言語的な表現と非言語的な表現の両方を使うか片方だけを使うかを「二刀流か一刀流か」と呼ぶことにしよう。脳の働きは多くのASは二刀流であり、依存型以外のジャイアンは極端な一刀流である。
依存型として非言語的な技術を研ぎ澄ます経過を経なかったジャイアンの多くはKY(状況理解の不足)の弱点を突かれて多かれ少なかれからかわれたり馬鹿にされたりして成長する。
その中では、表面上は分からないような形で非言語的な表現で突き落とされたりする体験を重ねる。そのうち多くの場合は「後で気が付く」形となり、「だまされた」というショックと見抜けなかった自分自身への情けなさの両方で落ち込む。
その結果、自分に向けられた言語的な表現と非言語的な表現が少しでも食い違うと、「まただまされるか」という警戒のプロセスが稼動し、「常に本心を確認しないとひどい目に遭う」という自己防衛行動に出る。
これが依存型でないジャイアンが極端に二刀流を嫌う理由であると私は考える。
多数派ははじめから建前と本音の世界なので、ジャイアンははじめから警戒して信用しない。
ASはASの発言や表面的な行動の上では一見「表ウラはない」様に見える。非常に正直で、二刀流のだまし討ちを食らうことは少ないとつい信用してしまう。
ところが実際はASは非常に情緒的で、口で言う理屈と行動は食い違うことも多く、実は二刀流の世界の住人だった。
二刀流が当たり前の世界からはジャイアンは幼稚に見えることだろう。
逆に一刀流こそという世界では二刀流は卑怯な技という風に見えることになる。
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コメント
コメント一覧
父はおそらくAS
普段から非常に理屈っぽくまっとうなことをいっているように聞こえる(聞こえた?)ので信用していました
父が私に常々言っていたのが
自分に厳しく 他人に甘くです
私はそれを信じていきてきました
つまりAS父は己の行動もその言った言葉と一致させていきているんだろうと
しかしある時気がつきました
父はASらしく、その深い意味に関係なくしつけらしいことを言ってみただけであり、父自身は自分に甘い。私に甘えられて面倒なことになるのを避ける為に言ったのではないか?と。
先日家の電話会社を変えました
発信方法等変わり、父はASらしく教えたがりモードになりました。が、
「携帯にかけるのどうしたらいいの?」
と質問した所であっさり陥落
「え?携帯?相手が携帯なの?」
と明らかにわからない様子。
聞く時間がもったいないのでかけてみて無事かかり終了。
私に言わせれば甘い!以外の何者でもないです。
父には私のことがわかりづらいらしく、孫を見て学び直しています(笑)
それはジャイアン母にワガママ言うなと私が押さえられ自己主張を家でしなくなったからでもありますけど。
その意味でADHD者は、裏表の無いとても気持ちの良い人々です。
私は(多分ASは)己が思う、そうありたい、そうあるべきと言う姿を口にしてしまいます。人によっては、場合によっては、気持ちの上でそれになりきっているかも知れません。でも、そこに到達できていない己の姿ってのが当然ですがあります。そのズレ(人によって自己認識できていたり、できていなかったり)が、ADHD者には言うこととやる事が違う、と映ると思います。
多数派が自己の利益の為に二刀を振るうのに対して、ASは一刀しか使ってないつもりです。もちろん、AS本人も気が付いていない2つ目の刀にバッサリと切られてしまうADHD者が居ることは想像できます。
>くららさん
私の想像ですが、お父様はきっと「甘えられると面倒」とか、そんな深いことを考えていません。「自分に厳しく 他人に甘く」が正しいと思っているだけです。そして、そこに到達できてない不完全な人間(失礼)ってだけです。
今更ですが、元々の脳のつくりに親の性格を含めた生育環境、それに本人の
知能なんかが影響しあって人格形成されると思うので、
合理的な親(自己がしっかりしていて)が愛情たっぷり育て
それなりに能力が高く自己肯定感も充足されている子供なら、
そう育つかな?
