ジャイアンの多くは重症のKYで、状況が読めない。私は小学校低学年のころ「内緒話」で今考えればいじめられていた。(当時はそれがいじめであることすら分からなかった)。
多数派や一部のASには当たり前の「遠まわしな言い方」というのがあり、これはジャイアンに対する非常に効果的な攻撃になる。
私の理解が間違っていなければ、京都の「ぶぶづけ食うて行きなはれ」というのは、「そろそろ帰ってください」という意味で、それが分からないと「ぶぶづけ食うて行きよった」と馬鹿にされると聞く。
多数派対ジャイアンは、ジャイアン側から見ると常にこういう図式となり、遠まわしな言い方は、「お前には分からないだろう」「このKYの馬鹿めが」という意味になる。
遠まわしのウラの意味のもっともジャイアンから見て不条理なところは、「責任を追及できない」ということだ。
表向きは別のことを言っているので、「あなたの考えすぎです」「私はそんな意味では言ってません」といくらでも責任回避できる。そういう仕掛けをしておいて相手を突き落とすような感情だけをぶつけることが得意なASが時々居て、ひどい目に遭うことがある。
そういう言葉遣いをすることが最初から予想される相手には、ジャイアンは最初から近づかないようにするしかないと私は思う。
さて雑音は気にしないで私はジャイアンの心理の本質を見つめる作業を続ける。
「かわいそう」という都合の良い考え方もある。「見下す」というほど露骨でもなく、ある意味合理的な必要があるようなニュアンスも含む巧妙な考え方だ。
しかし実は完全に合理的な自己突っ込みからすると、「見下す」も「かわいそう」も全く変わらないことは誤魔化せない。
当たり前のことだ。言葉が違うだけで、「見下す」ことで、自分自身の中心志向が反応しないように盾の後ろに隠れている。
しかし実はもう一つの要素が絡むと実は自分を巧妙に誤魔化せるということに気が付いた。
その要素とは、「共依存」だ。
つまり、「かわいそう」=「見下す」+「一見合理的風」+「共依存感情」 ということになる。
相手を「見下し」た上で、「その相手にとって自分が必要だ」と思うことで、自分の不安も解決しようとする。そしてその構造全体をいかにも合理的な必要であるかのようにカモフラージュする機能まである。実に巧妙な誤魔化し装置になるのだ。
だからジャイアンにとって「かわいそう」は落とし穴の一つであるといえる。姿を変えた共依存の落とし穴である。
別にいろいろ考えなくても、私は単に他人から自分が「かわいそう」と思われたくないので自分もしないのだが。
ついでに書いておくと、ジャイアンはKYであるので、「見下し」ていることが必ずバレてしまうというのがあまり笑えない落ちになっている。
私の合理的な自己突っ込みはさらに自分を追及する。
「木から降りられる」ことが実は巧妙な「見下し」になっているのではないか?
つまり「相手は木に登ったままで、自分は降りられるから自分のほうが上」という形で結局「見下して」すっきりしているのではないか? 私はなんとずるい人間だろうか?
