「マメで働き者、正直で立派な人だった人が、パートナーの病気や死別などを期に、比較的高齢になって突然不倫やギャンブル的な金銭の浪費などに走る」という現象が、時々(実は結構しばしば)見られる。
この現象の多くは、実は依存型ジャイアンのコンセプトで説明が可能だ。
私の仮説はこうだ。
パートナーに依存して安定してきた依存型ジャイアンは、表面上はかいがいしくパートナーの面倒を見たり、仕切ってもらって全ての決定を丸投げし、安定した共依存関係で人生の大きな部分を過ごす。
その依存してきたパートナーの急変、例えば癌などの大病をして手術する、軽い認知症になる、極端には死別などにより、それまでの依存関係が維持できなくなったとき、依存型ジャイアンは社会的には「弾けた」行動をとることになる。
別の強そうなジャイアンなど探して「別のパートナーに走る」の図になることも実に多い。この場合、「子供たちよりも明らかに優先する」という行動が特徴的だ。
財産も自分の人生も全て新たなパートナーに丸投げして、子供たち孫たちのことは全く視野から外されてしまう。
もうひとつのパターンは、不思議であるが「ギャンブル」性の行動に走ることが多い。
ギャンブル的な株式などの相場取引、投資目的マンション、パチンコなど、非常にリスクが高いことにこつこつ貯めてきた大金を惜しげもなく注ぎ込む。
金目当ての「取り巻き」のおだてに簡単に騙されて乗せられることも一因だろうが、何か「重石が外れた」ようにいろいろな衝動の抑制が効かなくなる状態になるように見える。
依存してきたパートナーに依存できなくなる不安が非常に強くて、ギャンブルの強い刺激で自分の不安を解消しようとするのだろうか?
パートナーの加齢や疾病による衰えとともに、人生の最後に依存型ジャイアンの本性を露呈せざるを得ないのは非常に不幸ではある。
ただし(きちんと今後述べる予定だが)、本人は幸せでも問題は必ず次の世代に先送りされた形で表面化することになるのだが。
依存型ジャイアンの人と話すと、独特の甚だしい楽観主義があることに驚かされる。
①「パチンコで損をするのは、勝ったお金をまたゲームにつぎ込むからだ。勝ったお金で子供の買い物をすればいい」。
②(相場で失敗して大変なことになった人の話を聞いて)「失敗しないでうまく行っていればいい思いを出来ていたはずなのに(自分はギャンブルが止められているのはおかしい)」。
③(月末に支払う返済があるのに、今ギャンブルでお金を使うことについて問われて)、「月末になれば何とかなる」。
みんな性別も世代もばらばらの大の大人が真顔で言っている発言だ。ちなみに①のケースでは、「あなたは負けて取り返しに行ってどんどんお金を無くしたことは無いの?」と聞くと、「そう言えばそうでした」ということになる。
これらの発言と、「その瞬間が過ぎれば終わり」という当人からの解説や、あまりに先のことを考えないでも平気でいる行動などを組み合わせて考えると、「一瞬に生きるADHD」としての特有の記憶のシステムがあるように想像できる。
即ち、「いやな事、失敗したことは全てきれいに忘れる」「記憶に残るのはうまく行った場合だけ」というシステムだ。
全てが瞬間の反応であり、その場その場の状況に反応しているので、例えばギャンブルでお金が無くなってしまえば、「もうどうしようもないからいったん終了して次の状況に移る」ということになる。もうそうなると記憶は途切れて、負けた事実はどこかへ行ってしまう。
逆にギャンブルでは「勝った」場合のみお金が残っているので「同じ状況」が継続する。
カードを覚えてしまうと、「限度額まで使う」ということになるが、その場合「勝つ」つもりだから返済のことは全く頭に無い。
悲しいかな、社会的経済的法律的には返済義務と社会的責任がカードを使った瞬間に生じていることは依存型ジャイアンには「意味が分からない」のだ。(あるいは少々の返済は月末に魔法でも使って返せると楽観的になっているかだ)。
楽観主義が先か?、場当たり的な生き方が先か? 場当たり的な生き方が先ではあるが、いったん出来上がると、楽観主義のためにさらに考えなくなるという悪循環に陥る。
とは言っても、はじめから最後まで意味の分かっていない依存型ジャイアン当人には、このことの問題性は全く自覚されない。周囲の家族や関係者がボロボロになる。
多彩な身体症状に苦しむジャイアンを助ける方法は、ジャイアンの本性に反した依存を止めて合理的強迫的な本来の立場に戻るという比較的単純な考え方だ。
しかし実際の治療の中で、本人が治療自体に抵抗するようなことがよく見られる。それは「自立への不安」だと私は思う。
さまざまな理由をつけて共依存を続けることを正当化し、やっぱり自立はできませんと回復に自ら抵抗する。
もともと「砂漠のライオン」はジャイアンの古巣とも言うべき場所で、そこへ戻るのに何の抵抗があるのか?
