受動型ASは依存が受け入れられないときに自傷行為をすることがお決まりのように良く見られる。(依存型ジャイアンでも、いわゆるACや境界例と言われる人にも、要は依存パターンが存在するところには同様に良く見られる)。
この自傷は「自分の不安はこれくらい大きいことを身をもって伝えたい」というアピールであって、本気の自殺企図とはかなり異質な行動である(受動型ASは自分から本気で死ぬことも少ないと私は考える。良く見られるのは愛着の対象に殺してくれと頼む図だ)。
思春期のケースの親や、パートナーの立場からするとこれほど精神的に揺さぶられる状況は無いだろう。自殺をちらつかせた最も効果的な責任ある保護者への脅しであり、「依存をさせ続けろ」と強要する強烈なメッセージともなりうる。
私はもともと「人格障害」を専門にしようと考えていた医師であり、自傷についてはずっと考え続けてきた。
私の対処の方法は、「何か訴えたいことがあるのであれば、言葉で言いなさい」という方法だ。言葉で表現すれば一生懸命に聴く態度を示し、他方で「自傷のような意味の分からない行動では何も変わらない」ことを周囲の全ての関係者がドライに本人に対して行動で示すのが一番大事なことだ。
具体的には、かすり傷程度なら「これくらいなら大したことは無い」「死ぬことは無いよ」と冷静に説明し、縫合の必要の無いケースは淡々と消毒を指示し、縫合の必要なケースは外科の先生にお願いして、外科用のホッチキスでガッチャンと止めてもらう。
このホッチキスの利点は3つある。①「糸のように上からまた切れない」、②「傷の直りが比較的綺麗」、③「縫合のように丁寧に大事に対応されたという感じに欠ける」。「あなたのように自分で自分を傷つける人はこれだよ」とでも言いながらやってもらうのがベストだ。保険も適用しないで実費で処置費を取る先生も居られる。
一番やってはならない対応は、「大騒ぎして、その後周囲の人の態度が一変して本人の言いなりになる」というパターンだ。これをしたら最後、「要求が通らないと毎回でも自傷する」という悪循環に嵌ることになる。
これは情緒の問題ではない。何よりも「本人のためにならない」という合理的な判断で関係者全員が統一し、医師の判断のもと(本物の自殺企図との鑑別は医師の責任で行うしかない)、周囲が決して振り回されないように一貫して徹底した態度を一切変えないで続ける。
片方で前向きに本人が努力して認められる道を示し続けながらこの「逃げ道を封鎖する」方式を実践できれば、自傷のパターンは治療は可能となる。
関係者、特に親やパートナーの「度胸」「忍耐力」「本人に向かい合う真剣さ」がストレートに問われる場面である。関係者(特に医者)の側に少しでも正対できない弱さがあると、見事にそこに付け込まれる。
これが私がプロとして行っている治療の世界だ。
受動型ASの育て方に関して、(依存型ジャイアンの場合も似ているが)、大事なポイントは、「精神的にはサポートしつつも現実的な苦労をするのを妨げない」ということが重要だと思う。
例えば「本人の考えをきちんと聞き、合理的にきちんと是々非々の説明を続ける」とか、「本人が自分で努力したときにきちんと誉める」とかの、「理解」や「努力の評価」の精神的なサポートが一番大事であって、出来なかったときの気休めとか、辛いときのねぎらいなどの一般的に言われる情緒的な優しさは、下手をすると「共依存の誘惑」になりかねない。(特に子供がジャイアンの場合は注意が必要だ)。
受動型ASは小さい頃から、「愛着の対象が全て理解して、全てやってくれるのが当たり前」という認知を持っているので、「優しさ」は、その歪んだ生来の共依存的な認知を助長するものにしかならないだろう。(ジャイアンの場合はもっと露骨に利用出来るかどうかを見ているので、この場合も同様だ)。
現実には「愛着の対象が全て理解してくれて、全てやってくれる」などありえない。大人になっても、性懲りも無く、そういう依存相手を探し続ける空しい努力を続ける受動型ASが多いのは悲しい現実だ。
それは甘やかして尻拭いしてきた親の責任でもあると私は思う。受動型ASと分かった時点から、「現実的な苦労」をさせることは最低限必要で、特に経済的な自立、社会的に仕事を持つようにすることについては決して甘やかすことをせず、厳しく育てることが重要だ。
受動型AS本人には面白くは無いだろう。しかし大人になっても共依存の相手を探して空しい努力を続ける人生という結果になるよりは、子供のときに「自分で動くしかない」ことを自己責任の環境下で厳しくされることで身に着けることのほうがトータルの苦しみは少ないと私は思う。
何よりも、ジャイアンなり積極奇異型ASなり、(もしかすると多数派でも)に尽くしながら安定した関係を長期に維持することが可能となるからだ。(ごく稀な例外としては、飛びぬけた才能や特殊能力にジャイアンがブランド志向で惹かれる場合があることはある)。
