合理的な思考④は、「観察」だ。発達障害の行動は、驚くほどワンパターンで、親子関係やパートナーとの関係等の「相互作用」まで含めて、「単純な図式で説明できる」ことが多い。

 例えば「親が積極奇異型ASでジャイアン娘に愛着を持ち、可愛がられる代わりに自己主張を抑えるように接した場合」は、ジャイアン娘が「依存型」の道を歩む。ジャイアン娘の動作性IQなどの素因で、「境界例型」と「強引丸投げ型」に分かれるが、結局さまざまなaddiction、摂食障害や解離などの病的な経過を経てそのAS父に反抗して自立しようとすることでジャイアン娘は回復する。ということが極めて簡単に図式的に説明できてしまうのだ。

 「観察」することは、情緒とある程度切り離された「他人事」として冷静に考えられることを意味する。ジャイアンも積極奇異型ASも中心志向が邪魔して、「他人のことは合理的に考えられるが自分のことは出来ない」という一大特徴があり、ひとまず他人の現象として図式をマスターし、それを繰り返して頭に入った後にやっと自分にも適用できるようになる。

 私は発達障害のケースは思春期(小学校5年生くらい)になると、「多数派を観察する」ことを勧める。多数派の行動の特徴について冷静に観察し、理論的な理解をすることがその後の「多数派にどこまで妥協するか」という大きな問題を考えるのに不可欠であるからだ。

 多数派の行動も発達障害の行動も冷静に観察し、「なぜこう行動するか?」を考え、理論的分析を一つずつ積み重ねていくことが、中心志向で捻じ曲げられがちなジャイアンや積極奇異型ASの認知をいくぶんか合理的な方向に引き戻し、独断を回避することに役に立つ必要な「努力」である。

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 もともとADHDは大雑把で「きちんと」考えることがどちらかと言えば不得手だ。ジャイアンもASも、中心志向から来るエゴおよび過集中のときの関連付け思考などにより、情緒的なエゴで結論が決まっていて、根拠については後付けの理論で正当化したりすることが多い。

 ここでよく見られるのは、「いろいろな気持ちや考えを一緒くたにしている」という特徴だ。全部まとめて攻撃するか、さもなくば全部まとめてひっこめて我慢するか、極端な選択になることが多い。

 合理的な思考の第三のポイントは、「具体的に細かく調べる」ということだ。

 私は診療の中でほとんどの場合に、訴えの中身を「いつから、どの場所で、具体的にどんな形で、どんな頻度でetc」と具体的に聞き出すようにしている。「その前に現実のストレスがなかったか?」 なども具体的に聞く。

 その後で、特に「怒り」などについては、「誰に対するどのような怒りか」と一つずつ聞きながら、これを除いたらどんなものが残るか?と丹念に聞いていくと、一つの「怒り」についてもさまざまな感情が入り混じっていることが分かる。

 絡まった糸を解くように、怒りの一つ一つの要素を拾い上げていって、今度は細かく一つ一つの要素について整理する方法を考えていく。

 全部まとめた怒りについては気持ちを整理する方法は困難でも、ひとつひとつについては、冷静に考えると解決が可能なことが多いのだ。

 ジャイアン親の子供への感情には、「思い通りにしたい」、「自分の子供として自慢したい」、「子供に優位に立たれるのはむかつく」、「手近に居ると八つ当たりの対象にする」などの感情のほか、時には「AS夫の愛着を争う娘への嫉妬」であったり、「妬み」などもある。

 これを一緒くたに考えていてはなかなか整理は進まない。

 ひとつひとつ、こういう部分もありますか? と細かく分析して行って、「これらの感情がごちゃ混ぜになった感情ということですね」という結論に達したら、こんどは一つ一つについて例えば「ジャイアン親の中心志向のエゴから来るもの」、「別のストレスのはけ口としての八つ当たり」、「娘への嫉妬心」などの「意味」をはっきりさせていく作業をする。

