ジャイアンにとっては「依存」よりも「利用」のほうがはるかに健康的である。「利用」には、精神的なベタベタした関係は付随せず、ただ現実的な利用であり、利用の理由は「ただ便利だから」である。「便利」だから使えれば誰でも(人間でなくても)良い。
他方「依存」は何度も繰り返し説明してきたが、ジャイアンの最大の弱点であり、もっとも危険な罠とも言えるジャイアンにとっては破滅への道だ。
この「依存」の証拠ともなるキーワードが「必要」だと思う。特に受動型ASが喉から手が出るほどほしがる言葉が「必要」だ。受動型ASに対して「あなたが必要」と言ったら最後、その瞬間に大変な要求を突きつけられることになる。
「利用」の意味でも必要は必要ではあるが、受動型ASの人には、便利だからという「利用のための必要」では共依存できないので、この点をはっきりさせてしまえばその関係はかなり難しいと私は思う。
ここであらためて宣言しよう。ジャイアンは人を「必要」としない。
逆に言えば、誰かを「必要」と言った瞬間に病的なうつや身体症状が待っていると言っても良い。
ジャイアンは孤独だ。誰にも助けられることも出来ず、愚痴もこぼせない。人に好奇心を持ったり仕切りたくなったりもするが、その相手はジャイアン自身にとっては本来必要ではないものだ。
しかし私は孤独ではない。ここのブログの試みに参加しているジャイアンの面々や真摯に自分を変えようと努力しているASの方々とは、「ともに自分たちの脳の困難さについて考える」ことが出来ている。
一切の「必要」は無くとも、お互いを「理解する」、「ともに考える」という「同志」のような関係は成り立ちうる。少なくともジャイアン同士、積極奇異のASの人とは立場の違いを超えて「理解しあう」関係は可能だ。
だからジャイアン以外の人にお願いしたいのは、「必要」を諦めてほしい。「必要」を超えたところに、ジャイアンと理解し合い、相互に病気にしたり相手の行く手を妨げたり足を引っ張ったりするする恐れの無い健全で建設的な関係を築くことが可能となるのだ。
「私はあなたを必要とはしない」。「しかし理解したい」。「ともに考えて行きたい」
| 日 | 月 | 火 | 水 | 木 | 金 | 土 |
|---|---|---|---|---|---|---|
| 1 | 2 | 3 | 4 | |||
| 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 | 11 |
| 12 | 13 | 14 | 15 | 16 | 17 | 18 |
| 19 | 20 | 21 | 22 | 23 | 24 | 25 |
| 26 | 27 | 28 | 29 |
コメント
コメント一覧
以前、妻がキレたとき、「一人の人間として見て欲しい」そのようなニュアンスの事を言われたことがあります。
私の中に相手を「利用」しようという気持ちや、子供扱いする態度があったからに他なりません。
私は妻のことが大好きであるし、仲良し夫婦として過ごしているのですけれど、この関係、実は不健全なのではないか?自分の立っている場所はいつか崩れてしまうのではないのかという不安に苛まれるのです。
もしかしたら、「利用」は自分のエゴ、いやらしさを直面化する言葉で、認めたくないだけなのかも知れない。
もっと良い方法があるはずだ、などね。
無償の愛ってなんだろう・・・
子供をACにすることは避けなければなりません。
他の方のコメントを読ませていただきながらもう一度考えてみることにします。
良い言葉です。すっきりした感じがしました!
こう言う関係っていいと思います。
寂しさも感じますが、この言葉に救われます。
私もジャイアンですが、それに気付く前から、自分でもときどき人を「利用」しているのではないか、と感じることがありました。
恋愛においても、これは愛情ではなく利用、もしくは依存ではないだろうかだと。
まったくそのとおりで、多数派のように愛し合うことは、そもそも出来ないことだったんですね。
人と心の奥から触れ合うことを望んでも無理はなずです。
先生にジャイアン(ASの可能性もあり)と診断されて1年半ほどたちますが、こちらをのぞかせていただくようになったのは最近のことです。
このブログを読みはじめてから、これまでうまくいかなかったことのすべてが腑に落ち、私にも居場所があった、と少し安らかな気持ちになりました。
「自己突っ込み」で自己評価を下げることで、気持ちが楽になりましたし、自分の行き方(生き方だとおおげさ?)を探る気力も出てきました。
孤独でも、ここには理解し合える人がいること。実生活において必要ではない、必要とされなくても、心で戦う同士がいることを嬉しく思います。
「私はあなたを必要とはしない」。「しかし理解したい」。「ともに考えて行きたい」
本当に素敵な言葉ですね。建設的なところがとても気に入っています。
でも、
>誰にも助けられることも出来ず、愚痴もこぼせない。
私のジャイアンと思われる子どもを見ていると、とてもつらくなります。
そして、助けてあげようと思ってもそれは、子どもの助けになるどころか、落ち込ませているだけでしかないことを実感すると、なおさらです。
ACにならないように、子どもを理解しながら見守る事が、最善なのでしょうか?
