最近の経過報告をいくつか
①2月初めの「沖縄県の職業訓練校で精神障害者保健福祉手帳保持者の入校を拒否された」件の経過は、2月初めに人権派の弁護士さんと家族会、テレビなどの協力で出願は出来るようになったが、先週合格発表があり、私の外来だけで2名は手帳を開示して合格が決定した。この結果を確認して一安心。
②沖縄県発達障害者支援センターを2年前から委託されてきた法人が突然投げ出すという大事件があり、実は3月はこれで大変でした。ある社会福祉法人と私で委託を受けることを相談して、3月12日に名簿を含めて申請を提出、24日夕方からプレゼンテーションがあり、(他に二つ法人が手を挙げているので、)年度末ギリギリに結果が分かる見込み。
③精神障害の障害年金申請で、社会保険事務所と社会保険事務局から却下されたケースが、社会保険審査会への再審査請求の結果、「ADHDを原因疾患とした精神疾患」の初診が認められた。
というわけで、2月3月はずっと過集中モードで突っ走ってきたので、訓練校の合格発表が終わって支援センターのプレゼンが終わった段階で「虚脱」気味になっている。
私は実は他にもいくつも学校や行政と戦っていることがあるのだが、前向きの結果はなかなか出ない。
ジャイアンの回復には、「現実的な実績」が必要なので、「元手」としての障害年金取得が決め手になることが多い。年金取得から少しずつステップアップして、社会参加することで自己評価を持ち上げるところまで念頭に入れた治療プランを私は考える。
前回の高校生の場合につながるが、学校に出向いて発達障害について説明するときに私がよく使う説明の方法を書いてみよう。
「多数派と発達障害の違いは、生徒の側から先生に合わせることが出来るかどうかです」。と私は説明する。
小学校5年生以降の思春期の場合には、多数派の児童生徒は、「ここは学校で相手は自分を評価する権限を持った教師である」という「場の意味」をよく理解している。学校という「場」の最初の大前提だ。
この前提から、直ちに「先生に逆らったら損」「自分は生徒で、先生は強い立場だから、ある限度までで自分の意見は引っ込めるしかない」という「場の理解」が直接帰結する。
だから、多数派の児童生徒は、少々教師の説明が納得出来なくても、理不尽だと思っても、間違っていると考えてさえ、強く自分の意見を主張し続けることなく、教師に「合わせる」。こうして教室、学校という空間の平和は保たれている。
中学以降の場合は、「高校受験の内申にひびく」と親も教えていることが多いだろう。
これが、発達障害の児童生徒が一人でも教室に居ると状況が違ってくる。
発達障害はADHDでもASでも、「自分が納得することが一番大事」であり、単なるスローガンでも「教育の目標」や形骸化していても「ルール」を杓子定規に(KYに)重視する。
その結果納得しなければ、「先生が間違っている」と言い張って教室の平和を「破壊」する。「ここで逆らったら損」という場の雰囲気からのブレーキはかからない。
この本質を私は「多数派の子は先生方が少々おかしなことをしても逆らったら不利だから何も言わない」「発達障害の子はストレートに先生方の教育へのリアクションをそのまま返してくれる」と説明する。
「多数派の子達は何も文句を言わないが、発達障害の子だけが扱いにくい」という現象の理解は、「何か教師のやっているケアに問題があるのだが、多数派の子は教師に気を使って問題にしないだけ」という風に捉えることが妥当だと私は思う。問題は発達障害の子供のほうにあるのではないのだ。
だから私はいつも、学校での説明は、「先生方にとって教育者としての技量を磨く格好のチャンスなんだ」と締め括ることにしている。
校長先生はこの話を聞いて喜ばれることが多い。
「強い立場に対して気を使って、納得出来なくても教師に合わせ反抗しない」ことは教師が「当たり前」に生徒に求めて良いことなのだろうか?
発達障害理解に役に立つエピソード① AS男子喫煙事件
(これは全部事実ではありません。分かりやすく一部改変。)
ある県立高校で校内喫煙が見つかり、数名が停学自宅待機処分となった。その県立高校では通常停学中も生徒指導担当教師の定期的な面接と「反省文」を書かせることが通例となっていた。
一定期間の後、ほとんどの生徒は「反省文」を提出して復学となった。ところが、停学処分となった中にASの男子生徒がおり、AS氏は反省文が書けず、停学が延びていた。
反省文にはいろいろな文言が書かれ、AS氏は「意味が分からない」「こんなものに署名したらとんでも無いことになる」と不安になっている様子だった。
「反省しない生徒がいる」と保健所で相談を受けた私は、学校で本人などの話を聞き、(ASと診断の見立てをつけたが、その時は診断の話にはせず)理解のあるスクールカウンセラーにお願いして、「本人が納得する反省文を書かせる」ことを提案、本人は「卒業するまで喫煙しません」と反省文を書き、復学できた。
先生方とのカンファレンスで私は先生方に聞いた。
「反省文を書いた生徒たちが本気でタバコは害だと納得していると先生方は思われますか?」
「復学する為に嘘で反省文を書いている可能性は無いと言い切れますか?」
「この生徒は正直に悩み、正直に納得して居ないと口にしたり、反省文の意味が分からないと真剣に悩んでいるのに、この生徒だけが停学が伸びることにどんな教育的な意味がありますか?」
「ウソを平気で書ける生徒が復学し、正直に納得していないと言う生徒が復学出来ないことが正しい教育ですか?」
(発達障害の)この生徒を見ることは、教師の側の教育に対する意識の原点を振り返らせる意味がある。「教育とは一体なんなのか?」「学校とは何を教える場なのか?」、こういった根本問題を考え直す格好の機会であると説明し、前向きに捉えていただくよう先生方にお願いした。
校長先生は喜んでこの話を聞いておられた。