答えは、「依存の楽さを知ってしまった」ということだ。
依存の状態は、自覚されないひずみにより身体症状が出るほかは、精神的には依存相手に「丸投げ」出来て、結果の責任も負わなくていい。
ジャイアンが子供のころから暗がりを怖がり、鬼など超自然的な存在を怖がる根源的な不安をもこの依存は覆い隠す。
従って、依存から脱してもとの自立に戻るということは、「依存のおかげで一時忘れてこられた不安に再度直面する」ということを意味し、ケースによってはとんでもない不安の原因になるだろう。
特に幼児期から共依存の中で生きてきたようなケースは、事実上始めて自立することになり、これまで体験したことのないような不安を味わうことになる。
ぬるま湯に慣れた体を冷たい水にさらすのは抵抗が生じるのは当たり前だ。
依存の本当の恐ろしさは、その一時的に見かけ上不安を解消してしまう麻薬的な作用そのものから来ているのだ。
治療者として私に出来ることは、「自立するしかない」という本当のことを突き付け続けながら、ひたすら自分から本人が動くのを待つことだけだ。
管理型共依存について考えていると、当然私自身のジャイアン性の問題に行き当たる。
私はプロの治療者である以前にジャイアンであり、かなり意識して努力しないと管理型共依存に陥ることに気付いた。
「主治医」とは相談者本人の人生に一定の責任を負っており、ジャイアン的には「治療目的に照らして結果を良くする」ことを主治医である自分自身に要求する。
だから、「相談者本人が明らかに不合理で不効率な失敗を繰り返し続けることを黙って見ている」ということは主治医であるジャイアンの方が非常に辛い。
そこでつい「直面化」と称してジャイアン的に合理的と見える答えを本人にダイレクトに突きつけたり、かなり強引な環境調整を行って本人を現実的に追い込んだりしたくなってしまう。
特に相手がジャイアンの場合、特有の生き辛さ等の気持ちが分かるぶん「早く助けたい」というお節介心が出てきて、自分自身の中の「仕切りたい傾向」を抑えることにはかなりの努力が必要になる。
もうひとつ、「ジャイアンの本当の回復には、自己突っ込みを軽くするために、現実に成功した体験から自己評価を改善することがどうしても必要だ」ということも分かっているので、そこへ向かう(現実の成功)ことをどうしても急いでしまう。
だから「相談者本人が不合理で不効率な失敗を繰り返し続ける」状況になると、介入しないで黙って見ているのは「これでは主治医として無責任なのではないか?」と悩むことになる。
あるケースに対しては、私は率直に「我慢できないで仕切りに行った」治療者としての私自身の間違いを認め、最近本人に謝った。その結果、ジャイアン本人から「また対決しましょう」という答えを聞いて、私自身が非常にほっとした。「本当に良くなっている」証拠なのだ。
ジャイアンの依存性の治療においては、最終的には「主治医が仕切りに行っても決して信用せずはね返す」くらいのジャイアン性が本人の中に復活することが治療の大きな目標になる。だから「本人が主治医である私に仕切られなくて本当に良かった」というパラドックスが生じる。
ここまで読み切れば、「主治医の立場で仕切りに行くことは根本的な治療目標から言えば治療上のマイナスが大きい」と合理的に考えることは可能だろう。
そう言えばこれまでうまく行った治療は、最後は「対決」的に私を突き飛ばして自立して行ったケースがいくつもあった。
「あらゆる依存を脱して本当の自立を促す」「眠っているジャイアンの自発性を蘇らせる」根本的な治療には、アルコール依存を専門とする先生のような気長さが結局必要となってくるのだろう。