ただし幼児期の多動や気性の激しさなど、養育困難な事いっぱい。
精神的にタフで安定している親でないと、
容易に負のサイクルにはまってしまう。
依存型になってしまうのが多いと思いますが、親も発達障害だったり
世間体を気にする一般的な多数派だとしたら、仕方ないのでは…
(と、自分に甘い)
その依存性が重度であるときついですね。
子供には責任はなかったのに。
一刀流…子供の頃のやんばる先生をギュッと抱きしめてあげたい気分です。
先生は怒るかもしれませんが、あえて。この甘さが依存性をうむ?
うう、今回も痛いです。
あれは私が10代の頃。バイト先で(おそらくAS)男性といいムードになりました。淡い付き合いでしたがラブラブでした。
ところが、そこに後から入って来たのが、明らかにADHDと思われる「片づけられない」女性。愛嬌があって男受けはすこぶるいいんですが、ウラオモテがあるのが気になった・・・しかし、仲良くなって彼女の家にまで遊びに行ってました。
ところが。しばらくもしない内、私の目をくらましてAS男性とこの依存型ADHDがデキちゃったんです。
「もう人間なんて信用できない」とまで思い、10日位家でふて寝してました。(>_<)
私は生育環境は『人種の坩堝』で、学校は国籍・文化・言語・環境も様々な『民族の集まり』でした。その中でも日本人は私を含め全校で二人だけという、文化的にも言語的にも「超少数派」の立場にいました。
多種多様な民族が集まってるだけに、そこでは日本(単一民族内)で普通に行われているような二刀流は存在しませんでした。故に『二刀流を学ぶ』事もありませんでした。私も見た目はどこから見ても日本人ですから、帰国すると二刀流を出遅れて学ばなくてはならず結構苦労しましたよ。『はっきり言いすぎ』で傷つかれちゃったりもしました。最初の頃は『そういうのわからないから言って』と周りに聞き返してばかりいましたね。それから十数年『まりは二刀流向きではい』というのが定着した気がします。おかげで助かっています。
一刀も二刀も両党も何刀も構いませんが、流派が合うか合わないかでその人との距離間が調整されるんだと思います。
私個人は ジャイアンに「一刀流」で鮮やかに斬られると ハイ参りましたって感じで 傷の治りも早い。AC「二刀流」は、だまし討ち故 間合いが近いので傷が深く、二本の刃故 傷が増える。
私"依存型ジャイアン"は、ジャイアンの本能から「一刀流」をめざすものの、依存性からか 慣れない「二刀流」を使って、周囲に迷惑・誤解を振りまいて 非難されるか 自己突っ込みにはまる。
「一刀流」の率直さ 鮮やかさが 好きです。
なるほど、そういう環境では、「違いを知る=理解」以外にありえませんね・・
私の家は、まりさんほど極端ではなかったものの、父方は純系日本人でしたが、母方は4代続いたクリスチャンで、特に母方祖母(ASと思われる)は、カナダの宣教師に育てられた経歴の持ち主でした・・・
だから、小さい時から「とにかく言語化しないと、”親子”であろうが”夫婦”であろうが何も伝わらない」というのが無言の前提の家庭環境であった気がします。
たとえば、早い話、母は嫁入りの時の銀食器をいつまでも使っていたけど、ご飯茶碗を各自のを揃える、という事を知らなくて、私が大分大きくなるまで西洋流で全部同じ種類の茶碗をそのつど洗って全員で使いまわしてました。(父が、「やめてくれ」と言い出すまで。)
夕食後なんかも、常に家族全員でがちゃがちゃと論議してましたね。みかんを剥いて、ホームドラマを全員でこたつで見るという雰囲気はあまりなかったです。
だから、やっぱ今、「二刀流」のヘルパーさんといるとかなり大変です・・・どうしてもどこかで「一刀流」で喋りたくなるんですよね、付き合わせてすみませんです。<m(__)m>
前にも話した私の身近なジャイアンさんは、
発信は極端な一刀流
受信は極端な二刀流
です。
