私は昔英語の授業について「何でアメリカ人の習慣を勉強する必要があるか?」という根本的な疑問を持って英語の勉強をするのに気が進まなかった記憶がある。
発達障害は自分が納得するようにしか生きられない。だから、(言語的に明確に説明された)「意義」や「目的」が必要だ。英語は何のために勉強するか?、そもそも学校がある意味があるのか?、自分がこの世の中にいる意味は? など、多数派の人には思いもよらないことで当たり前に悩む。
運動会は何のためにあるか?、リレーにはどんな意義があるか?、一番になることにどんな意味があるか? 私はぜんぜん意味が分からないままただ言われるままに参加してきたが、もしも事前に私が納得できる意味を説明してくれたら(自分が納得することの重要性にもっと早くに気づき自分で調べるなどしていたら)参加の仕方が全く違ったに違いないと思う。
どうしても勉強に身が入らないときは、何とかして自分自身の興味のあるものと勉強することを無理矢理にでも「イメージ的に結びつける」。
例えば私の場合は「シェークスピアやバーナードショーなどの作品を原語で読める」という風に無理矢理考えて英語の勉強をしていた。
だから発達障害の学童で宿題をしないという場合には、「宿題と言うものが何であるか?」という説明からするべきであると私は思う。逆に考えて、意義も説明されないままに無批判に従える多数派のほうが不思議な気がするとも思えるのだが。
私は小学校の頃50キロあり、肥満児だった。特に腹が出て、中学の時に確か体育の先生から「50(歳)の人の腹」と言われたことを記憶している。(ついでに書くと、ジャイアン母から塩を渡され、縄跳びや毎日風呂で塩で腹をこすることを強要され私も言われたとおりにやっていた)。
最近も運転中の姿勢が悪く、首筋が痛くなったりすることが多かった。一年位前に「猫背のせいだろう」と考えて車のシートの中間に枕状の背もたれをつけて運転中背中を反らすようにして首の痛みは軽減した。
また最近「腸腰筋」のことを調べていて、実際に腸腰筋に力を入れる練習などをしてみて、はっと思いついた。私の腹が出ているのは、「体幹の緊張の不足」という発達障害の特徴で、内臓下垂が起こっているからだと思う。
腰椎から大腿骨を引きつける腸腰筋と、背筋、腹筋が適度に緊張して腰部の姿勢保持が行われる。発達障害は協調運動障害も合併するので、腸腰筋と他の筋とのバランスが取れず、腸腰筋が弛緩すると、骨盤は後傾して、腹は出て内蔵下垂になる。ということが起こっていたのだろう。
ついでに言えば、腹が出ていることと内蔵下垂のために内臓脂肪過多にもなっているように思う。
という訳で最近私は腸腰筋を意識してトレーニングしている。腰椎を大腿骨側に引きつけると、自然な脊椎のカーブが出来て、特に頚の部分に余計な力が入らない感じがする。
こういうことを頭で考えて、一つ一つの筋肉を意識して力を入れることをしないと自動的には出来ないのが協調運動障害である。極端な話、「走り方」「座り方」まで教わらないと出来ないのだ。
これまで私はACについて親の環境だけから説明してきた。すなわち見捨てられ不安を利用した親からの「支配」の結果としてのAC的な認知と行動という説明が中心だった。
しかし他方で、「本人がACにしがみつく」ということも実は頻繁に見かける。これは実はACには本人のほうにも楽(ラク)な、エサ、アメとなる側面があるからであるということが分かってきた。
ACが定着して、多くは母子の間でAC的な共依存関係が確立すると、一種の定常状態となり、そこから外へと抜け出ることが困難となる。それは、簡単に言えば「抜け出る道は不安につながる」からだ。
もともと人は生きていくうえで将来は分からないし、他人の心の中も分からないし、その意味での不安は「当たり前」にあるものだ。
対してACの世界にはこの不安は無い。例えばASの絶対的な「愛着」に支えられることは少なくとも一時的にはAC的な不安を解消するだろう。
子供の頃からこの共依存が当たり前で成長したとすると、AC的共依存から抜け出る道は全て「未知なる大きな不安」に直面することを覚悟せねばならず、ACから回復する、自立すること自体に大きな抵抗が生じることになる。
こうして被害者であるはずの子供の側にも「(支配はされても、人格を否定されても)不安が無い」という楽なエサ、アメを捨てきれない事情が生じるという意味でACは「双方向的」な現象でもあるのだ。
もともと私はリタリンという薬自体が非常に使いにくいと考えていたため、リタリン時代は注意欠陥の症状に3例くらいしか処方はしていなかった。