よく自分を振り返って、少なくとも一部にはあると思う。
ただその後私に起こったことは、「ここまで行ってやっとすっきり胸のつかえが下りた」ということだった。
ADHDの自己突っ込みはあらゆる可能性を想定する。いずれにしても、私の中の合理的な自己突っ込みからは、「これ以上は突っ込みきれない」というところに行ったからだろう。
私が一番恐れるのは、「本当のことも見切れない下らない奴」と自分に突きつけねばならないことだ。
だから逆に、これ以上ないところまで自分に有利でない突っ込みをしておけば、その瞬間はそれ以上の合理的な自己突っ込みは停止して、一時の安楽が得られる。
ただし今度は上記のこと自体が突っ込みの対象となるのではあるが。
ジャイアンの根本問題である中心志向と合理的な自己突っ込みの矛盾の現実的な一つの解決方法は、「自分の想定できる最低の自分を考える」ということだ。ここでは合理的な自己突っ込みは(一時ながら)停止し、中心志向はあまりに遠くて問題外になる。
ジャイアンは中心方向からのアクションに過剰に反応する。収録時で私は「当事者」として出た立場であり、人に見せたくないプライバシーもビデオで公開した状況であるので、高見の見物の専門家に対して不利な立場にあり、「上から」と感じたことに反応した。
しかし一時の過集中モードは時間とともに過ぎ去り、「自分こそ何様と思っているのだろう」という自己突っ込みが復活すると、ある程度合理的な判断が出来るようになり、「別に誰がどんな勝手な診断をしようが私は私に許されたことをやっていけば良いことには変わりは無い」ことに立ち戻った。
ここに至った経過には、カミさんをはじめ数名の人に私の感じ方が全くの独断ではないと理解していただいたこともある。
私の出発点は「どうしようもない奴」であり、多少でも人の役に立つ場所が与えられているだけで感謝するしかない立場だった。どうしてこの原点をいつも見失ってしまうのか、これがジャイアンの中心志向の「性(さが)」だろう。
ジャイアンの中心志向が反応すると、「過集中スイッチ」がONになり、しばらくの間合理的な自己突っ込みが停止する。これが一番恐ろしいことだ。
マスコミに出るというのは、私自身の中心志向にとって非常に「うれしい」ことであり、「木に登った」ということなのだろう。
さて私は静かにジャイアンの心理の本質を考え続ける作業に戻ろう。
一つ気づいたのは、収録中は、私は「当事者」という立場で、変に楽しくなったことだ。普段よりも積極的に発達障害的な面を出して良い(出したほうが番組上もプラスになる)という珍しい場面なので、変にテンションが上がった。「スティッチ」的なADHDの脱抑制状態に近かったかもしれない。
その瞬間は、以前から議論している過集中状態の時と同様に、一時的には積極奇異型ASと非常に似ている。(意識的に番組に登場するAS氏を私ははっきり当事者的に弁護する立場で発言したこともあるとは思うが)。
そういう意味では「しばらくして合理的な自己突っ込みが回復すること」自体がASとの違いなのかもしれない。
過集中や脱抑制「悪乗り」モードを出来るだけ早めに停止させる方法はを工夫する必要がありそうだ。
ディズニーのキャラクターの「スティッチ」が好きなADHDが何故か多い。娘に聞いてみたが、最初は「強いところ」というが、よくよく聞くと「いたずらする」というところも好きなようだ。
違法な遺伝子実験で作り出された「試作品」で、いろいろな高い能力を持ち理解だけはできるのに、言葉ははっきり話せず、「触れるものを全て破壊する」という特徴など、いろいろな意味で発達障害の自己評価に重なる部分も多いように思う。
楽しかったり、はしゃいだり、本人は悪気は無くても、それで動きすぎて周りの物を壊してしまったり、人に怪我をさせたりして結局怒られてしまったというエピソードが時々出てくるが、これは発達障害の子供にとっては(大人でも)実際に繰り返し体験してきたこと「そのまま」だ。
以前「ジーキルとハイド」の項でも触れたが、ADHDには「悪乗り」とも言うべき「滅茶苦茶やりたい衝動」のようなものがあり、それを野放しにしたら大変なことになることが分かっているので抑えながら生きている部分がある。
スティッチはそういう潜在的な気持ちをアニメの中で実現してくれるところが好きなのかなと思う。
ついでに言えば、「触れるものを全て破壊する」スティッチが、リロとの出会いで「居場所」を獲得して行くストーリーは二次障害の激しいADHDにぴったりでもある。スティッチは社会の中のADHDにそのまま重なるのだ。
「二つのチャンネル」で述べた非言語的なメッセージへの反応をもう少し掘り下げてみよう。
まずAS積極奇異型は「反応もするが制御も出来る」。ただ実際は制御の「方針」がAS的で多数派とずれるために多数派と同じ意味での「空気を読める」にはならない。
