依存型ジャイアンの特徴は「自分が無い」ことだ。
場の状況に主に非言語的な状況察知とアピール能力を駆使して合わせ続ける。
実はここまでの内容は受動型ASと表面上は非常によく似ている。同一といっても良い。
では一体この両者はどこが違うのか?
現段階での私の理解では、「人が見えているかどうか」「プロセスか結果か」で区別が可能だと思う。
ASはASなりの非常に自己中な形ではあるが、相手の「人」を志向している。当然「相手の気持ち」は重要な関心事だ。
(ただし正確に言えば、本当の意味での「相手の気持ち」とは言いがたい。正確に言うと「自分で勝手に決め付けた相手の気持ちへの甚だしい要求」があるということになる)
これに対して依存型ジャイアンは人間のいない「状況」という結果の世界に生きているので、たとえ非言語的な手段を使っていても、本人にとっては「自分にとっての利用価値だけが問題になる物的現実」でしかない。
非常に特徴的なのは、「相手の気持ち」がほとんど認識されない(関心が無い)ことだ。
精神科的な用語を使えば、受動型ASは「境界例」で、依存型ジャイアンは「自己愛性人格障害」とか「精神病質」というニュアンスで表現しうる。
また、ASは「サプライズ」や「記念日」のような「意味」「プロセス」等のメルヘンの世界に生きているのに対し、依存型ジャイアンは現金に結果のメリットにこだわるところでも区別は可能だろう。
この意味ではこの両者は表面上は似通っているが本質は非常に異なるということだ。
具体的な話で言えば、受動型ASは結婚した途端に偉そうに亭主関白ぶって現実の家事などは何もしなくなる。相手にとって自分が「必要」となった後は「自分は夫として居るだけでお前たちは自分のおかげで生きていられるのだから、面倒なことはお前たちがやれ」というわけだ。
これに対して依存型ジャイアン夫は現実の家事もいそいそとマメに献身的に手伝うことが多い。依存相手に対して点数を稼ぐために一番利用価値のある手段だからだ。
受動型ASも愛着の対象以外の「外面」ではこの支配的で理不尽に要求する顔はまったく見せないので、その意味では両方とも表面上は世間的には「良き夫」である。
中身、本質、同居してしばらく暮らしてみると家族からは両者ともこんなに大変で精神的にボロボロになる相手は居ないのであるが、外面は非常に良いのが非常に皮肉ではある。
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コメント
コメント一覧
依存型ジャイアンと受動型アスペルガーのカップルも存在するような気がするのですが、よくある組み合わせなのでしょうか。この場合、依存型ジャイアンの方が一枚上手になり、受動型アスペルガーの方が苦しむような気がします。依存型ジャイアンは浮気に走るケースが多いと思うのですが、いかがでしょうか。
依存型ジャイアンの恋愛関係の特徴は、ほとんど同一化したと言っていいほどの関係を築いているのに、どうも「深み」「深い相互理解」「相手への絶対的信頼感」が感じられないのです。お互いいなくなったら死んでしまいそうなほど「愛し合っている」のに、いやだからこそ、ロミオとジュリエット様の、悲愴感が漂っていました。
私も色々と「愛」や「関係」について考えましたが、「愛とは相手にとって決して重くはあってはならないもの。なぜなら相手を想う気持ちであるのだから」との結論に今は至っています。彼らの愛に、楽天的な生きる喜びが無かったのは、結局「自分への愛」を「相手への愛」と間違えているからなのではないかと思います。自分への愛は、まず自分で満たすべき。相手を道具のように使って、自分を愛そうとするから、みんな苦しむのではないか、そして私も苦しんできた、と思うようになりました。
自分も人のことを言えるほどの人間ではありませんし、多くの間違いを犯してきましたが、上で述べたことを理想に、人間関係を構築するように努力しています。
去年から拝見させて頂いてます。
ASっぽい人に振り回されてぼろぼろになったことをきっかけに、身内に自己愛ジャイアンがいることに気づき、それ以来ずっとジャイアンとASの違いを自分なりに考えていました。
今回の記事で違いが、自分の中でとてもはっきりと理解できました。
ありがとうございます。
のりまきさんのおっしゃるとおり、
「自分への愛」を「相手への愛」と間違えているから
というのには同感です。
痛いです。十代から“結婚不適格者”と自分を決めつけている私にとっても痛い言葉です。そのとおりですね。
最近、特にどこに書くというわけではなく、(やはり私はパーソナリティ障害のような気がする・・・。)と自問していました。医師に「違う。」と言われたわけですが、症状は症状として存在しているのだから、治療していただきたいです。治療の見通しが立たなくて、身も蓋もなく言うと『無駄』なのかもしれませんが。
受動AS男性はそんなに危機感無く結婚する例が多いのでしょうか?w
受動的男性にとって結婚というのは、そこまで絶対的な、拘束と言ってもいいような信頼関係を作ってから安心して踏み込むものなのでしょうかね。
障害の自覚を持つ前の事例ですよね? そう信じたい。
他の家庭では許されなくても自分の場合だけは上げ膳据え膳の夫婦関係が許されるようになる、それにふさわしい完璧でロマンチックな“プロセス”を経て結婚したのだから大丈夫!という自信でしょうか。妄想ですね。