それが、コンサータを処方するようになってからは、非常に劇的な効果を目の当たりにして、最近は子供のケースでは注意欠陥があれば、とりあえず試してみましょうと勧める感じだ。
私は実は注意欠陥(とその結果としての多動)を伴うASにも、重複診断としてコンサータを処方している。注意欠陥には実際有効で、ただでさえ過敏なASの感性を撹乱するランダムな刺激をある程度交通整理できるので、「ASとしても落ち着く」ということになる。
問題は成人例への適応だ。わざわざ私は東京まで日帰り出張で研修を受けに行ったのだが、その場で質問したが結局成人に処方してよいのかどうかについてははっきりした答えは得られなかった。
そういうわけで最近私は成人ADHD例には「限定3回処方」ということを試みている。
臨時の使用として、限定3回(2週間当たり)の処方で、「脳の働きの違いを確認してもらう」ことが目的だ。
例えば、KYが重症で、「無視されても感じない」ところまで行っているケースは、空気は読めるようにならなくても、周囲の人の態度に何か意味があるというところまで落ち着いて観察できれば、自分の障害について理解が深まるだろう。
これまで成人ケースから私が得た証言は、「大事な情報と大事でない情報が最初から分かれて入ってくる」、「集まりのなかでつまらない話を聞いても無駄口の失言をしないですんだ」、「大時化の海が凪になった」など、主に「不必要な刺激に過剰に反応しなくなった」という効果を確認した。
つまり、限定的な使用で、本人も、周囲の人も、注意欠陥の本質について薬と服用しているときと服用していないときの違いを見て「はっきり分かる」という効果があるのだ。
ただ私は現段階では恒常的な使用については、「何処でやめるか」という依存性の問題と、躁状態や「依存症的な気持ちよさ」との違いの鑑別などの大きな問題について社会的なコンセンサスが必要であろうと思う。
ジャイアンACは反応性にさまざまな病的な状態を呈する。強迫症状や、統合失調症に酷似した被害関係念慮なども見られ、誤診されることも多いだろう。
ある統合失調症と診断されていたジャイアンACのケースで、メジャー(抗精神病薬)をリチウムに完全に入れ替える試みをした結果、抗精神病薬を切る段階で被害妄想的になり、一見「統合失調症は否定できないのか」と思われたが、その後の経過には私にも予想外だった。
本人の判断で以前のメジャーを最低限で調節しながら使いながら経過している間に、自分自身のスタイルに関する振り返りが進み、その結果薬が減った分本人のコントロール能力がアップしつつある。
このことから逆に考えれば、抗精神病薬の作用は、「症状は抑えるが、症状は見かけ上なくなり、また考える能力自体も抑えるために、根本的な解決が全く進まなくなる」ということだった。
本人には表面上は辛いが、病的な症状が出て来るギリギリまで薬を減らして、自分で薬を微調整しながら、症状を本人が自分の力でコントロールすることをさせ続けるのがベストのケアと言えるだろう。
正常な頭の働きを抑えないので、その状態で自分の考え方や生き方への振り返りを行い、厳しい直面化を行いながら、新たな生き方のスタイルを模索する。
その結果ジャイアンAC自体、ACの部分をクリアして、冷静で合理的な自己突込みが復活してくれば、長期的には薬は減らせるだろう。ここが本当の統合失調症と違うところだと私は考える。
もちろんこのプロセスをフォローできる実力のある精神科主治医の下で行うことは最低限の条件だが。
最近「コンサータ」を処方するようになって、劇的に効くケースを目の当たりにして思うことは、「小学校低学年からコンサータをずっと使ったとしたら、思春期時点で成長発達の経過が変わるのではないか」ということだ。
「注意欠陥」およびその結果としての「多動」はコンサータで劇的に良くなる。実際に処方してみて、比較的大きな子供たちからの説明によると、「些細な刺激に過剰に反応して、混乱ないしは気が散ってしまい集中力が安定しない」というのが改善することがコンサータの主な効果で、「23時まで宿題に取り掛かれなかった子が7月中に夏休みの宿題を終えられる」という風に効く。
コンサータの裏返しをADHDと考えれば、注意欠陥の本質はこの刺激への過剰な反応性であり、多動はむしろこの反応性の結果として起こってくるものだとわかる。
さて問題は、「ADHD」とはコンサータで改善されるところの「過剰な反応性による注意欠陥と多動」と同じものと考えて良いのかどうかということだ。