次に合理的ADHDであるが、「反応もせず制御も出来ない」ということになる。究極のKYであるが、徹底して合理的であるため、合理的な理解の下に多数派との共存の可能性は大きい。
さて問題はジャイアン(自己正当化型ADHD)だ。ジャイアンの場合には、「反応はするが制御は出来ない」という表現が一番妥当だと私は思う。ASのウラの言葉である非言語的なメッセージをジャイアンは感知できる。そのメッセージの中に「自分が世界の中心だ」というASらしい前提を感じ取ると、ジャイアンの中心志向が激しく反応して腹が立つのだ。
ここから先がASの人の想像が困難であると思うが、ジャイアンは腹が立つと、そのかんしゃくを表出しているだけで、自分が発する非言語的なメッセージを抑えることも出来ず、当然調節も出来ない。
ほとんどのジャイアンの非言語的なウラの意味への反応は、こういう意味では、幼児的な反応とほとんど変わらないと私は思う。一つの感情があり、それを表する言葉があり、その感情を表す表情や口ぶりがある。それだけだ。
そういう意味では、二つのチャンネルを別々に使い分けられるASとは全く違うといえる。ジャイアンから見れば「二面性」ということになり、ASから見れば、「フォローも何もしない単純さ」ということになる。
唯一つ例外は、ASの愛着の環境で成育する中でボーダー的な非言語的な技術を発達させていった依存型ジャイアンで、非言語的なレベルでASをいとも簡単にコントロールし手玉に取る。
依存から卒業したジャイアンは言語的にも非言語的にもシンプルにライオンに戻る。人を必要とせず、依存することも不要となったジャイアンは狐のように二つのチャンネルを使い分ける必要自体が無いのだ。
19日にあるテレビから発達障害「当事者」としての出演依頼があり、収録してきた。数組の当事者を含むカップルが思いをぶつけ合い、うちのカミさんも当然出ている。
番組は特定のシナリオも作らず成り行きに任せるという非常に意欲的な制作姿勢で「さすが本物のプロ」と感服した。
ところでこの番組には九州のある県から成人発達障害をケアしているカウンセラーという人物X氏が専門家的な立場として出演しておられ、要所でまとめるというスタイルだった。
収録終了後、突然このX氏から呼び止められ、「私は医師ではありませんがあなたはASです」と断定され、実はかなりショックだった。その晩はほとんど眠れなかった。その場では、「私のブログを読んでください」とやっとのことで反論したが、「先生と私とは考えが違うようですね」とバッサリ切り捨てられ、話にならなかった。
私はジャイアンなのでその後私の中にどのような恐ろしいファンタジーが起こったか想像できる人も多いだろう。医師でないと断りながら、医師に向かって、相手の自分への診断は間違っていると公然と指摘し、説明しようとしても耳を貸さないで「考えの違い」と切り捨てる。
実はこのX氏は番組の中でもとんでもないKYぶりを発揮して、私のほかにもある当事者の出演者を突き落としている。 余計なことかとは考えながらディレクター氏にメールはしておいたので、実際にはその場面は放映されないかもしれないが、簡単に言えば、「自分のあまり人に見せたくない面を、番組のためにあえて公開して、カミングアウトして出ている当事者の心理を全く理解せず、逆に(高みの見物の立場から)その弱みをわざわざ指摘して突き落とす」ということをしている。
おかしな話だが、(私が言うのもへんだが)専門家として出ているこの人が一番場の空気を読めていなかった。
この番組は出ている当事者が非常に率直ですがすがしく発言し、私自身も(医療者というよりは)「発達障害的な面をあえて前面に出して」意識的に努力して私の出演している役割に応えようと努力した。それを表面的に見て「ASだ」というなど、しかも初対面で、HPもほとんど読んでいないだろうだけの情報から、医師を相手に自分の診断をぶつける。
この表面的な特徴と重症のKYぶりは、このブログをご覧になってきておられる方にはどういうことを意味するかは説明の必要も無いだろう。
番組に出るかどうかは分からないが、「発達障害のカップルはいくつになっても可愛らしい」という発言もあり、「あなたは何様か」と胸ぐらをつかんで怒鳴りつけておけば良かったかとも思う。
診断されていないあるタイプの害の一例?。
沖縄の言葉で「難儀」(ナンギ)という表現があり、意味としては「面倒」と同じような使い方をされる。実は受動型ASがよく使う表現である。
主に行動しないときの理由を問うた場合にこの「ナンギ」が登場する。自分の自発的な行動が求められるときはすべて「ナンギだから」しないということになる。