受信の際に(騙されてたまるか!という反応なのかは不明ですが)裏の二刀目があると決めつけてるようで、それには必ずネガティブな解釈をして攻撃に入るという、自己認知が歪んでいるACボーダー様の反応をします。
裏が無いつもりで話してる人には「不意打ち」になりますす。
彼女のこの発信と受信の矛盾が、「私は私、他人も私!」に深く関係しているように思いました。
おっと、これはうちも一緒でしたよ。というか、むーんさんのコメント読むまで「揃えるもの」と知りませんでした。ご飯茶碗は売ってませんでしたので。。。同じ種類の物を、どれが誰のかわからず、気にもせず使ってました。帰国してからもそうでしたね。初の私専用ご飯茶碗は、高校のとき納豆ご飯を食べるのに大き目のがほしくて自分で買いに行ったときのですね。現在では実家で父の物となりましたが。箸も、専用じゃなくても私はあまり気になりません。親戚宅でお箸を借りようとして「それ私の」と言われてから、他所では使う前に聞くようになりました。
話がそれてすみません。
二刀流のヘルパーさんだけど一刀流も平気かもしれないですよ。試してみるのはどうでしょうか?
そして私は懐疑心がとても強いです。
一刀流か二刀流かは気を許せる相手かどうかの大事なポイントです。
二刀流でしかも腹黒い人は一刀流の単純さにつけこんで利用しているようにみえる。
つけこまれないように一本しかない刀を毎日真剣に研いでます。
あとは”おばさん”という分厚い鎧を身に着ければもう怖いもの無しですね~。
まさに、私はこの負のサイクルにはまっていましたね・・・。やっと暗中模索から最近抜け出して、母子とも安定してきましたが。
息子は4歳時点で発達検査で「ADHDでもASでもない」という見解をもらいましたが、それでも、「多動や気性の激しさ」(例・いつも歩かず小走りしている、目をちょっと離すと姿が消えるので外出時の私は非常に緊張して疲れ果てる、彼自身のイメージと異なるスケジュールだと頑固に反抗する、等々たくさん)によって、母親の私は「命を削っている」としか思えなかったし、芯から疲労困憊でした。母乳もしつこく要求して、3歳半まで3時間おきに夜中に目を覚まし授乳しないと寝付かないので、私は4年近く連続したまとまった睡眠がとれず、心身ともに壊れていました。ジャイアン夫の世話は「大人なんだから自分のことは自分でやってくれ」と放任するしかなかったです、自分が死ぬと思いましたから。それほどしんどい子育てでした。
(次に続きます)
なので、よくある雑誌やマスメディアなどの『子育てってハッピー♪、女性の幸せ、こんなに素晴らしい』的なものを目にするたび、「ケッ」と思い、周囲の、子育て楽しいのなんて言ってすぐ第二子を妊娠する姿に「あり得ない・・・」と心の中で絶句。自分が悪いのか?おかしいのか?なんでうちの子はこんなにしんどいのだろうか?と悩む日々。
親子共倒れ一歩手前だったのかもしれません。危ういところでジャイアン夫の動乱のせいで「災い転じて福となす」じゃないですが、狂った歯車を修正できたのですが。
母親が健康で精神的に安定していること、使い古されシンプルなこのセオリーは、本当に、子育ての核心なんだと思います。たとえ何かの脳の傾向を持って産まれてきたとしても、いくつもの枝分かれの末に、人生を楽しんで謳歌できるようになる可能性を信じたいです。
幼児の発達障害の支援には、幼児本人と同列に、母親の支援がキーだと思います。
一刀流・二刀流からはズレたことを書いてしまいましたが、子どもは元々一刀流ですよね。周囲の大人の言動をみながら二刀流を身に着けるわけで、周囲が一刀流ばかりならば一刀流のままでしょう。環境が大きく影響しますね。
そんな身体の母に追い討ちをかけるように私がいうことをきかないADHDでやかましく学校からは「着席しない」や「外で運動する時間に本に夢中になりいくら教室をでるよういっても出ません」と学校に呼び出され、友人から「あなたの育て方が悪い」と。。
