ジャイアンの中心志向と(積極奇異型)ASの中心志向は非常に良く似ているが、根本的に違う点があり、最近それについて考えている。

 ジャイアンにとっての「中心」とは、「自分こそがそこに立つべき」であり激しく切望しておりながら、「決して実際に立つことはできない、到達できない」という性格を持っている。

 もっと言えば、「到達できた場所は中心たり得ない」ということになり、さらに高い場所を「中心」として追い求めることになる。このプロセスに終わりは無い。つまりジャイアンにとっては中心とはあくまでも「比較の中でのより上位の場所」であるのだ。

 対してASの「中心」は、「自分のこだわり」であり、他者との比較は無関係なことが多い。

 それは、ASにとっては、「もともと世界の中心は自分」であり、逆に「自分が世界の中心から外れていることなどありえない」という基本的な暗黙の前提のようなものが終始確固として存在するからだろう。

 つまりASのとっての中心志向はあくまでも自足的、自己満足的なものであるのだ。

 この違いは重要である。ジャイアンの場合、(表面的であるが)相対的な比較の世界であるので、(前進とは言えなくても、)「常に自分から変化し続ける」ことは可能となる。

 対してASの場合は、「自分から変わる」必要は本来は無い。愛着の対象との関係や社会的な状況によって、現実の姿は変わらざるを得ない場合であっても、「変わったのは表層の現象だけで、本質は何も変わっていない」といった思考が登場して、結局「変化はそれほど無かった」ということになる。

 だから私は、「ADHDは状況(空気)が分からない」のに対して、「ASは状況(空気)を分かろうという気が無い」と考えている。なぜならば自分なりにすでに自分が世界の中心であるという形での「分かった」像があるからであり、「自分が多数派とズレているかもしれない」というような不安になるようなイメージを持つ必要は第一義的には存在しないからだ。 

 (これはもちろん受動型の場合にも、はっきり当てはまる。非常に自己中心的な形で多数派の「空気」とは根本的にズレているのだが、その点は本人にだけ見えないことが多いようだ。「自分が中心」という意味では積極奇異型よりもはるかにAS的であるのだが。) 

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