「自分で動かない」スタイルのままで共依存の生き方をすると、「相手を病気にするウィルス」にしかなれない。これが受動型ASの厳しい現実だ。そのために必要なことは、情緒的に甘くせず、現実の責任は全て自己責任として尻拭いは一切せず、合理的な助言指導を続けるということになる。
結局合理的なADHDがすることそのままになるのが面白い。
私は受動型ASケアにはずっと悩み続けてきたが、最近やっと一つイメージが浮かんだので記しておこう。
受動型ASの基本発想は「共依存」だが、私は次のように考える。
「必要とされることが必要」 + 「自分からは動かない」 = 「共依存」(郭公の雛的生き方) という図式だ。
つまり「必要とされることが必要」だけではウィルスのように寄生しなければ生きられないスタイルは帰結しない。第二項の「自分からは動かない」という部分が問題なのだ。
「自分からは決して電話しない」とか、「必ず愛着の対象を動かすように非言語的な手段を使いまくる」という受動型ASの周囲にとって困った行動は、私は養育環境によって変化しうると思う。
例えば、私の知る受動型ASの人で、ジャイアンとカップルで結果的にうまく行っている人もいるのだが、その人の養育環境は、「親が早く亡くなり、弟や妹の学費を稼いで、世話もしてきた」というものだった。
これは「必要とされることの必要」の状況だが、ウィルス化する共依存型受動型ASとの違いは、「自分が動いて生きていくしかなかった」ということだ。
「自分で動く」限り、行動の形で責任は取っているので、ジャイアンとの共存は可能だと私は思う。(ただジャイアン側からは「利用」に近い形になるとは思うが)
だから共依存ウィルス型の受動型ASは結局「甘やかされた」経過の帰結なのだろう。愛着の対象である親が共依存的なあり方を許して、身に付けさせてしまった結果、「自分で動かなくて良い」というスタイルが出来上がったのだろう。
受動型ASの一つのケアは、「現実的にどんどん厳しい状況に追い込む」という方針だ。愛着の対象からはどんどん遠ざけて、だれも尻拭いをせず、本人が周囲の人を絶対に振り回せないような環境を作り、徹底した自己責任の原則で育てる。
飽食の日本でウィルスのように生きるくらいなら、発展途上国に行って井戸を掘り続けるとか、木を植え続けるとか、干潟の掃除をし続けるとか、「絶対に揺るがない必要とされる状況」を自分で探して、自分の力で「必要」に応える行動をし続けて生きたら良いと思う。下手に人間を相手にする立場をとるから厄介な問題が生じるのだ。
積極奇異型ASの場合に、小学校4年くらいになると、「廊下を走る(ルール違反をする)人が居る自体ストレス」と言うのがよく見られる。
また受動型ASは、「社会全体が自分を理解しない」とか「社会全体から迫害されている」という発想によくなる。
これらから推測してASにとっては、常に「社会全体が相手」という認知と思考の特徴があるように思う。
自分と「社会全体」があり、(特に受動型ASには)それが平和に一致しているか、または決裂状態にあるかどちらかしかない。
無理に説明をしようとすれば、「関連付け思考」の結果、ASの認識の細密画の一方の端がぼやけていることは許されないので、どんなに遠い社会の果てでも明確に白か黒かになっている必要があると説明は出来ないことは無いが。
ジャイアンから見ると、「常に社会全体を相手にしている」というのは、「誇大的、自意識過剰もいいところ」という風に映る。(これは多数派から見ても同様になるはずだ。もっとも多数派はそう思っても言わないだろうが)。
例えば、「社会全体が自分を受け入れるはずだ」と考えれば明らかに誇大的となるし、逆に受け入れないと言えば被害妄想になる。
「理解不可能なことの理解」でも確認したことだが、この前提からものを言う限り、ジャイアンは「井戸の中の誇大的」と反応するだろうし、個々の人の集まりを超えて「社会全体」を考えること自体が、(ナチズムでもない限り)発言の責任を著しくあいまいにして、結果として無責任な発言をすることになることは理解するべきだろう。
どんな権威や被り物をかぶっても、「ASを持つ一人の個人の発言」でしかないのだから。
言語的な表現と非言語的な表現の二つを別々に使えるかどうかが発達障害特にジャイアンの根本問題であるということが分かってきた。言語的な表現をオモテとすれば、非言語的な表現はウラだ。
幼少期に、例えば親ジャイアンが、支配的であると同時に弱みや無責任さを見せて共依存的に子ジャイアンを引っ張り込むと、依存的なジャイアンACが出来上がる。