この「ナンギ」には、「それ以上に突っ込んで話を深められない」という作用があり、周囲の人の意欲を失わせる結果になる。
さてこの「ナンギ」の意味を私はずっと考えてきて、やっと一つの解釈を思いついた。
「何で自分がしなければならないか?」「自分でしなければならないのなら面倒だからしない」という意味であると思う。周囲の愛着の対象に対して「(自分のことでも)お前たちがやるのが当たり前だろうが」という強い依存のメッセージなのだ。
受動型ASは依存できると思った相手には、徹底的に理不尽な要求をし続ける。他方「自分」が存在せず、「あなたはどうしたいか?」と聞かれると答えられず、結果、「自分の責任」を認識も実行も出来ない。だから本人にとっては依存が当たり前だから「ナンギ」ということになるわけだ。
私は最近は、特に母親に要求をし続ける受動型ASのケースは(もちろんパートナーでも)、「一旦離れるしかない」という環境調整を本気で検討するようになった。
受動型ASにとっては、周囲に一人も愛着の対象が居ないほうがずっと表面上の社会適応が良くなるのだ。
真のパートナーを得るには、思春期を過ぎて、本人に受動型ASを告知して、その問題点を本人とともに考え、依存で無い生き方を少しずつ模索するしかないのではあるが。
ジャイアン(自己正当化型ADHD)には「一廉の者であらなければならない」「自分を下に見られるのは腹が立つ」という中心志向と、非常に合理的な志向との両方がある、この矛盾がジャイアンのさまざまな行動パターンを形成している。
この二つを「うまくマイナスを少なく使いこなして乗り切る」方法の一つが、(表面上はきれいではないけれども)「見下す」という方法である。
私自身はうまく出来ないが、実は「この相手はどうせ低レベルだ」と見下して、「それから合理的に理解する方向に行動できる」ということが可能になるのだ。
「見下す」ことで自分の中の中心志向から来る「お前が何を偉そうなことを言うか」といった醜い感情の動きを一旦抑えると、あと残るのは合理的な部分なので、逆に合理的に理解の努力が出来てむしろ冷静で平等なADHDらしい関わりが可能となる。
ASの非言語的な表現の中にある「自分のほうが世界の中心だ」という前提に反応しないジャイアンの人にはこういう認知の方法が出来ているのかもしれない。
世の中の現象をすべて学歴で説明する浅はかこの上ない私の母親ジャイアンが、昔「負けるが勝ち負けるが勝ち」と自分に言い聞かせるように繰り返し言いつづけていたことを思い出す。
表面的に見れば「なんて偉そうな」ということになるが、そうでもしないと感情的に反応して心穏やかに生きていけないのがジャイアンの現実である。
私自身はこの「見下す」ということ自体への合理的な自己突っ込みが非常に強いので、合理的に理解するところまでたどり着けないというところだろう。
ASの人で明らかに激しい幻聴を訴える人がいて、こういうケースを「統合失調症の合併」と考えるべきなのか否かは、治療法とも関連して重要な問題だ。
私もそれほど多くの症例を経験しているわけではないので、一般的に言えるかどうかは分からないが、あるイメージは持っている。
一つの特徴は、「(安心できる人が近くにいるなどの)状況によって幻聴が変動する」という特徴があることだ。ここが統合失調症とは少し異なる。
「ASだけで説明できる幻聴」とは
①基本に受動型AS特有の「影響されやすさ」や積極奇異でも二次障害によるACがある場合で、
②現実の状況が明らかに自信を持てないような立場(自己評価が下がったり自己突っ込みがある)である場合に、
③「過去の非常に嫌な気分が頭から消えない」というAS的な特徴から、
④最初に特定の嫌な気分がよみがえって、
⑤その気分を過去に体験した場面の声や音が気分に付随してありありと再体験される。
というプロセスで説明できるように思う。
と考えれば、抗精神病薬(リスパダールやエビリファイ、ジプレキサなど統合失調症の薬)があまり効かないことも説明でき、また、 リーマスやレスリンなどの抗うつ薬、感情調整薬で改善することも説明が出来る。
ジプレキサは不安も取るので、効きはするが、副作用も多く、正常な認知を抑える作用があるので、私はあまり使いたくない。
| 日 | 月 | 火 | 水 | 木 | 金 | 土 |
|---|---|---|---|---|---|---|
| 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | ||
| 6 | 7 | 8 | 9 | 10 | 11 | 12 |
| 13 | 14 | 15 | 16 | 17 | 18 | 19 |
| 20 | 21 | 22 | 23 | 24 | 25 | 26 |
| 27 | 28 | 29 | 30 | 31 |