味」を考えることがないから自分の依存行動の家族や関係者への影響を考えることもない。発覚して「現実的にまずく」なってからもみ消すようにトンズラする。見つからなければ何も問題はない。「見つかったのは運が悪かったからだ」「警察や法律が悪い」という発想になる。
それでも治療の場や裁判になれば、その場の要請に合わせて見事に「反省して更正する」ことを演じて見せることになる。「そのほうが有利」だからだ。
「真摯に反省して更生を誓う姿勢」と裏腹な次の瞬間の露骨な依存行動への執拗さ、大胆不敵とも言える行動パターンは、「刹那に生きるADHD」を想定しなければ説明は困難な現象だ。
結局依存型ジャイアンがaddictionの背景にある場合には、「時間的継続性を前提とした合理的思考を言語的にトレーニングする」という作業が必要となってくる。
「この前自分が何を言ったか、相手から何を言われたか、少なくとも過去数日分くらいはこれからとる行動を考える際に同じテーブルに乗せて考えるようにしないと相手から激怒されて著しい不都合が生じる」という説明から丹念に当たり前のことを説明しなおす作業が必要で、意外に効果も上がるのが不思議だ。
発達障害にとって「教えられる」ことは実は非常に困難なことだ。多数派流に「教わる」ことには、実は非常に高度な技を必要とする。
あるピアノを学ぶAS氏は、毎回先生の指示通りに弾かず、学ぶ誠意に欠けると見なされていた。
私は本人から細かく話を聞いてみて、実は話は逆で、「先生に合わせようとするのだが、どのように合わせて良いのか分からず、結局自分なりに弾いてしまう」ということが起こっているのではないかと考えた。
「合わせる」とか「理解する」という言葉は発達障害にとっては「100パーセント合わせる」「100パーセント理解する」という意味になる。
その意味では、世間の多数派の意味での「合わせる」は、発達障害流には、「合わせない」のほうに入る可能性があると私は思う。
「この先生から学ぶ」という状況で、先生の言う通りに「合わせる」とすれば、逆に「自分」が無くなってしまう。自分自身の立ち位置が分からなくなり、非常に不安な状態だ。
特に積極奇異型ASにはほとんど困難なことだろう。
話を聞いた結果の私の助言は、「合わせるのを止めよう」というものだった。「先生の言うように勉強しようとする」ことははじめから止めて、「勉強は自分がする」「その先生の助言で自分に役に立つ部分だけ吸収する」と考えた方が、結局先生の助言を聞けるかもしれない。
結局発達障害に可能な「学ぶ」ことは、「我流」しかないと私は思う。「誰かに教えられたから分かった」のではなく、自分なりにいろいろ試行錯誤、工夫していく結果に師の助言を体験的に確認するという形しか無いように私は思う。
私は数学の公式も、出来上がりを覚えるとかえって符号などを間違えるので、「毎回公式自体をいちいち導き出し直す」というやり方をしていた。
医師としてのスタイルには、実は私には真似している「師」が居るのだが、これも本来の指導医は別に居られたのを勝手に師の担当患者のカルテを読んだりして「盗んだ」というのに近いと思う。
「我流」を咎めるのは止めよう。「うまく教えられる」ことは発達障害にはあまりにも困難な複雑なことであるのだ。
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