一方依存型ジャイアンも、この結婚は流れですることだから仕方ない! この浮気も退職も悪友の言いなりも散財も遊びも無関心も、いちいちは流れでなったことだから仕方ない! 自分らしく生きているだけなのに許さない方が悪人だ! という発想でしょうか。幼児ですね。
今までのこのブログでの勉強で、私は漠然と“自覚済みの発達障害者のキャパシティーが許す結婚の形は別居婚がベストなのではないだろうか?”という気がしてなりませんでしたが、ますますそういう気がしてきました。
それか、カウンセリング等の支援を定期に受けることを条件に未入籍の同棲が、リスク(犯罪や取り返しの着かない病気に発展する結末。)を最小限にする具体的な方法なのではないでしょうか。実験はしませんが。
罵倒するとき、かけことばみたいなものになっていて、明らかに八つ当たりでも、自分に都合の悪いことは存在しないこととなり、責任は自分にはないことを証明するために、私の落ち度、が併用されます。
私はそれを私の落ち度として悩み、実際に周囲も少なからず認める私の欠点であるため、外面の良さは保たれ、一石 何鳥かですね。
利用価値があるから手放さないのですね。書きながら自分でわかってしまいました。
結婚したら豹変したり、DV夫だが外面のよい人種がいて、私には絶対に共存できない人種が世の中にはいるということがわかりました。
わかったからといって、生計を立てていくのには何の役にもたちません。
それどころか、男を見る目がなかった、だのACだの、共依存だの、依存心が強くマタタビにひっかかっただの、自信失うことばかりが頭を巡ります。
機能不全家族や、暴力、虐待の連鎖など、環境的側面からばかりの解釈をされていることも、遺伝や脳科学の問題としてあっさり解決されてしまえば気持ちがよいなあと思ったりもします。
ドラマチックな小説や、歴史や歴史に残る人物もそうサクっと解釈してしまえば、味も素っ気もなくなるでしょうが。
あなたがそうしむけても、私にはあなたが思う時にあなたの思う号令をかけることはできないのです。もうこれ以上私には関わらないでほしいのです。
私を利用しないでください。
これはほんとそのとおりですね。
「自分はこの世に存在するだけでお前にとって価値があるのだ」と、何を根拠にそう思えるのか、ほんと謎です。
最近、職場の資料棚で立ち読みした本にあった話ですが『人格形成中の未成年のうちに作られた当事者同士の繋がりは、後々まで信頼しあう絆として残るが、青年期に当事者をポッと集めても残念ながら繋がりは生まれないみたいだ。』という意味の文があり、ショックでした。
半面無理もない、とも思いますが。
癒えない心の傷(客観的に見ればどこで生きても出来る数ある再燃リストの一つかもしれませんが。)を作られ、または反撃して傷つけしてきた戦地に居て、逃げ帰ってきた者の実感として、そういう特性を持って生まれてしまい、それで動いているので・・・無理もない、と思ってしまうのですが。
子どもの時とは、年齢によって否応なく平等に勉強中の身であり、大人のような、サラリーに響くような利害の共有をしていない時期なので、当事者としてお互いに模索中の痛みがあることが前提になるでしょうね。
大人のように、人より早く合理性の道を究めることが有利・・・名誉・・・正解・・・になる立場ではないですから。
同じ拘束の時を知っている者同士、たぶん真っ直ぐ不自由と向き合ったことがある者同士なら、少々特性の程度に差があっても気持が通じ合えるのかもしれませんね。
少し羨ましい話です。
やはり大人は井戸掘りしても何しても無駄、な気がしていまだぬぐえません。
発達障害の言葉を知って、分かり合える可能性がある人間が世の中にいる、と分かってから自覚しましたが、私にはもの凄く自分のことを押しつけるほどに話したくなり、喉から血が出てもいいとさえ空想するくらい“何時間も話したい”衝動が湧きます。
一人で放置されても自動的に湧くのです。
結果重視のADHDタイプなら、たぶん習い事、イベント、レジャー、買い物、お洒落にお酒が飲める所等、深い信頼関係ができなくても退屈することなく遊び回っていれば解消する部類の欲求ではと思うのですが、世の中がどこもASの欲求と一致するフィードバックを用意できない以上、問題を起こさないためには・・・以下、以前に掲載を控えられた件が浮かんでしまうのですが。
この話は終り、話を変えて続けます。
話を変えて、ただの思い出話ですが、学生時代に私を子ども同士のお友達集団から追い出した人の一人は、寡黙な自主学習を嫌っていましたが優秀でした。
謙遜してましたが恐らく動作性も言語性も高いと思われます。
ただ、(今思えば人格が確実におかしい)上の兄姉が彼女に非情なほど理想の高い期待をしていたそうで、それを得意げに話し、コミュニケーションの鎧にしているようでした。
依存的ジャイアンの可能性も感じられますが、一度嫌った者に執拗にしつこく攻撃できる所はASも感じますね。
私が、追い出された次に、話し相手を探して誰かにすがりつくことを想定して、私と好意的に口を利いたことのある人に先回りして休憩時間に話しかけて回り、新たな人間関係作りを封じたつもりになっていて、私はそれを能面のように眺めていたのでした。
あるいは外面を巧妙に作れる境界線症状を持った高機能自閉症と呼んでもいいのでしょうか?