ずっと、拝見し参考にさせて頂いております。
主人から「俺のためだけに生きてくれ」と言われ結婚しました。主人は人に相談する事も無く、他の人と関わりを持ちたがりません(多分、先生が書かれていたようにADHDだと思います)ここで、読ませていただいていて、主人にはかなりの苦痛なのかな?と思えることがあります。
主人が私の事を理解できない。と言うように、私もいまだに主人の事を理解できていません。ただ、共に世間一般とはズレが生じている事はなんとなく感じます。それがどう違うのかは他者の方とのコミュニケーションがほとんど無いので、理解しがたいです。会話での意味の食い違いが多いため、トラブルになってしまうので、家庭以外ではできるだけ避けてしまいます。
「しかし理解したい」
私は既にこの状態にあるのかな、と思います。
「ともに考えて行きたい」
今後「共に」と思ってもらえると良いなと思います。
しかし、これだけ「ジャイアンは人を必要としない」と言い切られると、「仕方がなかったんだ」と思います。元妻との関係も含めて、できるだけ息子が傷付かずに健やかに成長する方法を模索する毎日です。息子の事を「ともに考えて行きたい」です。
私が変わったのか?ここの意味が分かりません。
受動型ASの人は、「あなたが必要」と言われたら、どんな要求をしてくるのでしょうか。
逆に私は、「あなたが必要」と言われれば、逃げ出したくなると思います。
>「私はあなたを必要としない」「しかし理解したい」「ともに考えて行きたい」
この距離感は居心地が良さそうです。
私は、三女の登校拒否がきっかけで、カウンセラーや精神科の医師、学校の先生や臨床心理士、と言われる方々と話す機会がありました。
しかし、みなさんは、私の話を一つ一つは分析してはくれましたが、その一つ一つの状態と関連性について、私が納得するようには説明してはくれませんでした。
今現在、再び学校に行かなくなった娘の、今度の高校での臨床心理士の先生は、娘の心理状態を説明してくれ、私の知りえない、専門家ならではの精神的な部分を丁寧に穏やかに話して下さるので、少し落ち着いています。
私の家族は5人とも発達障害又はボーダーな感じです。(最近、はっきりしてきました)
本当に謎だらけで苦しい家庭から、自力で家を出たまでは良かったのですが、フラッシュバックに悩まされての生活は、いわゆる自己突っ込みの復活であったのでしょう。
それに気付かせてくれたのは、YANBARU先生の分析と、経験や心情を語ってくれるここを訪れるみなさんでした。
旦那と三女は受動型AS、
次女と私はADHD、
そして、一番謎だったのが、長女でした。
しかし、長女は積極奇異型ASであるのだろう、ということで、すっきり治まりました。
長女は、本当に父親的だと感じる一方で、わたし的な所も持ち合わせていて、私としては混乱することが多かったのです。
しかし、このブログのコメントの中で度々、
>(一部の積極奇異型ASの人を除き)「ジャイアンでない人には理解出来ないだろう」
・・・というような文面を目にすることで、ADHDと積極奇異型ASは理解でつながるのか・・・と知り、
長女を全く理解できないところと、「ある!ある!」と、妙に納得できてしまう所があることの理由がはっきりしました。
(つづく)
ASとADHDの夫婦からですから、子どもはやっぱり発達障害の特徴は備えているでしょうし、
生きにくさを感じながら、生きていくことになるでしょう。
(ASの方には失礼な言い方で、すみません。)
私にとって、旦那も三女も、私が居ないと生けて行けない(依存)くせに、私を支配的にコントロールしよう(共依存)なんて!!と、かなりの強気な態度で、切ってしまえるのに、(そうは言っても、三女は娘なので、切れませんが)
>一切の「必要」は無くとも、お互いを「理解する」、「ともに考える」という「同志」のような関係は成り立ちうる。少なくともジャイアン同士、積極奇異のASの人とは立場の違いを超えて「理解しあう」関係は可能だ。
・・・というように、長女と次女には、切ってしまいた衝動には駆られにくいです。
これからも、謎多き発達障害の少数派の人々に、『そのままの自分で生きていていいんだ!』という希望を与えてくれるような分析を、よろしくお願いします。
