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 私のジャイアン母親はNHKしか見ないという典型的なジャイアン的な表面的世界観の持ち主だ。思春期の私が一番驚いたのは、他所の家の不幸を「あそこのお父さんが大学出てないから」と学歴だけで説明したことだった。

 この悲しいほど表面的な世界観が残念ながらジャイアンの一大特徴で、「利用しか出来ない」「パートナーのブランド志向」というのも実は根は同じである。

 昔のホワイトカラー偏重、公務員志向、NHK志向など、ワンパターンで共通して見られるから面白い。

 この世界観の必然的な帰結として、例えば子供本人が自身の夢として何を希望していようと、学歴偏重を当然のように強制するという結果になる。

 子供本人がボクサーなどの運動選手、ミュージシャンなどのアーチスト、調理師や美容師などを目指しても、理解を示すことが出来ず、強引に押しつぶす。そう言えば女子の場合は「看護師」を強制するジャイアン親も多い。
 
 このジャイアン親の学歴偏重の背景にあるのは、結局パートナーのブランドと同じで、「親自身にとっての利用価値」でしかないと私は思う。子供の学歴は親自身が「他の親に対して優位に立つために確実に使えるアイテム」というわけだ。

 問題は本質がこういう「親のエゴ」でしかないことを、さも「子供のため」に教育熱心であるように表面上見せかけることにある。「私がよその親に自慢したいから良い大学に行って欲しい」と正直に言えば良いのが、「あなたのため」と表面上立派な理屈を並べて正当化するのはジャイアンのお得意の技である。

 ただ結局ほとんどの場合このジャイアン親のエゴは簡単に見抜かれることになる。ジャイアン親の浅はかさに比べて、子供はそんなに鈍くないので、思春期にかかった途端にこの誤魔化しに気付いて何らかの問題を起こすだろう。(私も自分の両親は仮面夫婦だとずっと感じていた。ある程度頭が働けばこの表面的な世界観を尊敬できる訳が無い。高校生くらいだったか母親を動物の名前で読んでいたことがそう言えばあった)。

 この現象を子供のほうから見ると、「高学歴を要求しておきながら頑張っても決して誉めない」という風な親像になる。ジャイアンとして子供に対しても優位に立ち続けるために誉めないわけだ。

 ADHDの子供ならとっとと家を出て帰らない道を選ぶだろうし、多数派の子供ならジャイアン親を表面上だけ適当におだてておいて実際は自分の道を進むだろう。問題はASの子供だった場合で、このジャイアン親に愛着があったりすると表の強制とウラのメッセージを両方とも真に受けてボロボロ(重症ACなど)になる可能性が大きい。

 ただこのAS子供の場合も、大人になって病気になったりして上手く行かなかった時にジャイアン母の責任を問われると、「私は何も強制してない。子供本人が選んだこと」としゃあしゃあと言ってのける。もっと追及されると「私は子供のためと思ってやってきたのになんでそんな言われ方をしなければならないの!」と逆切れすることがほとんどだという厳然たる事実がある。

 無自覚なジャイアンが親になった場合の悲劇だ。

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 これまで究極の個人主義、「自己中な野良猫」としてのジャイアンの認知と行動、脳の働きの基本パターンを考えてきた。
 コメントの中でも幾度か話題になってきたが、この自己中な野良猫のスタイルと「親の責任」はどう関係するのか? 自覚したジャイアンは本気で悩む。

 親の責任は一番逃げることが出来ない重い責任である。パートナーへの責任は離婚すれば逃げられるが、子供の親を途中で辞めることは出来ない。私も最低子供たちが二十歳になるまではどんなにきつくても死ねないとは考えている。

 さて究極の個人主義では、当然子供も一人の独立した人間として自己決定権を最大限に尊重する。だから思春期以降は意外に考えやすい。「自己責任」で大人と同様の扱いをして、どうしても困難な場合の経済的援助の準備をして普段は余計なことは一切言わない。「本人の選択と自己責任を尊重する」という方針だ。

 自己決定が困難であると考えられる学童期までの方針は、思春期以降の本人の選択と自己責任につながることを考えつつ、「自分の責任における選択で自分がベストと考えるように接する」ということになる。これは前回まで書いてきた「自分で選択した利他」と同じ考え方だ。
 子供本人の考えはきちんと聞くが、理由を説明して強制すべきは強制する。その理由は学童期までは子供自身に責任が取れないからだ。