誰も彼女を診断してくれないので、今となっては呼びようもそうする気もありませんが。
“発達障害かも?”と思っても、苦手科目も不注意ミスも無いタイプの人間は、コミュニケーションの取りかかりがありませんからいつまでも、一度こだわられた上下関係を崩せなくて、または変化を作れなくて、トラブルに発展しないように気を使うことにほとほと手間がかかります。
違う場所で違うどなたかが、私に向かってもそう思っているかもしれませんが。
気付いた範囲では精一杯態度でお詫びしていますが、口に出し合えない関係は何年経っても大変です。
帰宅前に、久しぶりに本屋へ寄って、仕事のヒントを立ち読みしてきました。
昔は(今もですが・・・)本大好きでしたが、いつしか今は一字一句にいらいらっと来ることが増え、でも増えた本には愛着があるので本をこれ以上増やさないように努めているうちに、本屋から足が遠のきました。
致し方のないことですが、発達支援関係の書籍には“間違いなく子どもの気持を理解しましょう!”というメッセージの本が増え、勝手に強迫を感じて息苦しい気分になりました。
漠然と思ったことですが、特に発達障害にかかわっては、子どもが完全に「自分の気分を良くしてくれて十分満足させてもらった。」と必ずしも感じなくてもいいのではないかと思うことがあります。
人権に関わることなので書くのは難しいのですが・・・。
後で思い返しても一点の濁りも無い位、理想的に満足してしまう瞬間があると、AS傾向ならうっとりし過ぎて次のペースを忘れてしまったり、あらゆる人が雑多に居る現実に戻った時に悲劇のヒロイン風な気分が芽生えたりして、結果的にAS傾向の嫌いな気分の起伏や変化を作ることになるかもしれません。
ジャイアン傾向は、負担な自己突っ込みを忘れて、進歩が止まり、また誰かが憎まれ役をしぶしぶ引き受けて、インストールし直さなければならないかもしれません。または、刺激的に共依存的に満足させてくれない人間の多くが悪人に見えるかもしれません。
続けます。
一冊一冊はきっといいことが書いてあります。
しかし・・・当事者の一人として思うに“鈍さ”が強いという悲しさがあるので、成人後に振り返っても必ずしも正しい適切なことをした人が『いい先生だった! ありがとう!』と思い出してもらえるわけでなくてもないかもと思いますし、支援者の端くれとして思うに、それでもいいのではないかなとも思います。
ジャイアン傾向は、自己中心の直面化をさせてもらう等の必要があるし、AS傾向には
>相手の気持ちへの甚だしい要求
が相手を傷つけることもある可能性に気付かせられ、他人には他人の価値観も感覚もあり、それは自分の感性と一致しなくても間違いではなく自分が否定されてる訳でもないことを一緒に体験してもらいフィードバックしてもらう等の必要があります。
必要なことがされればそれでいいのではという気がします。それでお互い精一杯なのが現場だと思っています。
ただ、今の時代ならまだ誤解を呼びそうなので現場では口にしませんけどね。
お互い寂しい関係ではあるので、他の病気のようにもっと社会に認知されれば、また距離感は違ってくるのかもしれないですけどね。
高機能自閉症の認識を間違えていました。上三つ目のコメントです。お恥ずかしい・・・。
高機能自閉症こそがASと同義語で、AS群の中でも自閉度が重度というわけでは全然なかったのです。恥ずかしい間違いです。
まだまだ勉強不足です。
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