私は多数派(自称)です。ACはなおったみたいです。適応力に優れているので、その場で自分がどう動くべきかすぐに分かりますし、そうしますが(受動型というのでしょうか?)、言いたい事ははっきり言えまし、自分の意志は貫きます。
今思うと、友達には依存型の人が多かったみたいです。
(他人からの期待や要求に添わなくてはならないと思い込んでいたので)職場で、ジャイアンと思われる人と組まなくてはならなくなり、どうしたら上手くやれるか試行錯誤するうちに、ACは直り(他にも理由はありますが)、その方といい関係で仕事が出来るようになりました。
その人の言動の一切を、“自分の評価”を加えないで見る(聞く)、という事がポイントかと思います。あと、自分自身をはっきりと示す事です。
具体的には、
相手からの要求については、それが受け入れられないものであったときは、断固として拒否をする。その時も、相手を責めるのではなく、「私はこれこれの理由でそれ要求を受け入れられない、受け入れる義務はない。」と言う。相手に何をされても言われても、“それだけ”の姿勢を貫く。
でも、仕事上自分が協力すべき事や、助けられる事(相手から依頼された時、その言い方がお願いとはほど遠かったとしても)には、気持ちよく応じる。
何か状況を変えたいときには、相手に「変わってくれ」というような言い方はせず、「私はこうしたいのだがどうか?」と言うようにする。
相手から言われた事について(主に悪い事、些細なミスの指摘なども)悪意があって言っていると捉えない。指摘された事、悪い事は悪いと認める。ただそれだけにする。
話をよく聞く。だけど、その内容について、自分はどうしているか、という事は言っても、相手の事を評価しない。
今、その方は私の事をとても尊重してくれていますし(でも、自己突っ込みは激しく、身体症状も強い感じです。)お互い「協力」して仕事をしています。
でも、こういう事は、本来は特別な事ではないんだよなーと今は感じています。ジャイアンの人が上司であった場合はなかなか思うようにはならないと思いますが、同僚や友人であった場合には、このようなやり方もよい関係を続けるコツになるかもしれません。私は勉強させてもらいました。
はじめまして、さーこと言います。積極奇異型ASです。
育ちの過程でACも加わっていたらしく、今ACの部分が徐々に回復している段階です。
クロ様のコメントですが、個人的に役に立ちそうです。
>その人の言動の一切を、“自分の評価”を加えないで見る(聞く)、という事がポイントかと思います。あと、自分自身をはっきりと示す事です。
この辺りは、私には少々難易度が高いのですが、できない事はないと思います。
参考にさせていただきますね。どうもありがとうございます。
全く場違いな発言でなくて良かったです。
こちらでいろいろ知る事が出来たので(ジャイアンの事、自分の事)今があります。こちらがなければ仕事を辞めていたかもしれません。先生にお礼申し上げます。
私も一生懸命歩み寄るために努力してきましたが、相手もすごく努力している事が分かります。
以前先生が「理解するために努力するという事で充分」というような事を言われておりましたが、実感しております。
これが私が年月を経るほどに夫に対して感じてきた違和感
の核心だったのか、と納得です。
こちらを読ませていただくようになって、夫がジャイアンかどうかは確定できないものの、言動が、マジックのように一致していることが書かれているので、多分そうなのだと思っています。私はおそらく多数派(無論自分にもスペクトラムはあるでしょうが生き辛さは感じたことが無いので)だと思っていますが、ジャイアンが多数派に依存する、ということもあるのでしょうか。
私が彼を依存させるようにした、という自覚は全くありません。しいて言えば、彼はムリして私がやりたいようにやらせてくれていたのかもしれません。私を人生の羅針盤にしてしまっていたのが彼の実態なのでしょうか・・・考えるほど混乱してしまうのですが。身体症状やうつのことを考えると、まさに依存している自己と本来の自己との葛藤が潜在的に症状として出ていたのか、とも思います。
一貫して私が感じてきたことは、「彼は私の内的世界に興味が無いのだろうか?私を愛していないのか?」というどうしようもない寂しさでした。お前の考えていることなど興味は無い、と夫婦仲が悪くなってからは吐き棄てられ、人生を共に歩く人では無かったのだ、と後悔し。