 どちらにしても、「あんたのため」という言い方は全く出てこないことが重要で、そういう表現が出てきた瞬間にジャイアンの場合は親としての自分の責任逃れや丸投げ、共依存、支配などの歪んだ行動パターンに注意する必要がある。

 これらが一番子供の健全な成長のために良くないのだ。 

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2008.10.25 00:09 |  診療  |  研究  |  その他(医療関連)  |  ADHD関連  |  AS(アスペルガー)関連  |  YANBARU  | 推薦数 : 2

骨肉の争い

 ジャイアンACや依存型ジャイアンがASの愛着で自分の不安を解消しようとした時、時に(実は少なくないのでは?)「母娘ジャイアンの愛着争い」という実に恐ろしい状況が見られることがある。

 ASの愛着は「雷に打たれる」と表現されるように、当のAS本人にもコントロール不能な面があり、自分の子供でも、「当たる」場合と「外れる」場合があり、同じ兄弟でも片や溺愛、片や極端な冷淡さで足蹴にするということが普通に見られる。

 その結果、「愛着はジャイアン妻にだけあって子供にはない」というパターンとともに、「愛着の一番がジャイアン娘に移行する」ということが起こりうる。  

 自身のACの不安を解消したり依存したり(して利用)しているAS夫の愛着が、同じジャイアンの娘に移行することはジャイアン妻にとっては重大な状況であり、このジャイアン妻の非言語的なジャイアン娘へのウラのメッセージがどのような恐ろしいものになるかは普通の人の想像を超えているだろう。ジャイアンにとっては母だろうが娘だろうがお構いなしなのだ。

 このウラの恐ろしい否定的なメッセージを受け取った娘のジャイアンACを数例私はケアしてきたが、重症の摂食障害になったり、解離(多重人格)になったり、厳しい病的な経過をたどることが多い。

 治療はこの世代を超えた不条理な構造の全体を本人に説明することと、この事実を受け止めて合理的に乗り越えるまで面倒を見ることになる。

 ジャイアンとASの性(さが)が生み出す「骨肉の争い」だ。 

      

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2008.10.22 12:26 |  診療  |  研究  |  その他(医療関連)  |  ADHD関連  |  AS(アスペルガー)関連  |  YANBARU  | 推薦数 : 1

依存と利用

 「利用」は非言語的な意味を伴わない現実的な関わりであり、(しつこく書けば)大事なことは、「利用」と表現する限り「責任は利用したほうにある」と責任が明確であるという事だ。

 対して「依存」はどうだろう。
 受動型ASの場合は、要は「郭公の雛」的で、鶯の巣に鶯よりも体が大きい郭公の雛が「餌を持って来い」と当然のように口をあけて待っている図を想起しよう。「相手が自分を必要と言う」ことを切望し、相手がその言葉を言ったら最後、巣に居座る権利があると認識し、「必要と言っただろう」と当然のように異常にあつかましい理不尽な要求を巣の主に突きつけ続ける。(逆に必要でないと言われるといきなり関係をぶち切る)。

 依存型ジャイアンは言葉でお願いすると自分の責任が生じるので非言語的なアピールで相手を動かそうとする。他にも無自覚なジャイアンは責任を取らなくて良いとなると簡単に丸投げしようとする。ACの共依存も同様だ。

 説明するまでも無いことだが、ここに欠けているのは、「自分が相手を選ぶ」という自分の責任に基づいた行動だ。

 郭公の雛は鶯を利用していないだろうか? 「あなたのため」と言って一方的な価値観の押し付けを続けたり、自立出来ないほどに「飼い殺し」を続けたり、相手の自己決定権(尊厳)を奪いながら支配し罵倒し続ける共依存者は相手を利用していないだろうか?

 答えはこうだ。

 実際は自分の不安を軽減したり、「大変な家族の面倒を見ている感心な同居者」としての自分への同情や賞賛が欲しかったり、(パートナーや社会などへの)八つ当たりのはけ口にするなどの非常に利己的な目的で相手を「利用」しているのに、表面上は自分の責任だけは逃れられるように「相手のため」「必要」等の偽善的なカバー(偽装)をかぶせている。

 これはただの「利用」よりよっぽど悪く醜い、人間として許されないことではないだろうか?
 (鳥類の郭公は自然の摂理の中で当たり前にやっていることで、何もごまかして居らず、ジャイアンの利用と同じことで、当然自ら責任も負っている点で、ここで言う依存、郭公のような生き方をしている人間とは全然違う。郭公の名誉のため)。