 「細かく調べる」という作業は特に情緒に振り回されて冷静な思考が出来なくなる過集中のときなどに役に立つ。

 こういう作業を一緒にしてくれる冷静な相手を身近に持つことは重要だ。 

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 ジャイアンと積極奇異型ASは独特の「中心志向」を持ち、「自分が仕切りたい」という発想があるので、当然の結果として「自分の理解が絶対的に正しい」と独断的になりやすい。

 また、積極奇異型ASは常に、ジャイアンの場合は過集中時に「関連付け思考」が激しくなり、あること無いこと全部関連付けて自分勝手に理解してしまう。これも独断の大きな原因となる。

 また逆に「ADHDのAC」は周囲に合わせなければならないと思い込む余りに、見当外れに周囲の人の態度から「嫌われている」等の勝手な解釈を繰り返すことも多い。

 その結果、発達障害は全体的に「思い込みが激しい」「独断的」ということになる。

 だから合理的な思考へのポイントの第二は、「自分が正しいとは限らない」と認識することだ。

 「自分に分かることは部分的でしかない」「自分に出来ることは少ししか無い」「自分が世界の中心であるはずが無い」というようなことは「当たり前」のはずだが、ジャイアンにも積極奇異型ASにも、このことを頭に置き続けることは「努力を要する」ことだ。

 ジャイアンは何も努力をしなければ、自分に都合の良い自己正当化の中で「裸の王様」になり、積極奇異型ASは努力しなければ、「井戸の中の正義」になってしまう。

 私は最初の大学の教養課程で「現象学」を学んだが、安易に理論や概念を無批判に「構成」することを避けつつ、可能な限りナマの経験に近付いていこうという考え方は、独断に陥ることを回避するのに役に立つ。

 「偉そうに主張出来る」ことの根拠は何か? そもそも自分自身は世間と自分についてそれほどちゃんと分かっていたのか? 自分の主張を他人に強制して良いのか? などを自分自身に問う努力が無条件に必要なのだ。

 自分に見えているのは世界の一面でしかない。自分には必要以上にいろいろなことを関連付けして断定してしまう悪い傾向がある。思い込みで行動すると失敗する可能性が非常に大きい。特に過集中で思路が狭くなっている時は前が見えないで突っ走っているようなものだ。ということを自分に言い聞かせ続ける努力が必要だ。

 これが発達障害の合理的な思考への第二のポイントである。

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2008.12.12 22:36 |  診療  |  研究  |  その他(医療関連)  |  ADHD関連  |  AS(アスペルガー)関連  |  YANBARU  | 推薦数 : 3

合理的な思考①

 これまで最終的な解決策として、「合理的な思考が出来ること」がゴールであると説明してきた。ADHDたるジャイアンの救いは「片方の足が合理的である」ことにある。

 そこで今度は合理的な思考について具体的に考えてみたいと思う。

 合理的思考の一番のポイントは「本当のことに目をつぶらない」ということだ。

 ジャイアンは「否認」の一番強い人種だ。自分に不利な事実を認めることの困難さ、指摘した相手を責めたり、責任転嫁する対象を探し回る。得意の屁理屈で自分を正当化し、不都合な事実から目を逸らす悪あがきをやめない。

 不都合な「本当のこと」を消しゴムで消すために費やす努力は実りがない。一時の過集中状態が落ちついて来ると、結局自分の中の合理的な自己突っ込みからは隠れることも逃げることも出来ないので、「そんなことをしてどうする? 本当のことは消えないのに」という自己突っ込みが来て悪あがきは終了する。

 私は最初の大学は京都大学だったが、あの空間で学べたことのメリットの一つが、「どんなに不利なことでも当たっていることには認める」というコモン・センスがあったことだった。

 「どんなに不利で不都合なことでも、当たっていれば、本当のことなら認める」これが合理的思考への第一歩だ。

 最初は事後に落ちついて、過集中の嵐が去った後に(すぐに忘却するのではなく)自分の過集中状態での思路の狭さ、自分の偉そうな自己中さ、客観的合理的な思考の困難さをまず思い浮かべる。