次に続きます
そして、私自身の結論は「この人は、損得勘定で私と交際し、結婚したのか・・・『メリット』があるうちは我慢して猫をかぶっていたけれど、子供が産まれ面倒をみてもらえなくなり私の実家も年金暮らしになったら、もうメリットは無くなったから『お前とは終わってる』と勝手に切り捨てたのか」ということで、ドライに割り切ろうとしています。
最近のトピックスを読むうちに、まさに、ジャイアンが使う語句が彼の口から何度も出ていたことに驚愕しています。「利用できるものはするまでだ」「自分にとってメリットかデメリットか」「友達はいらない」「こんなに俺は我慢して合わせてやってる」「世の中みんなバカばっかり」「自分の居場所が無くなる恐怖が常にある」・・・
この典型的ジャイアンと思われる夫と、子供のためになんとか家庭を維持していくために、やんばる先生のアドバイスを頼りにトライしてみます。
「必要」を諦めてほしい。「必要」を超えたところに、ジャイアンと理解し合い、相互に病気にしたり相手の行く手を妨げたり足を引っ張ったりするする恐れの無い健全で建設的な関係を築くことが可能となるのだ。
「私はあなたを必要とはしない」。「しかし理解したい」。「ともに考えて行きたい」
私は甘えることがよくわからない自立したタイプなので
彼に「あなたが必要だ」とのメッセージを出したことはないはずですが・・・でももう一度、ここを明示すべきのようですね。どうか彼の身体症状やうつが治りますように。
そして私は私の人生、及び共感しあえる誰かを探し(自分の内的世界を分かち合える人がいないのは寂しすぎますし、それは夫ではムリなので仕方ないです)、彼は彼本来の生き方で能力を発揮していくこと、それがお互いの幸せなのかもしれません。
多数派である場合、おそらく、恋愛及び結婚等を通じて、愛する相手に自分の内的世界をわかってもらったり、何か心情的なものを共感したいと思うわけです。
内的世界というのは、言葉にならない思い、情緒、余韻、感動、魂を揺さぶられるもの、そうした「何か」だったり、芸術的な要素だったりするのかな、と自分流に考えています。
当然、セックスにおいても、そうした言葉にできない想いみたいなものを抱き合うことで交わしたり、どれだけ相手を求めているのか伝え合う部分が、多数派女性にとってはおそらく重要なことだと思います。
そうした部分で、今となっては合点がいくわけですが、「何だか私の身体を使ってマスターベーションされているみたい・・・」という印象や、焦点のはっきりしない不全感をずっと抱いてきたな、と思い至ります。恋愛関係や婚姻が破綻しやすい大きな原因のひとつ、な気がします。
難しい問題ですが、パートナーがジャイアンタイプの場合に、「必要としない」というスタンスをとりつつ、どこまで心身が結ばれるという満足感を求めていいものなのか、あるいはそもそもやってはいけないことなのか・・・。
もしかするとジャイアン男性の夫が風俗が好きで心地よいと感じるのも、ジャイアン女性が奔放だという分析も、根はひとつ、即物的その場限りのセックスの方が合っている、ということなのでしょうか。人間同士深い何かを共有・共感しなくて済むことが気楽ということかな・・・。
多数派パートナーとしては、とても孤独で寂しいのです、どうしようもないですが。結局、人間の存在というのは、そこに行き着くのです、愛の真髄とは何か?に。
これはその通りですね。
「来るもの拒まず、去るもの追わず」というのが一番しっくり来る言葉です。
愛されれば「ありがとう」と返すけれど「僕を愛してる?」と聞かれたら、答えは「わからないけど、嬉しい」に尽きます。
>即物的その場限りのセックスの方が合っている
これもその通りです。私はジャイアン女性ですが、夜のお仕事や「仕事でセックス」というのが、まったく抵抗ありませんでした。
(突っ込んだ話になってしまいますが)貞操の概念が無いと良く言われましたが、私にはそもそも「貞操なんて冥土まで持って行けないのだから、たくさんの人に平等に愛を分け与える仕事のどこがいけないのか」と疑問を持つばかりでした。
それに、一人の人とわかり合うための努力に比べれば、その場限りの会話、その場限りの「羽休め」のような恋愛の方がずっと楽だし、楽しいと感じました。
>多数派パートナーとしては、とても孤独で寂しいのです
これも本当によく言われました。
