「利用」という言葉は依存系(ASやAC、依存型ジャイアンなど)の人には大きな抵抗があるようだが、ACから回復して依存に走ることも辞めた本来のジャイアンには実に「自然」ですっきりした表現だ。

 私は「利用の何処がいけないか?」と平気で言っているのだが、その説明を試みよう。

 さて前回までの続きで、生きるか死ぬかの「尊厳」の世界では、表面的な「配慮」とか二面的な「フォロー」などが全て無意味になる。本人の意志を尊重するか、無視するかのギリギリの選択しかない。

 「利他」とは何かを突き詰めて考えれば、「自分で考えた相手のため」というのは悉く「自己満足」でしかありえず、特にASの場合にはどう転んでも「親切の押し売り」的な「支配」にしかならない。(ASはよほど苦労した人で無い限り「自分のやっていることが自己満足で過ぎないのでははないか?」という疑問自体考えないだろうが)

 自己満足を全て去ろうと考えると、最後に残るのは「相手のことを決め付けないで、極端には相手を見さえしないで、相手に関係なく自分の決意と選択だけで自分の責任で関わる」場合に「利他」が可能となるということになる。

 ここまでは私が昔青くさい学生の頃考えた話だが、結局人と人の間に何も見出さないジャイアンには、こういう殺伐とした(しかし責任の明確な)人間関係のイメージしか残らないのだ。

 こういう世界では、実に「利用」しかないということになる。

 「私は利用されることを喜んで選択する」ことはジャイアンにとっては自然に出来る。その代わり相手を利用もする。利用されたく無ければ断れば良いだけのことだ。

 こういう分かりやすい利用と相互利用の関わりに、「愛情」とか「可哀想」とか、別の表現をかぶせる意味があるのだろうか? 本質を覆い隠して責任をあいまいにしたり、実は支配的な押し付けであるのを誤魔化したり、共依存の中で自分の選択なのに責任だけ負わないように逃げたりすること以外に何か意味があるのだろうか?

 という意味で「利用で何が悪いか?」と私は考える。 

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