これに対して、子ジャイアンに強い愛着を持ったAS親が、オモテで言語的に厳しくしながらウラで愛着のために非言語的にやさしくした場合、「ウラ一刀流」という状況が現出する。
これは表面的には「境界性人格障害」とか「身体表現性障害」などの形をとることになるだろう。情報の送信も受信も主にウラ(非言語的なチャンネル)だけでやり取りし、オモテは言い訳とか誤魔化しとか全くの表面上の「建前」とか、その程度のテキトーな意味しかない。
ちょっと不安げに見せたり、自傷などの相手を必要と感じさせるような行動に出たり、非言語的にちょっかいを出したり、要は「AS親が喜んで言いなりになってくれる」ような非言語的な行動を鍛えられるわけだ。
その結果ウラ一刀流の境界性人格障害に良く似た依存型ジャイアンが出来上がり、思春期から以降も、周囲のASをいとも簡単に手玉に取りながら生きていく。
特に受動型ASは簡単に利用できるので便利だろう。
問題は「便利すぎてそれなしで生きられなくなる」ことなのだが。
私が依存や「二刀流」について問題にするのは、「ADHDの脳が非常に不器用に出来ている」こと、そのために、「脳に合わない生き方をすると、うつや身体症状が必ず出現する」という現実を目にすることが多いからだ。
身体的には原因不明の痛みやしびれ、耳鳴りなどの感覚過敏、ふらつきや動悸、頭痛や吐き気、過敏性腸症候群、時には発熱まで、特にジャイアンには多彩な身体症状が見られる。
また、全く動けなくなる意欲低下や、どうしようもないイライラ、極度の不安や強迫症状も良く見られる。
これらの症状が脳に合わない生き方の原因である「証拠」はない。しかし私はACの回復や依存からの回復とともにくすぶり型のうつ状態が回復したり、頭痛が回復したりするケースをいくつも見てきた。
例えば「訓練して二刀流を使いこなせるようになった」としても、「意識のレベルでは見下さなくてもASの発言に反応しない」と言っても、結局その人には摂食障害があったり、原因不明の整形外科的な問題があったりする場合には、見苦しくても、幼稚であっても、「単純な砂漠のライオンたるジャイアンの脳のあり方に立ち返るしかない」というを治療の目標にしてみることは試す価値がある。
私が見苦しいことを承知で、道義的には問題があるのを承知でここでジャイアンのいちばんジャイアンらしい形を隠さないで実演して見せているのは、それが「ジャイアンの素直な脳の働き」だからだ。
身体症状やうつがあって、それを取り除くことがが治療の目標であるとすれば、治療の中間目標は、「一度単純な本来のジャイアンの姿に戻る」ことになる。
その場合、「見苦しい」とか、「幼稚である」ことは一度は甘受して、まずは本来のジャイアンに戻り、これらの問題はその後で「最低限の承知の上の妥協」(自分を誤魔化す変な抑圧ではなく)で現実的に解決する。
これがジャイアンの身体症状やうつのケアの基本原則(と私が考えるもの)である。
先月収録したテレビ番組の放映日程が決まった。NHKの「ハートをつなごう」の発達障害シリーズで、パートナーについて考えるというテーマだった。20日、21日の20時から教育テレビで放映予定。
http://www.nhk.or.jp/heart-net/hearttv/
私は「当事者」で出てくれと言われて、やや脱抑制「悪乗り」的になっていた。
この番組に良く出ているS夫妻、ネットの世界でも有名なM夫妻ともう一組の夫妻と私とカミさん、特にシナリオを決めない展開は非常に面白かった。
後で考えれば「パートナーの立場の思いを語らせたい」という番組であったはずで、私は「当事者」としてよく考えればカミさんが主に発言しなければならないはずで、私がしゃべりすぎたと反省している。
私は医師であり、通常は医師は「医師自体は正常な世界にいる専門家」として患者に接し、医師自身の問題を表に出すのはある意味タブーである。
しかし私がADHDであることは「事実」であり、今は幸運にも一定の社会人として居られても、ある時期まで激しい不適応に苦しんでいた(今でも苦しみ続けている)訳で、私はむしろ「ADHDらしいプラスの面」を積極的に出して、相手が子供でも大人でも、可能な限り「対等に」「同じ目の高さで」話を聞こうと努力している。
だから私にとっては、実は「当事者として」の立場のほうが居心地が良い。助言するにしても、「当事者で無ければできない」ことがあり、番組でも削られなければそういう場面が見られるだろう。
非常に高機能の人まで考慮に入れると、実は診断されていない発達障害は予想されている以上に多いと私は思う。
当たり前に社会の中心にいるケースも多く、サポートする側の人も少なく無いだろう。
だから私は診断された当事者や家族がサポートする仕事を志すことを積極的に支持する。自分自身の限界や脳の働きの特徴をきちんと理解した当事者は実際に「使える」のだ。