弟は・・学力が遅れ特殊な教育を受けるまではいかないが猛勉強させてもクラスでビリで担任の先生から「のろい」「もっと勉強させてください」との呼び出し。ちなみに弟は家では半径3メーターから母がいないと感情が制御できずに泣き喚き怪我をする・・あんな弱い身体でモンスター2人を育てるのはとっても大変だったと思います。余裕なんてあるわけないのです。
母自身発達障害だったと思われるので、「健康で安定している」という両方が大きく欠けた中での子育ては過酷を極めたと思います。前回の「突き落としと共依存」ではないですが、母はもし健康で、今のように支援センターなどを活用でき誰かの援助を受けられたら、もうすこし子供に余裕をもって接せられたのかな・・と感じます。
ちなみに発信は1刀流、受信は2刀流を身につけたと思われる
私は最初に友を選ぶとき1刀流の人を選びます。だいたい和気あいあいと平和に暮らせるのですが・・
たまに現在のように選べなくなり周りを2刀流で囲まれた時が一番厄介です。
なるほど・・・私もこんな息苦しさ、感じていたのかも、と思いました。
発信→一刀流or二刀流
受信→一刀流or二刀流
それのどれかを組み合わせて、なんとかしようとジタバタしているうちに、自分が身に付けてきたものすらわからなくなって、しまいにはどういう環境にいるのがラクなのか
わかっていてもその感情は正当? 不当??みたいな・・。
まりさんの生育環境を読ませてもらって、そういう環境では、「違いを知る=理解」となったのが、なるほど・・・とむーんさん同様、私も思いました。
そして、「人種の坩堝」とまではいかないけれど、自分が上記のように
“下手なジタバタをしなかったときが過去にあったよなぁ~”
と記憶をほじくってみたところ、昔、バイト先の配達でインターナショナル スクールの先生へ、花束を届けに行った時のことを思い出しました。
私のは単発的でまりさんの生育環境での体験とは全く違いますが、はじめは「エライところに来てしまった!!」と思ったものの、
ザーッと見て日本人がいないとわかると、自分の発信・受信がどうだの、こうだのいう余裕も、そしてその気もなく、
お花を渡した先生の笑顔だったり、しどろもどろで伝票にサインをもらったりして、そこがどんどんラクな環境へと変わってきていくような感じがしていました。
ここで感じたラクさは、ジタバタを放棄しただけの楽さだったかもしれませんけど。
他人と自分が違って当然・・・を感じようとして感じたのではなかった状況でした。
人間距離で四苦八苦・・・ 今でも尾を引いているのはみてのとおりですが(笑)。
“下手なジタバタをしなかったときが過去にあったよなぁ~”
と記憶をほじくってみたところ
私の場合、(現在進行形なのですが)実の弟といるより安らぐのは、実は在日韓国人の親友といる時です・・・
彼女は全くの一刀流。相手が偉かろうが怖がろうが、下手な二刀流は全く使いません。当然、日本社会からは私以上に(同じ位?)「浮いてるな」と思うことはあるけど、一緒にいて本音をずばずば言ってくれて、思いやりもあります。私を気に入らない時は「気に入らない」とはっきり電話でも言います。・・・
PS;ちなみに、私は受信も(バーチャルではともかく)リアルでは完全な一刀流なので、遠まわしに嫌われてもほけーとしているため、彼女の存在はなおの事貴重です。
しかし、高校で一緒だった中国人の友人(クォーターでしたが)には、彼女独特の「二刀流」があって、最初は仲よかったけど、徐々に疎遠になりました。
(日本人の「二刀流」と若干違うんだけれども。)
日本以外の大陸系なら全部一刀流かというと、どうも違うみたいです。
まりさんのコメントを読んで、インターナショナル スクールでの出来事を思い出して書き込みをして、日本(日本人)に限定して考えているのはなぜだろう??と自分にギモンが沸いてきました。他国籍の友人がいたなら、どう??と。