 だから私は「利用」と表現するほうが良いと考える。表面上きれいな言葉をまとった利用は「利用してさらに責任まで取らない」ことを意味するに過ぎないのだ。

 これが依存、共依存の本質だ。

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 「利用」という言葉は依存系(ASやAC、依存型ジャイアンなど)の人には大きな抵抗があるようだが、ACから回復して依存に走ることも辞めた本来のジャイアンには実に「自然」ですっきりした表現だ。

 私は「利用の何処がいけないか?」と平気で言っているのだが、その説明を試みよう。

 さて前回までの続きで、生きるか死ぬかの「尊厳」の世界では、表面的な「配慮」とか二面的な「フォロー」などが全て無意味になる。本人の意志を尊重するか、無視するかのギリギリの選択しかない。

 「利他」とは何かを突き詰めて考えれば、「自分で考えた相手のため」というのは悉く「自己満足」でしかありえず、特にASの場合にはどう転んでも「親切の押し売り」的な「支配」にしかならない。(ASはよほど苦労した人で無い限り「自分のやっていることが自己満足で過ぎないのでははないか?」という疑問自体考えないだろうが)

 自己満足を全て去ろうと考えると、最後に残るのは「相手のことを決め付けないで、極端には相手を見さえしないで、相手に関係なく自分の決意と選択だけで自分の責任で関わる」場合に「利他」が可能となるということになる。

 ここまでは私が昔青くさい学生の頃考えた話だが、結局人と人の間に何も見出さないジャイアンには、こういう殺伐とした(しかし責任の明確な)人間関係のイメージしか残らないのだ。

 こういう世界では、実に「利用」しかないということになる。

 「私は利用されることを喜んで選択する」ことはジャイアンにとっては自然に出来る。その代わり相手を利用もする。利用されたく無ければ断れば良いだけのことだ。

 こういう分かりやすい利用と相互利用の関わりに、「愛情」とか「可哀想」とか、別の表現をかぶせる意味があるのだろうか? 本質を覆い隠して責任をあいまいにしたり、実は支配的な押し付けであるのを誤魔化したり、共依存の中で自分の選択なのに責任だけ負わないように逃げたりすること以外に何か意味があるのだろうか?

 という意味で「利用で何が悪いか?」と私は考える。 

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2008.10.17 20:22 |  診療  |  研究  |  その他(医療関連)  |  ADHD関連  |  AS(アスペルガー)関連  |  YANBARU  | 推薦数 : 2

醜さの直視

 私が表面上「高尚」な言葉をなるべく使わないようにしようと考えて居るのは、ジャイアンの得意の「自己正当化」で問題をごまかし見えなくして自分自身をも欺く状態に陥らないためだ。
 ジャイアンの脳が「自己中で自分の欲望だけに忠実な野良猫」で「人を必要とはせず利用する」ことは事実本当のことで、この世間的表面的には「醜さ」である事実を直視することは私は実は「高尚」なことだと考えている。

 このことを高尚で美しい別の言葉で言い換えたら、どんな表現でも直ちに重大な欺瞞となることを理解して欲しい。
 (このように書くことは「居直る」ためでもなんでもない。直視から目をそらし、表面的に高尚な言葉にすがって「否認」に逃げ込みたい人には「不都合な」見解かもしれないが、そういう方はここを閲覧しないほうがいいだろう)。

 こういう直視への努力、潔さなどはジャイアン型ADHDの救いの根拠である「合理的な思考」をフルに使うという意味でもある。「愛情」「哀れみ」などの表面的に高尚な言葉での自己欺瞞は、結局「ジャイアンの優位に立ちたい中心志向」から来る「エゴ」の働きを巧妙に覆い隠している自己正当化、まやかしに過ぎないことが非常に多いのだ。
 さて合理的な思考は、この「自己中な野良猫の事実」の直視から出発する。まず最低この事実を「誤魔化してしまわない」、「見つめ続ける」ことが大事で、その上でこの事実を前提にどのような現実的な努力が可能であるか、冷静に考える作業に移る。
 私はそのためのキーワードとして「尊厳」を考えた。ジャイアンは自己中な一方で一面は厳しい合理的な自己突っ込みにさらされており、ある意味「ずっと思春期」のような感じで、自分の生きている意味や、人とのかかわりなどについて突き詰めて考え続ける。その発想が生きる死ぬかの「尊厳」に近い側面を持っているので、理解しやすいと考えた。
 「自己中な野良猫」から出発した他者とのかかわりについては今後少しずつ展開して行こうと思う。