 実際過集中状態では「自分のことを棚に上げて人にそんなことを言えるか?」ということが見えていない。落ちついて合理的な自己突っ込みが復活すると、「自分こそ何様だ?」「自分こそそんな立派なことを言えるような立派な行動をしているのか?」という当然の自己突っ込みが来る。これがジャイアンの一般的な思考の流れであり、最後の合理的な自己突っ込みが無いケースは「依存型」か「丸投げ型」ということになる。

 これがたゆまざる訓練により、徐々に「直後」となり、「ほぼ同時」から「事前に予測」まで行けるような努力を続けるしかない。

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2008.12.10 20:32 |  診療  |  研究  |  その他(医療関連)  |  ADHD関連  |  AS(アスペルガー)関連  |  YANBARU  | 推薦数 : 3

究極のすれ違い

  例えばジャイアンが受動型ASを「利用」したとする。それを受動型ASが「必要とされている」と勘違いするという問題がある。この問題はもしかすると普遍的に起こり続けている大問題のような気がするので、細かく検討しておこう。

 前回詳述したように、ジャイアン側からは、ジャイアンとして自己責任たるべきことを丸投げして後から合理的な自己突っ込みが生じなければ「利用」で問題ない。これは比較的はっきりしている。

 受動型ASの場合は、本来「利用」は自覚的にはすることもされることも嫌うが、相手によって「利用」に反応する場合と反応しない場合がある。

A.愛着の対象の場合、「利用」と分かると傷つく。単なる「利用」だった場合、「必要」であるかどうかを確認せざるを得なくなる。「利用に過ぎない」状況証拠の一つでもあったら最後、受動型ASから「私のことは必要ではないの?」という主に非言語的な「試し行動」が繰り返されジャイアンが揺さぶられることになる。

B.愛着で無い場合は利用されてもそのまま情緒的にマイナスは無い。

 以前にも述べたが、依存型ジャイアンと(ボーダー型)受動型ASは表面的には非常にうまく行く。両方とも状況察知はかなり出来て、非言語的な手段をある程度使えるからだ。

 しかし依存型ジャイアンは非言語的な手段を伴ってはいるが、「人は必要とせず相手は利用価値でしかない」というジャイアン独特の原則は同様で、結局長期的にみれば、「自分が有利になるために利用する」という正体が簡単にバレてしまう。

 対して受動型ASは依存するために「自分を必要としてくれる相手を探す」という意味では実は利用と何も変わらないと私は思うが、受動型AS本人は表面に感じる非言語的なやり取りがあるから、(そうと指摘されなければ)「利用」とは認識しない。

 浮気や子供の教育問題などの「責任」が問題になる場面になると、今度は「子供のことはお前に任せていた」等の露骨に無責任な態度が依存型ジャイアンから出てくるので、受動型ASは依存を続けられなくなり、関係は崩壊する。

 ジャイアンからは最初から「利用」でしかなかった。それを受動型ASは表面上の非言語的なやり取りから「愛情」であると「誤解」して、依存していただけであったことが露呈したということだ。

 不可能な幻想ならば、はじめから持たない方が良いと私は考える。

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2008.12.03 17:48 |  診療  |  研究  |  その他(医療関連)  |  ADHD関連  |  YANBARU  | 推薦数 : 4

丸投げと利用

 ジャイアンは「出来れば責任を回避して丸投げしたい」という基本的な志向を持つので、相手がやってくれると言えば何でも「ラッキー」とばかり丸投げする。

 逆に現実的に自分が不得意なことで相手が快くやってくれることを任せるのは「利用」であり、この「利用」はジャイアンにとっては(世間の多数派にはどうかはともかく)「健全」な行動と言える。

 この違いについて考えていたが、結局ポイントはジャイアンの尊厳たる「自己責任の原則」に反するかどうかの問題であると分かってきた。

 例えば割り勘の計算を任せること、また私の場合は新築の自宅の設計の相談などをカミさんに「丸投げ」したのだが、これは相互納得の上での「利用」に近いと考える。

 反対に、「不健全」な丸投げは、例えば最近テレビをにぎわしていた某芸能人のように、「自分のステータスを夫の社会的地位に丸投げする」というようなことである。

 この違いの根本にあるのは、「そのことを現実に丸投げしていることで合理的な自己突っ込みが生じるかどうか」ということにある。私はカミさんに(信頼して)丸投げしたので、出来上がった家については「任せることを選択した自分の責任」を自覚するので、不満は生じない。(逆に文句を言おうものなら合理的に「だったら任せなければ」という自己突っ込みが生じることになる)。