例えば「場当たり的な発想」や、「対人関係での状況理解の困難」といった特徴、および、「本音が本当なら建前は嘘」という過剰な正直さなどの価値観の違いをどう考えるべきかということが重要だ。
なぜなら特に成人例のADHDの「生き辛さ」は主にこの対人関係などの部分に起因することが多いからである。
例えば5歳からコンサータをずっと飲み続けたとしたら、多数派と同じように「空気が読める」ように成長するのか? これは実際に症例を追って見ないと分からないが、今のところ私は懐疑的だ。
もしもこの注意欠陥以外の部分が、ただの注意欠陥の「結果」の「派生的特徴」ではなく、ADHDというひとつの症候群としての障害の部分であるとすれば、ADHDを上記の「コンサータが効く注意欠陥と多動」と同一視することは出来ないことになる。
私がASとの違いにこだわるのはこの点からだ。この意味では、「注意欠陥を伴うAS」とは根本的に違うADHDの概念を考える必要があることになるからだ。
依存型ジャイアンは特有の自分に有利か不利かの「状況を読む能力」を持ち、とりわけ上司の評価に敏感であるので、意外に出世することも多い。
依存型ジャイアンが管理職となった場合、「上と下で評価が全く反対となる」という特有の見掛けを呈することになる。
上司には細かくおどろくほど気配りをして、徹底して気に入られるように振る舞い、「上司からの自分の印象を良くするためには手段を選ばない」という行動をとるため、非常に慧眼の上司以外では、例えば競争にさらされていない公務員の世界などでは、魂胆を見抜かれないことも多い。
特徴的なのは「下からの評価」だ。部下に対してはジャイアン丸出しとなるため、失敗をボロクソに攻撃したり、大勢の前でけなしたり、また努力して実績を上げた部下をわざと評価しなかったりする。
この表面的で妬み深く、「自分のことしか考えない」、「部下の心が傷つくことを全く考えない」というところが(同類ながら寂しい限りだが)非常にジャイアン的であり、巡り巡って上に伝わり、最終的には自分が出世出来ないことが分からない当たりがKYなジャイアンの浅はかさだ。
教育委員会に取り入った校長などの学校関係者、公務員の部長クラス、私の知る限りでは警察の幹部や新聞社の支局長をしていた人も居た。
こういう上司に当たった部下は不幸だ。明らかにみんなこの上司の人間的な問題点を認識しているのに、誰も表立っては口を開かない、その組織ではみんなが仕事への意欲をなくし、組織の風紀が乱れる。
特にADHDのACの部下はこのあまりの不条理に耐え切れず、かと言って反抗することも出来ず、うつ状態やパニック障害、過敏性腸症候群などの病気になることが多い。
こういう事態でも依存型ジャイアン管理職はマイナスのことは部下に責任を擦り付け、自分の表面的な実績が傷つかないことだけを露骨に考え、実行していく。
そう言えば時に部下の受動型ASや依存型ジャイアンが、この依存型ジャイアン管理職にコバンザメのように付き従っている姿も見かけることがある。
ジャイアンの中心志向と(積極奇異型)ASの中心志向は非常に良く似ているが、根本的に違う点があり、最近それについて考えている。
ジャイアンにとっての「中心」とは、「自分こそがそこに立つべき」であり激しく切望しておりながら、「決して実際に立つことはできない、到達できない」という性格を持っている。
もっと言えば、「到達できた場所は中心たり得ない」ということになり、さらに高い場所を「中心」として追い求めることになる。このプロセスに終わりは無い。つまりジャイアンにとっては中心とはあくまでも「比較の中でのより上位の場所」であるのだ。
対してASの「中心」は、「自分のこだわり」であり、他者との比較は無関係なことが多い。
それは、ASにとっては、「もともと世界の中心は自分」であり、逆に「自分が世界の中心から外れていることなどありえない」という基本的な暗黙の前提のようなものが終始確固として存在するからだろう。
つまりASのとっての中心志向はあくまでも自足的、自己満足的なものであるのだ。
この違いは重要である。ジャイアンの場合、(表面的であるが)相対的な比較の世界であるので、(前進とは言えなくても、)「常に自分から変化し続ける」ことは可能となる。
対してASの場合は、「自分から変わる」必要は本来は無い。愛着の対象との関係や社会的な状況によって、現実の姿は変わらざるを得ない場合であっても、「変わったのは表層の現象だけで、本質は何も変わっていない」といった思考が登場して、結局「変化はそれほど無かった」ということになる。