化学物質に過敏症が出始めて、新車には到底乗れないと悟り、中古車を選ぶとき、
エコ先進国というイメージがあったのでドイツ車なら安心かも?と、はじめて左ハンドルの車を運転した時の、
あの「全然、こっちのほうがラク!!」という感触が対人にもいえるのだろうか??と。
あいにく、今までの私の人生では、友人と呼べる「ガイジンさん」はいなかった。
いなかったけれど、好きだった(笑)。
またも、過去の記憶をほじると、JICA=ジャイカ(国際協力機構)へ行くと、必ず「ガイジンさんと目が合った時、むやみに微笑むな!」と注意されていた。
どうも、お友だちになりたかったんだろうなぁ・・・・私。
この先もジタバタのクセが抜けない自分なら、ジタバタすら出来ない環境をどこかに作ってみる・・・というのも、ありかもしれません。
追記
送信しようとしてみたら、(つづき)のコメント、あり。
んん~~、なるほど、微妙(笑)。
確かに、韓国の方は、喜怒哀楽もしっかり表現する人が多いように思うので、そういうところが、一刀流っぽいのかな??
ありがとうございます
私がAS父の裏読みしすぎかもです
でもその位ADHDにはASの本心がわかりません。
特に言っていることとやっていることが違う、とわかってからは常に何考えているんだろう?です。
みなさん外国人の話してますが
私のフランス人の先生は
「あなたの先生はなんて偉いんだ。花束を送ってあげたい!」
といいました
本心は花束は社交辞令です。
私の先生には
「フランス人のいうことを真にうけてはだめよ。4分の1位に思っておきなさい」
と言われました
今音楽の世界にどっぷりですがそうすると音楽だけで会話が成立してしまう為、普通の人との会話が大変です
一々言語化しないとわからない相手
何言ってるんだか意味不明な相手。
日本にいながら外国人気分です
私にとってもはや刀もいらない(音楽で会話)にも関わらず、普段は刀を持たされ、相手は二刀流。
かないません。
>ところが実際はASは非常に情緒的で、口で言う理屈と行動は食い違うことも多く、実は二刀流の世界の住人だった。
いつまで元彼ネタ出してんだ、という気はしますが・・・
私が、最初彼のAC矯正教育、なるものを全くバカにしていて、「ACはACでいいじゃん。働かなければ働かないでいいじゃん」と滅茶な方針で構えていた頃の方が、頭痛が少なかったし、
彼も私をそれなりに一人の人格として、大事にしていたような気も正直します。
彼の「建前」通り、ミーティングに真面目に通いだしてから話がおかしくなって来た。
その頃、多数派の友人が言うには、「障害者は障害者のままで結婚する権利もあると思うよ・・・車椅子で家事が出来ないけど結婚した親戚もいる。」と、私にさりげなく忠告してくれたのを今も思い出す・・・
ここの主旨からは、外れた内容に(あるいは)なってしまうかも知れないけど、私が「発達障害ゆえの未熟と孤独さ」を抱えたままで、あえて「出来ないものは出来ない」と轟然と構えていた方が、彼の「本音」としては楽だし、私もプライドを捨てないで済んだかも知れないです・・・
もちろん、外にろくな挨拶は出来ない、もちろん家事も出来ない、彼に「依存」というより「おぶさりっぱなし」の妻になっていたと思うけど・・・
でも創作活動は出来ていたかも。
何が言いたいのかよく分からなくなって来ましたが、何をどこまで「治す」事が、発達障害にとって幸せなんだろうなぁと思います。
「外国人」に関してのコメントを頂いたおかげで
・過剰な一般化・・・“多数派が単一民族の集まり”と認識していた時と同じように、“外国人”という1つの大枠でものを見て書いていると。
・変にはしょりをする・・・これはもう、リアルの世界ではしょっ中なんですが(笑)、特に疲れているときや朝、ボーッとしている時とか。
インターナショナル スクールでの出来事も「人種の坩堝」で感じたことがズッボリ抜けています。