 「丸投げ」の問題性、不健全さは、自分の生き方の非常に重要な部分について、「自分で責任を取りたく無いから丸投げする」という形になっていることにある。

 依存型ジャイアンや、先延ばしの状態など、合理的な自己突っ込みがもともと停止しているか、あるいは合理的な自己突っ込みをを「誤魔化す」形で丸投げをすると、私の考えでは、潜在化した自己突っ込みのために治り難いうつ状態や身体症状、強迫症状などが生じることになる。

 この例としては、例えば「原因不明の身体の痛みなどがあり、強いジャイアンたる本人がどんなに自分なりにやっても治らなかったのに、ASの治療者が白馬の騎士然と現れて見事に治してくれた」というようなケースを想像すれば分かりやすい。

 AS治療者から「我流を捨てて私に従いなさい」と言われ、その通りにすると「いい子いい子」と誉めてもらえたとする。自己突っ込みに苦しむジャイアンにとってこんな垂涎の丸投げの誘惑はないだろう。

 「丸投げをして自己突っ込みから逃れられる」という構造がお分かりだろうか? 

 ついでに言えば、私の考えではこの人の身体症状はこの丸投げ自体が原因でさらに悪化する可能性が大であると私は想像する。

 ポイントは、「丸投げしたことがジャイアンの尊厳に関わらなければ利用になる」ということだ。自分も納得して任せて、後でストレスを生じないことであれば「利用」になり、本来丸投げすることはジャイアンとして潔しとせず納得出来ないような重大な問題を丸投げすると「責任回避」の自己突っ込みが生じ、その結果病気になるということになる。

 どんなに名医に治してもらっても、最終的にはジャイアンは「自分で回復するしかない」だろうと私は考えている。どのようにして回復するかを事前に説明され、事後にも説明され、本人自身の努力で納得できる形で再発を予防するのが最も健全であり、「我流を捨てる」ことはジャイアンは最後までするべきではない、出来ない、下手にすると病気になるのだ。

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 受動型ASは「非言語的フォロー」というジャイアン猫が飛びつくマタタビを持ち、小出しに出されるとジャイアン猫は簡単にマタタビ依存症にかかる。

 ただここに大きなジレンマがある。「必要」がはっきりした後はマタタビは無くなるのだ。 

 「釣った魚に餌をやらない」という表現は受動型ASの行動を非常に良く表している。受動型ASからすれば、「相手(ジャイアン)からの自分の必要」が保証されるまでは非常にやさしく(非言語的なマタタビいっぱいの)サービスをするが、いざ結婚するなりを期に「必要」が保証されれば、今度は受動型ASの側が依存できるわけで、サービスはぱったりしなくなる。

 しかもこの依存は「面倒を見てやっている」「自分のおかげで生きていられるだろう」という共依存なので、思い切り偉そうで上から見下ろすような恩着せがましい態度に「豹変する」という結果が必然的に起こる。

 ジャイアンから見てこれが腹に据えかねることは説明の必要もないだろう。このまま我慢しているとAS被影響症候群や治り難いうつ状態になる。

 ジャイアンは浅はかな生き物だ。最初にマタタビをちらつかせられるとほいほいと誘惑に乗ってしまい、その後の豹変に苦しむ。

 ただマタタビに飛びついてしまう背後には、ジャイアン自身の依存性があることは確かだ。非言語的なフォローがあっても、厳しい自分の中の自己突っ込みから逃れることは出来ない。厳しい自己突っ込みに耐える以外の甘い逃げ道は全て病的な結果に終わると私は考える。

 もっともらしいことを言う相手に対する「丸投げ」にせよ、非言語的なフォローに対する「依存」にせよ、自分で全ての責任を負わないこと自体、最後に自分で自己突っ込みすることになるというのがこのジレンマの背後にある「本当のこと」だ。 

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