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2008.10.13 10:43 |  診療  |  研究  |  その他(医療関連)  |  ADHD関連  |  AC、人格障害関連  |  YANBARU  | 推薦数 : 1

言葉とまやかし

 共依存を正当化する周囲の人や自分自身を誤魔化すための言い訳は多彩で、一見するともっともらしいように見える。

 特にジャイアンは一見もっともらしい言い方をされると言葉に騙されて真に受けたり、またこれ幸いと丸投げに乗ってしまったりする。

 例えば「無償の愛」とか、「恋愛」、「(親の面倒を見る)社会的な義務」「まともなコミュニケーション」等、多数派の世界ではある程度共通の理解を得られるあいまいな言葉が共依存を正当化するために使われることが多い。

 私はつとめてこういうあいまいな用語を使わないようにしている。何故なら誤魔化しの世界で議論しても意味が無いからだ。

 言い訳や自分を誤魔化すための用語は排除したほうが良い。

 特に、ジャイアンは「自己中で自分の欲だけに忠実な野良猫のような存在」であり、またASも「どんなに努力しても自分勝手な共依存的で支配的な愛し方しか出来ない」ことは明らかなので、われわれ発達障害が多数派の高尚な言葉を真似することは止めようではないか?

 最低限、例えば「親の責任」と、「人に迷惑をかけないで生きる責任」くらいで、ジャイアンにもASにも、多数派と同じような意味では愛情も恋愛も常識的な社会人となることも全部出来ないことをしっかり見つめて、同じようなことが出来るという幻想を潔く捨てよう。

 大事なことは、自分の脳の働きの現実をしっかり理解すること。だから私は、かなり注意して言葉を選び、「中心志向」とか「非言語的なフォロー」等の自分や人を迷わせない表現を考えてきた。

 逆に言えば、発達障害が多数派の真似事をして「愛情」などを語る場合は、ほとんど自分のエゴや「丸投げ」、「非言語的なフォローへのマタタビ的な依存感情」、「相手の人格を無視した勝手な支配的な決めつけ」を正当化しようとしているのではないかと疑ったほうが良いだろう。

 ASが「感謝」「持ちつ持たれつ」と言葉だけで言っても、「完全には知りえない他者」を前提としないで語られている限り、「そういう口実を用いて支配したい、共依存に引っ張り込みたい」という意味にしかならない。またASであるのに自分を多数派になぞらえるなど自分を理解していないこと甚だしい。 

 これだけ考えても、不用意に多数派の用語を借りるのが如何に危険で、如何に自分の脳の働きのより深い理解に向けて不毛なことであるか 分かるだろう。

 発達障害には高尚な言葉は使えないことを自覚することが大事だ。 

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2008.10.12 11:59 |  診療  |  研究  |  その他(医療関連)  |  ADHD関連  |  AS(アスペルガー)関連  |  YANBARU  | 推薦数 : 1

利他と尊厳②

 前のスレッドで気になるコメントがあり、説明を追加しておくことが必要と考えた。

  「あなたの自由意志で私に尽くしなさい」というのは理解から程遠い大変な誤解で、正反対の意味に受け取られるのは非常に残念だ。

 上記の台詞はジャイアンとは全く逆の受動型ASのシンボルのような表現で、結局「共依存的なベタベタした責任のあいまいな関係しか出来ないところを、さらに自分では責任が取れない」という意味になる。

 もともとのジャイアンの立場は、「関係自体が自発的でなければ不要」ということで、「自分は出かけたいがあなたは出かけるか?」と聞かれて、「行かない」と応えたら当然相手はそのまま一人で出かけなければならない。

 反対に言えばジャイアンに対して相手から自発的に一緒に居たいと言われても断れる可能性が必要で、それが自由意志の保証だ。

 両者が自発的に一緒に居たい意志があり、選択している状態ではじめて一緒に居るということが可能となり、それが無いときは一緒に居ないほうが良いということだ。

 このスタイルが上記の受動型ASとどれほど違うかは少し考えれば分かるだろう。一緒に居ることは結果であって、前提でもなんでもないのだ。

 もっとも依存型ジャイアンは「自分で責任を負わないで相手を最大限利用したい」というために表面上「自発的に自分に尽くせ」というような非言語的なメッセージを出す(様に見える)ことはあるが、(本性はジャイアンであるので)、結局それも本質は「利用のための要求」でしかなく、それ以上の何かがあるを期待すると相手は痛い目に遭うという結果になる。