このはしょるくせは(ここから先は言い訳 笑)
昔、「作詞」をしていたことがあって(今はお休み中)、音符に言葉を乗せるときに、どうしても字脚を揃えてはめ込むので、行間が広くなる。
私は受講したことはないけれど、1冊の本を1曲にせよ・・というような課題もあるのだとか。
脚本家が「二割書いて八割は相手(視聴者)に感じてもらう難しさ」が・・と言っていたけれど、そういうパターンで会話をしようとするクセがつくと、会話自体が成立しにくい。
でも、はしょり癖を「全表現」に変更するとすごくクドイ!!(笑)。
長文の嵐になると思う。
勝手に暴走して、自身のコメントの補足を。
つづく・・・
「ジタバタを放棄したラクさ」は確かにあったのですが、それだけだったら、単にガイジンさんと接した時に感じていると思うのだけれど、あそこで感じたものは、またちょっと違っていた。
廊下に貼り出されていた絵や作文は日本語だったり英語だったり・・・
でも、ミミズが這ったような字だったから、たいして変わらないな・・・(笑)とか、
放課後の時間だったので、子供たちが居残って遊んでいたのだけれど、たぶんメインの言語は英語だろうけど、時々、よくわからない言葉が飛び交う・・
日本の子供たちと同じような遊びをしていたんだろうけど、言語や人種がバラバラだと、見える風景も違って感じる・・・でもみんな、楽しそう・・。
そんな光景の描写を経て
>他人と自分が違って当然・・・を感じようとして感じたのではなかった状況でした。
と続いていった。
「日本枠」と「世界枠」 「国内基準」と「国際基準」、そんな空気の違いでした。
ついでに、JICA(ジャイカ)の注意も、時と場所が「昼間とジャイカの建物内」だからいいけど、夜で別の場所なら、若い女性がにっこり微笑めば、“お誘い”になるから気をつけろ!ということを書くつもりでした(笑)。
AC外しは、思ったこと、感じたことをまず、外に表現すること(筋道たてて)・・・らしいけれど、確かにそうしていく中で、見えてくるものが、たくさんありそうです。
筋道立っていないけど・・。(笑)
私の身近での話になりますが、
受信が二刀流のジャイアンさんは「防衛」「攻撃」の発信の際は二刀流(かそれ以上)になっています。が、そのときは本人は全くそれに気付いていません。世の中二刀流が存在する事も、自分もときにそうである事を知っていて、自己突っ込みをします。
AS同僚君は、「世の中は一刀流しかない」という前提があって、他人の二刀流及び自分の隠れた二刀流の存在を察知せず、それに出くわしたときに『困惑する(攻撃ではない)』という風に見えます。
ボーダーさんは、受信も発信も相手が近かろうが遠かろうが二刀流でした。本人いわく自分の二刀目を察知してほしい(=理解)という願望があったと。
モラハラDVジャイアンにいたっては錆びた刀も欠けた刀も無差別に自分の都合で使いますが、やはり本人だけは気付いていません。利用はするが利用されることは許せない。自分が一刀流のライオンだと思い込んで疑わず、自己突っ込みも無い。
ピーターパン君(ADHDか不明)は、何処に誰といようが一刀流の明るいライオン「シンバ」。弱い物いじめも不意打ちもしない。自分の信念に基づき困ってる人は助ける。相手の不意打ちを見破り指摘する事はあるが拘らない。過去の自分には自己突込みが入る。
ACでないジャイアンは存在しないのではないかという疑問が以前から私の中にあります。『防衛転じた攻撃性』というのは、多数派少数派の枠を超えて、ACの度合いとACの自覚の度合いで差異が生じてるように思えます。もちろん、元が多数派か少数派かという別で結果に違いがあるというのはわかるのですが。。。
そこからむーんさんの
>何をどこまで「治す」事が
ということに繋がっていく訳なんですよね...一番難しい。
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