「どれだけ時間がかかっても、本人が最終的な自立をつかみ取るまで経過を見届け、紆余曲折に付き合い続ける」腹を決めることが治療者としての「責任」であると考えてやって行こうと思う。
「治療者になって12年、今頃こんな大事なことに気付いてどうする!」「これまでプロとしてやってきた自分の治療への責任をどうする?」という自己突っ込みを抱えながら。
ジャイアン親子の場合、親が依存型ジャイアンの場合はかなりの割合で子供も依存型ジャイアンとなる。何故なら「合理的思考」がインストールされないからだ。
ところが不思議なことに、親が超合理的強迫的なジャイアンの場合でも、子供が依存型ジャイアンになってしまうことが最近分かってきた。
この現象をとりあえず「管理型共依存」と呼んでおこう。私の考えはこうだ。
「強迫的な親ジャイアンは、子供の行動の結果について知っておきたい」。たったこれだけのことで、子ジャイアンは依存型へと成長することになる。
「知っておく」、「不確定要因を少なくする」、「危険や明らかな不利益の状況を回避させたい」という親ジャイアンの希望は、必然的に「尻拭い」的な介入を帰結する。
もともとジャイアンは親になると親である自分自身と子供の問題を混同する傾向があり、また強迫的に自分にも降りかかる不利益を許せないから、子ジャイアンの行動について過度の干渉をする結果になり、事実上子ジャイアンは「失敗する自由」を奪われて自立への可能性を著しく制限される。
他方で子ジャイアンの側はどんなに自分なりの生き方や行動方針を自分で考えても、「それよりも合理的で強迫的にきちんと立てられた親ジャイアンの方針」が常に必ず存在して、それと比較すれば必ず自分の考えはかなわない。
逆に自分なりに考えて失敗(特に親自身に損害を与えるような)でもしようものなら、親ジャイアンからこっぴどくフォローの余地の無いような全否定をされる結果になる。
これを数度でも繰り返せば子ジャイアンは「自分で合理的に考える」ことをしなくなり、「強迫的な親ジャイアンにぶら下って言われるようにしておけば、結局親ジャイアンが深刻に困る結果になりそうなときは毎回尻拭いしてくれる」というスタイルをインストールする。これこそ依存型ジャイアンそのものである。
親ジャイアンがこのことの問題性を理解するのには非常に困難がある。「何で、損害になりそうなときに前もって手を打って何が悪い?」「何で教えていけないんですか?」ということになる。
合理的強迫的ジャイアンは、自分が依存的な発想をしないというのも盲点の一因となる。何故なら、「子ジャイアンが同じ合理的強迫的ジャイアンであれば、親に言われても必ず自分でも確認するから、情報提供がマイナスになることはありえない」と想定するからだ。
この想定には、致命的な問題がある。それは、「依存的な相手は、確認しないで丸投げ的に親ジャイアンからの情報提供を指示ないし命令と受け取って乗っかり、自分で考えることを捨てて従い、うまく行かなかった時に親の責任にする」という可能性を全く読めていないからだ。
かくて「結果を知っておきたい」というだけの理由から、子ジャイアンは依存型への成長する結果になる。
そうならない可能性は、「子ジャイアンに明らかに不合理で不効率で馬鹿馬鹿しい不利益となる失敗をする自由を認める」ということでしか可能とならない。
親ジャイアンには非常に辛い選択だが、「仕切ろう」「知っておこう」という自分の衝動を抑えて、「子供の人生は子供の自己責任、自業自得」と(思春期以降は)突き放して超合理的に考えられるかどうかにかかっている。
これは裏返して考えれば、「結果を知りえない不安に親ジャイアンが耐える」ということに他ならない。
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