 つまり、「利用」したいことを表面上隠して非言語的に表現しているだけで、非言語的なあいまいさの中で「利用」以上の何かである可能性を相手は勘違いする可能性はあっても、ジャイアンは露骨なので、そのうち相手も「ただ利用されていただけだ」と気づくことになる。

 ただ「利用で何が悪いか?」と私は考えるのだが。「尊厳」のレベルではそのほうがよっぽど動物的で正直で清清しい。     

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2008.10.09 23:05 |  診療  |  研究  |  その他(医療関連)  |  ADHD関連  |  AC、人格障害関連  |  YANBARU  | 推薦数 : 1

利他と尊厳

 ジャイアンは慰められると傷つく。「配慮」でさえ要らない。こういうジャイアンの心理を理解する一つの方法は「尊厳」を考えることだ。

 「尊厳死」の問題を想像すれば分かると思うが、「尊厳」が問題になる場面では、表面的な優しさや同情などが無意味になるような「真剣」な場面だ。そこでは本人の自己決定権、「自分で自分の人生を決められる」 ことが最大限に大事に、尊重される。これこそがジャイアンが求めているものだ。

 多数派に理解できるように書けば、「年中全ての場合に、尊厳死のような厳密な自己決定権を真剣に問題にし続けている」という表現になるだろう。

 だからジャイアンへの最大の配慮は、「一切ジャイアンのせいにしないで相手が自分の責任で接する」という、「表面的には全く配慮しない」ことになる。

 例えば引きこもっているジャイアンが居たとして、「あなたの引きこもりを解消するために出かけよう」では余計に落ち込ませるだけだ。相手が、「自分は出かけたいがもしもあなたも行きたいなら一緒に行こう」というのが一番うれしい。

 私はこの接し方と共通する場面を二つ知っている。

 一つは思春期を迎え自立していく子供を持った親の立場、もう一つはAddictionの治療スタッフの立場だ。いずれも相手の「自立」「自尊」を尊重し、そのために表面的で薄っぺらな優しさや、自己満足の善意が全く無効になる、人間対人間のギリギリの真剣さが要求される場所である。

 かつて私は最初の大学で図書館にこもり、「利他」とは何かを考え続けたことがある。「利他は自分の自己満足でない」とすれば、結局最後は「相手のことを考えないで自分が自分本位に自分の好きなように接する」ということが「利他」の最低条件ということになる。 

 相手が別の人間として根本的に正確には知りえないことを認め、「決め付けない」という形で尊重することが、厳密な意味で相手の人格を大事にすることになるのだ。   

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2008.10.06 04:30 |  診療  |  研究  |  その他(医療関連)  |  ADHD関連  |  YANBARU  | 推薦数 : 3

ジャイアンの「丸投げ」

 ジャイアンの脳は本来「責任を取りたくない」性質を持つ。

 責任を負うと、うまく行かなかった時に自己突っ込みをしなければならず、また、失敗のときに他者から攻撃されても反論できない。

 だから、(責任を負っていたとしても同じだが)「うまく行かなかった時だけ人のせいにする」という特有のみっともない行動パターンとなる。

 と言いながら、「仕切る」ことは好きなので、ああしろこうしろと口だけ出したりする。うまく行ったときは自分の功績にして自慢したがったりもする。

 自分の子供でさえ、ジャイアンは当たり前の親としての責任を自覚しない。極端には「問題」がなくなると忘れてしまったりする。自分が不安にならないことのほうが優先するので、パートナーでも施設でも、出来ることなら「丸投げ」したいと考え、実際丸投げすることも多い。

 他者の責任逃れには異常に厳しいのに、自分が丸投げしていることについては無頓着で、問題に気づきさえしない。

 この心理が何故だろうと考えているが、結局「自分以外の人は全部関係ない」「利用するかしないかだけ」のような対人関係のドライさが根本にあるからだろう。

 「長男」や「家系」に執着するジャイアンは多いが、それは主に「自分の責任を押し付けられるという意味で利用価値が高い」という意味なのかもしれない。

 書いていて自分でもぞっとしたりもするが、ジャイアンはかくも孤独で、意識的に努力や選択をしない限り、「当たり前」には誰ともつながっていないのだ。

 ジャイアンにとって「丸投げ」はむしろ当然のようにさえ映る。違和感を生じない。

 だからこそ、意識的にこの特徴を自覚して努力し続けるしかない。この意味でも究極のKYであると私は思う。 

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