「人を必要としない」ことが自分で分かっている。それでも、ジャイアンとして前向きに生きて行きたい。
多数派の方には申し訳ないのですが、ジャイアン相手の恋愛では「ジャイアンに羽休めをさせてあげる場所」で居ることが、一番効果的なように思います。
ジャイアンだって、寂しさを感じる時が必ずあります。その時にそばに居てくれる存在であり続けることは、「付き合いを続ける」ことには役立つと思います。
正直私は、恋愛を「束縛」としかとらえられないのです。
結婚は「拘束」のように思います。
周囲の人から見れば、場当たり的な生き方に見えるかもしれませんが、これが一番心地よいスタンスなのは事実です。
半年ほど前から,ほぼ毎日ここれでのやりとりを読ませていただいています。
当初,自分はAS系かしらん?と思っていましたが,ADHDの母親とASの父親のセンスが入り交じった,多数派寄りのあいまいなポジションにいるような気がしています。40代,男です。
これまでの女性との関わりを思い浮かべると,圧倒的にADHD系が多いようなので,たぶん自分の方はAS的な有り様でいることが多いのだろうと思います。
> ジャイアンは人と「必要」としない。
先生のおっしゃることを少し読み替えてみてもよろしいでしょうか(ジャイアンが勝手な解釈の類を嫌がるのは重々承知していますが)。
ジャイアンは誰かを必要と思わないでいるときの方が自由である。
横レス失礼します。
>彼に「あなたが必要だ」とのメッセージを出したことはないはずですが・・・
???
受動型ASに「あなたが必要だ」と言ってはいけないと書いてありませんでしたっけ?
ジャイアンにではなかったような...
ここのエントリーに書いてあることは
ジャイアンはあなたを利用しているほうが健康的だということだと思います。
あなたが自立していれば(精神的なほうが重要なような気がします)
問題はないのでは?~と考えてしまいました。
ジャイアンといるときの自分はyouさんのように感じていました。
でも,そうでないときの自分は,Tamaさんにとても共感できます。
自分の中に,どっちの顔もある感じがします。相手によって役割を着替えているみたいです(ACでしょうか?)
こんな言葉遣いでは誤解を招くかも知れませんが,ジャイアンの,他者の感情に対する「鈍感さ」と,自分自身の感覚への「敏感さ」とは矛盾しないような気がします。
先の書き込みの続きに書こうとしていたことなのですが,ジャイアンには,ひととの関係からの影響を(多数派よりも)生理的(生物学的)に強く受ける,という特性がないでしょうか。
感覚過敏とか,薬物への反応の過敏さのように。
生まれつきそのような感覚の敏感さをもっていると,自分(個体として独立した感じ)を保護するために,ヨロイ(イメージとしては西洋式のあれ)を身にまとって外界と折り合おうとするような気がします。
思ったことをすぐ書くのは簡単です。しかし一昨日のようにブログにとっては非日常のことが起こったときには、(たいして無いですが)自分の品格とか信条や浅はかさが出やすいと思うので、気を付けたつもりでいました。
私は、自分の脳内ジャイアン説を仮説としていまだ持っていますが、人を必要としないということに当てはめるとこれもいまだ悩みます。私は一人暮らしをしたくても、私の健康管理も脳内管理も一人でこなせないことばかりだからです。
膿が溜まります。体にも、心にも。
歯茎の他に、アレルギー体質故に鼻腔にも。そして聴力も若干落ちました。本当は首と頭の境目に注射を打たれるところでしたが、パソコンのやり過ぎによる肩と首の凝りが思い当たったので、注射は延期してもらいました。まず、実証するにはほぐさなくてはなりませんが、毎日体操する自信はありません。
こうして体が固まっていく原因は、日々の会話不足、都合の良いフィードバック不足です。会話で自尊心や寂しさが満たされれば、かなり気持ちよく家事や外出に復活できることは、何年も実験済みです。あと無いものは好きなときに好きなだけ「利用」できる支援だけ。
天気かリバウンドかは知りませんが、不規則に頭の中で会話、会話、と要求が始まります。過去の会話の再生、それに答えたかった返答のシナリオ書き、その赤入れ添削、それに突っ込み、ひどいときは動悸になっても誰も止めてくれない。
それではジャイアンが本気で「利用」したいことって何なのでしょうね?