私はASとADHD、特にジャイアンとの違いについてずっと考え続けている。幸いに私にはさまざまな高機能のASおよびジャイアンの方と接する機会があり、「あなたと私はどこが違うのだろうか?」という話を突き詰めて考える機会に恵まれている。
最近その実り多い対話の中から出てきた一つの根本的な違いは、ASには「利用」は出来ないというものだった。詳しく問うと、AS的には単純な「利用」はあり得ず、結局「借り」となって後に精神的に負担となるから出来ないということだった。
この発想を突き詰めると、結局ASとADHDの違いは「関連付け思考と場当たり的断片的思考の違い」に還元されるだろう。「利用」が単独で「これはこれ」として成り立つか、それともその後の長い人間関係の中での借りとして関連付けられるかの違いだ。
現段階でやはりASとADHDを分ける重要な基準のひとつは、「場当たり的断片的思考か関連付け思考か」だろう。
私が合併診断をする気にならないのはこの場当たり的思考と関連付け思考が両立するとは思えないからだ。
ちなみに過集中状態ではジャイアンも関連付け思考となり、その瞬間だけみればASと非常に似ている。ただその状態から比較的簡単に脱して合理的な自己突っ込みに復帰するところがやはり異なると私は考える。
対人関係の「近さ」と「人が必要でない」という違い、上記の思考特徴の違い、もう一つAS独特の「最後は絶対に世界中が自分を認めるはず」という根本的な自信のようなものがASとADHDの根本的な違いだと私は考える。
言語的な表現と非言語的な表現の両方を使うか片方だけを使うかを「二刀流か一刀流か」と呼ぶことにしよう。脳の働きは多くのASは二刀流であり、依存型以外のジャイアンは極端な一刀流である。
依存型として非言語的な技術を研ぎ澄ます経過を経なかったジャイアンの多くはKY(状況理解の不足)の弱点を突かれて多かれ少なかれからかわれたり馬鹿にされたりして成長する。
その中では、表面上は分からないような形で非言語的な表現で突き落とされたりする体験を重ねる。そのうち多くの場合は「後で気が付く」形となり、「だまされた」というショックと見抜けなかった自分自身への情けなさの両方で落ち込む。
その結果、自分に向けられた言語的な表現と非言語的な表現が少しでも食い違うと、「まただまされるか」という警戒のプロセスが稼動し、「常に本心を確認しないとひどい目に遭う」という自己防衛行動に出る。
これが依存型でないジャイアンが極端に二刀流を嫌う理由であると私は考える。
多数派ははじめから建前と本音の世界なので、ジャイアンははじめから警戒して信用しない。
ASはASの発言や表面的な行動の上では一見「表ウラはない」様に見える。非常に正直で、二刀流のだまし討ちを食らうことは少ないとつい信用してしまう。
ところが実際はASは非常に情緒的で、口で言う理屈と行動は食い違うことも多く、実は二刀流の世界の住人だった。
二刀流が当たり前の世界からはジャイアンは幼稚に見えることだろう。
逆に一刀流こそという世界では二刀流は卑怯な技という風に見えることになる。
おそらくASの医局の先輩から、私の診療スタイルについて、「投げ飛ばして受身もさせないような」と評されたことがある。この先輩は、「言語的には厳しく責めながら非言語的に(表情や口ぶりで)フォローする」という高級な芸当が出来る人で、ASや知的障害、依存的なタイプの人は「この先生が通ると正座して待つ」というくらいにコントロールしていた。(ただ決まって人格障害の人は悪くなっていたが)。
依存型ジャイアンは、多くは幼少期に親から言語的にはけなされながらも、非言語的に依存され、「非言語的なつながりこそ真実」と捉える習慣がつき、その結果、自分のほうから伝えたりアピールしたいことも非言語的に表現、行動する。
「自己突っ込み」は言語的な世界の現象であり、「真実は非言語的な世界にある」というスタイルでは、自己突っ込みは生じない!。人をコントロールするにしても見下すにしても、表面上の態度とは異なる「ウラ」で行えば、自分自身に対しても自己突っ込みという責任を負わなくてもいいのだ。
こういう依存型ジャイアンにとって、言語的には厳しくとも非言語的にはフォローしたりするASの態度は、「マタタビ」のように作用するのだろう。このASからの非言語的なフォローをひとたび体験すると病み付きになり、あくなき依存の泥沼にはまり込んでいくのだ。
言語的には責められるような行動をあえてしながら、それにも拘らず「非言語的に赦せ」という要求を繰り返す。ジャイアン出身の境界線人格障害はこうして出来上がる。
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