だから私は、「ADHDは状況(空気)が分からない」のに対して、「ASは状況(空気)を分かろうという気が無い」と考えている。なぜならば自分なりにすでに自分が世界の中心であるという形での「分かった」像があるからであり、「自分が多数派とズレているかもしれない」というような不安になるようなイメージを持つ必要は第一義的には存在しないからだ。
(これはもちろん受動型の場合にも、はっきり当てはまる。非常に自己中心的な形で多数派の「空気」とは根本的にズレているのだが、その点は本人にだけ見えないことが多いようだ。「自分が中心」という意味では積極奇異型よりもはるかにAS的であるのだが。)
注意欠陥と多動を伴うASの一群がいることは臨床的には明らかで、発達障害を見慣れない医療関係者には表面上の診断に困るケースだろう。
こういうケースと、自閉的な特徴をたくさん持ったジャイアンをどう分類するかについて私はずっと考え続けてきた。このことはこのブログをお読みの人には良く分かるはずだ。
さて多動を伴うASには普通のASの人に加えてさらに困難なストレスが加わる。つまり、「自分自身が落ち着きが無いためにこだわりを実現できない」ということだ。
堅い保守的なASの人は努力の結果も含めかなりの程度、「後悔するなら初めからやるな」という徹底的な時間的継続性、一貫性の世界で生きることが可能だろう。しかし多動を伴うASの人は自らそれを破壊し続けるために、こだわりの部分ではストレスが生じ続けることになる。
また、感覚過敏の部分でも、ADHD的に情報が無差別に雑多な状態で飛び込んでくるので、耐えられないノイズになることが多くなる結果となる。
こういうケース(学童か思春期まで)にコンサータを使うと、本質はASであっても非常に有効である。「本来のASとしての一貫性と過敏性に立ち戻れる」という結果になるからだ。
さて自閉的な特徴を備えたジャイアンとの鑑別であるが、これは私がASの根幹と考える「関連付け志向」とその結果である「全てを説明し尽くしたい認知」、また「人が非常に近く感じられる」特徴の部分ではっきり分けられる。
ジャイアンは根本的に場当たり的であり、過集中の一時を除き関連付けとは正反対の「これはこれ、あれはあれ」という断片的な思考であり、また「人を必要としない」。
もう一つ二刀流のASと一刀流のジャイアンという違いも重要だろう。
少なくとも学童の場合にはADHDと同様にコンサータは有効であるようだ。ASの本体のところには効かないが、ASの本体に反する部分を改善する働きがあるというところが面白い。
私は自分が死んだほうが良いのかと考えたとき、「これまで殺してきた動物」のことを考えることにしている。
(さすがに結婚後は家族への責任のことを先に考えるが)
毎日のように、鳥や豚や魚を殺して食べてきているわけで、この事実は消えない。子供の頃に飼い切れないで殺した虫や海の生物も多かった。血を吸いに来た蚊も数え切れないくらいにつぶしてきた。高速道路で走ればトンボがフロントガラスにぶつかって死んで行く。
私の人生に関わって死んで行った生命を「関係ない」「当たり前」とは言えないだろう。中途半端に死んだら、食べてきた、殺してきた動物や植物などの「生命」に対して申し訳が立たない。
誰も「手が全く汚れていない」人などいないと私は思う。
違うのは、「そのことを自覚しているかどうか」だろう。
時に私も過集中で自己正当化の木に上ってしまうことはあるが、大事なことは、その後で自分自身の立場について考え直すことだ。
単純にこれまで食べて殺してきた生命のことを思い出すだけでも、自分の人生にベストを尽くすしかないという結論は導き出せる。食べてきたことだけでも、私にとってはどんなに何を埋め合わせしても埋めきれないような負い目だ。
社会的に迷惑をかけてきたことはなおさらのこと。
私が最後に取り出す「究極の自己突っ込み」だ。
生き続けることは責任であり、その場その場でベストを尽くし続けることしか出来ない。
どんな理由があろうと、死ぬことを人のせいにするのは根本的な無責任であると私は思う。
ジャイアンはその「中心志向」のために意識して努力し続けないと万能の神になったような気になってしまう。
その中心志向を「反証」し続ける努力が必要だ。自己突っ込みはそのために役に立つプラスの努力となりうる。
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