続けます。
先のコメントで妻の話を出した訳なのですけれど、以前のエントリーを読み返してみたところ、もしかしたら妻は思いこみ型ADHDなのではないかと思い始めています。
最近、全く話題にならない、思いこみ型ADHD
妻はACと思っておりましたが、ACなんじゃないの?
と、いっても全く回復の兆しがありません。
これはもしかしたら・・・
思いこみ型ADHDと自己中心型ADHDの相性はどうなのでしょうか?
考察していただけたら幸いです。
私も、luneさんのおっしゃる「あいまいなポジション」にいる為か、似たような感じ方をしています。
>ジャイアンの他者に対する「鈍感さ」と、自身の感覚の「敏感さ」
これは、コインのウラ、オモテ・・表裏一体であって、矛盾するものではない気がします。
自身の感覚の「敏感さ」を、なんらかの方法で軽減できたなら、他者に対する「鈍感さ」は、多少なりとも、是正されるのでは・・・と思うのですが。
人との関係から影響を強く受ける、ということも、自分自身ではよく感じていることの1つです。
>個体として独立した感じを保持するためのヨロイ
これは、いろいろなパターン(型)があるかと思いますが、もしかすると先の「鈍感さ」もその1つかもしれません。
そうすることで、折り合いをつけようとして・・・。
ある意味、「敏感さ」は、個体としての独立には、なくてはならないものですが、「敏感」が「過敏」になった時点で、様々な生きにくさにつながっていくのでは、と思います。
まして、ここにACが入ってくると、話はさらに複雑!
youさんのようにパートナーとの関係で寂しさを感じたり、Tamaさんのように、「羽を休ませてくれる場所」でいてくれたらありがたい。。と思ったり。
ただ、後者の時は、一抹の罪悪感というか、申し訳ない気持ちになりますね。
「利用」というコトバが頭に浮かびます。
>ジャイアンにとっては、「依存」より「利用」のほうが、はるかに健康的である。
自分がいま、ジャイアン寄りだなぁ・・・と思う時は、YANBARU先生のおっしゃる、
この立ち位置に戻ってくると、身体的にも楽になれそうな気がしますが・・・。
ここで、学ばさせてもらっていくうちに、ささやかながら「孤独」を選べる自分に気がつきはじめている感じがしています。
それが、ジャイアンのソレなのか、ACが取れてきているものなのかは、不明です。
身体症状としての過敏さも、これと平行して、何らかの変化があるかもしれないと、最近、思ってきています。
>「利用できるものはするまでだ」「自分にとってメリットかデメリットか」「友達はいらない」「こんなに俺は我慢して合わせてやってる」「世の中みんなバカばっかり」
・・・といったセリフは、ASな旦那が吐いていました。
私(ADHD?!)は、確かに人を『利用』していると認識することはありますが、
だからといって、周りの人間を「バカばっかり」とか「我慢して合わせてやっている」とか思いませんし、
ましてや「友だちはいらない」みたいなことをわざわざ口に出すことようなことはありません。
人と比べた自分なんて見ていませんから、
周りが「バカばかり」であろうが、「天才ばかり」であろうが、全く関係ないのです。
自分の中だけで、自分と戦っているのです。
昨日の自分と比べた自分、1年後の自分のある位置、など・・・
だから、『人を必要としない』につながるんです。
「友だちはいらない」というのとは、違うんです。
相手が、私を友だちという位置づけをするのなら、どうぞ!!と受け入れます。
しかし、それは『友だち』という名の、他の人とそれ程変わらない重さの関係であるのです。
人は居てもいいんです。
ただ、私の考え方や感じ方に踏み込んで欲しくないと言うことなんです。
いい距離を保って付き合えませんか?と言うことです。
自分が勝手に優しくしたり、助けたりしておいて、
それを、同じようにこちらにも求めるのは、ちょっと困るかな?ってところです。
これは、本当に私いち個人の考えなんですが、
ASの方は、それが受動型であろうが、積極奇異型であろうが、孤立型であろうが、
人を求めたり、人から孤立したり、人に依存したり、するなど、
人を意識し、人との関係に苦しみ、人を排除したがったりするというように、必ずそこには『人』が存在しているような気がします。
しかし、ADHDの人は、基準が『人』にはなく、常に『自分』が基準であり、自己突っ込みしたり自己評価を高めているのであって、人からのお褒めの言葉や人から必要とされる言葉を求めたりはしないと思います。
どうでしょうか?