「この話は使える」とお考えになった場合は、「寓話」として自由にお使いください。
ADHDの過集中状態について、私は「リミッターを振り切った状態」という風なイメージで考えている。
脳の働きも他の身体の働きと同じく、フル稼働を続ければ神経伝達物質などが枯渇するといった機能に必要な条件があり、その範囲内以上に働かないようにリミッターがかかっていると想像する。
そのリミッターの働きは、同時に脳全体の統合的な働きとも同期して、各部分のリミッターは調整されているのに違いない。
その結果、おそらく多数派の場合、脳全体の働きから見てこれ以上働いても効率は上がらない(あるいは脳全体が危険な状態になる)というある水準で「疲れ」や「意欲の低下」を感じ、それ以上脳を酷使出来ないように脳は統御される。
ADHDはこの全体の統御の機能が落ちていて、各部分が暴走するような脳の働きかたをしていると私は想像している。
例えば、言語的・物的な情報処理を行う頭頂葉の働きと情緒や快不快に関与する大脳辺縁系とがバラバラに働くことで、「超合理的」になることはある程度説明可能だろう。
多数派の世界の「中庸」や「バランス」とは、自分の脳内の情緒的な部分と情報処理、行動などの統合がまずあり、さらにその個人内の調整水準を他者との対人的な非言語的なやり取りの中でお互いに調整するところまで自動的に「直観的」に行われ、その結果が「安心」や「不安」、「空気を読む」という現象となっているのだろう。
対してADHDは自分の中の統合がまずうまく行かず、その結果脳の各部分がバラバラに活動し、当然他者との関係の調整は困難であり、他者との関係の中での「安心」に代わるものとして過集中の一種の「充実感」を追い求める。
リミッターが機能しないので、「火事場の***」のように各部分の働きは一時的に甚だしく働くことがあり、「ただ記憶する」とか、「ただ**する」というシングルタスクの場合は多数派よりも集中できることがある。
逆に脳の各部分をバランスよく使い、また他者とのチームプレイが必要な場合では当然非協調的で、自分の中では「無駄なエネルギーの消費が多い」という結果になるだろう。
少なくとも自分の中での「統合」は意識的なトレーニングである程度カバーできないか、少しずつ考えている。
AS(アスペルガー症候群)は一般的には空気が読めないと言われているのが実は私は不思議だった。
私が接しているASの人は人を近く感じているがゆえに苦しんでいる人が多く、その意味で私には「ASは空気が読めすぎる」という風に見えていたからだ。
この意味ではADHDのほうがはるかに「自閉的」で、根本的には人を必要としない。また本当の意味でKYでもある。
だが確かによく見るとKYのASの人は居るには居る。この両者の関係について最近やっと整理できた。
先のジャイアンの最初の分類と同じく、「非言語的」に器用かどうか、動作性IQに相関する非言語的状況察知能力の個人差であるというのが最近の私の考え方だ。
もちろんASにも合理的、強迫的な環境で育てられるかどうかの同じような分類は可能だろう。
詳しくはASの専門の人に任せようと思うが、ぱっと思い浮かぶASの人をいろいろ当てはめてみるとイメージが出来る。
思うに、ASは非言語的な状況察知能力が乏しいKYのASの人のほうが安定して幸せそうに見える。受動型などの、状況察知能力だけ使って生きているタイプのASは周囲に流され続けるが、自分自身のこだわりとの矛盾で大変そうに見える。
「KYでないAS」は実は境界例(ボーダー)に酷似している。特に受動型ASの愛着の家族に対するときの態度はボーダーと呼びたくなる。
「KYのAS」はこだわりにのみ忠実で、非言語的に器用なタイプと比べて非言語的にイライラを振りまいたりして周囲を振り回すことも少ないので、多数派からも「こういう人」と認知されて、マイペースで生きられる。
研究職や、技術職など、(私は薬剤師は適職だと思うが)環境に恵まれれば、特に不適応にならないで幸せな人生を送るケースも多いだろう。
意外に「立派な校長先生」とか「立派な警察署長」などにも居そうな印象はある。
ジャイアンの子供はなぜじゃんけんで負けて泣かないといけないか? なぜ周囲を振り回すまでして注目を集めないといけないか?
比較の対象は多数派で、(これは想像であるが)、多数派の子供は、例えば失敗しても、家族から少し「よしよし」してもらえれば立ち直る。テストの点なども、周囲と比べてそれほど悪くなければ気にならない。
周りの家族や友達との関係の「場の空気」の中で自分自身の存在を感じることが出来るので、ある程度の安心感を得られる。
ジャイアンは「他者」を感じられない。自分と他者が形成する見えない「場の空気」を感じられない。
何も無い状態では、自分がどこに居て誰であるのかも、一瞬前の自分と今の自分のつながりも、実感としては安定せず、その結果、ジャイアンの子供は幼少期から非常に不安が強い。
トイレに一人では入れなかったり、暗がりを怖がる、(怖そうな大人を怖がらないのと対照的に)鬼やお化けなどの超自然的なものを極度に恐れるなどのジャイアンの子供独特の不安は、「自分が無くなってしまう」という非常に根源的な不安につながっているのだ。
私は結局ジャイアンの障害の一番の根っこは、「他者を感じられない」ということに行き着くと考えている。他者を感じられないから「場」の中で安心できない。
飽くなき不安の中で表面的な優位や注目の独占を獲得するために死に物狂いの努力をせざるを得ない。
「場」を認識しないから、多数派から見れば「結果を得るためには手段を選ばない」という行動が帰結する。
これが中心志向の本質であり、ジャイアンの子供が育てにくい根本的な理由であると私は考える。
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