『人を必要としない』私の理由はこんな感じです。
ジャイアンが本気で「利用」したいものとは何でしょうね。
結婚なり、嗜癖依存なり、『都合の良い最後の逃げ場』として使えるものでしょうか。
自分の頭の中をスローモーション再生しているうちに、ますます分からなくなります。
日々人に突っ込まないよう、意見しないよう、低い自己評価『私の努力は偉くない。私の努力は価値がない。』(私の場合です。これが一番筋が通って条件反射的に効き目があります。)を言い聞かせ、黙々と微笑んで黙っていても、形として受け身になってしまうので、どこかでひずみが見えてきます。私一人が殻を破って何かが変わるわけではありませんが、それでも職場のために、どこかでスイッチを入れて、謙虚に能動的になるときもあります。そしてもう一度自分で判断してスイッチオフにして何も感じなくする、この繰り返しが消耗します。オフならオフにずっとしていたいです。
第一選択肢として受動的ASだと思っていたのは、オフでもいつでも、私は身近な他人の思惑を読んでいるからです。私と二人の時と第三者がいるときの総合的態度の違いとか、それは暴くべきか黙認するべきかとかを天秤にかけています。
人を信じていないし、それだけ他人が分からないからです。
しかしこれも許されるなら完全オフにしたい。
社会勉強に好奇心でネットカフェに入ったことがありますが、快適でした。
積極奇異だと、この快適さは感じるのでしょうか? それとも、脳波が遅い私ゆえの安心感なのでしょうか。
電話一本でご飯を頼まれるために待機しているスタッフ。自分が責任を取る範囲は小さな小部屋の中だけ。縦の物を横に片付ける作業は、退室さえすればスタッフがしてくれる世界。
私の場合ですが、これが家族なら例え会話が無くても背中に気配を感じてものすごく居心地悪くなるシチュエーションです。家族は、日々家族のドラマも背負うからです。でも、だからといって発達障害の話が通じない人のために動きたくありません。動くと話さなければならなくなるからです。でも気になるのです・・・。
私は何なんだ・・・?
人も気になる、自分の話もしたい、「利用」が許される空間に囲われると快適。私のような当事者が、見つかりそうで見つかりません。
このメッセージは、ジャイアンに向けた(ジャイアンが言われたい)ことなのかと解釈したのですが、違ったかな。
ジャイアンが親しい関係の人に向けて発するべきメッセージ、というベクトルが逆のことだったのかな。すみません、読解力が不足気味です。
ジャイアンは人を必要としない、と同時に、人からも必要とされると苦痛(束縛感に苦しむ)なのだと勝手に解釈したのですが、正しいでしょうか。
あひるさんの指摘は、ここの、私の解釈の問題です。
夫は、結婚という形態になったことで、妻子から経済的・父として夫として「必要」とされる状態になったことで、うつ等に陥ってるのかな、と思ったので、夫に対して「あなたを必要としていないよ、自由に生きよ」と言ってあげると何かが変わるのかなと。
で、一般的な妻というのは、専業主婦であれば経済的に夫に頼るしかなく必然的に「必要」な状況ですし、子が生まれれば夫婦で共に子育てに携わってほしいという同列横並びのニーズが生じます。そうしたよくある普通の「必要性」というのが彼にとっては多大な苦痛であるのか、と思うのです。
私自身は、経済的には現在は夫のみの家計ですが、子供が成長したらいずれ働くつもりで、精神的には彼を頼ったり必要としていない(なんてクールで可愛くない女だろうと自分で思うくらい)ので、「あなたが必要だ」というメッセージを表立っても裏においても、出してないはずだと、そういうことです。
Tamaさんの、「来るもの拒まず、去るもの追わず」、びっくりしました、夫が学生の頃からよく言っていた言葉と全く同じだからです。やはりジャイアンの脳の構造というか思考回路はかなり類似性があるのでしょうね。
そして、もしかすると、風俗産業で働く女性にはジャイアンが多く、ジャイアン男性からすると、同じにおいというか、安らぎがあるのかもしれません。
渡れない川がお互いの間にある、と少し悲しいけれど納得し、依存させないよう注意した上で「羽休め」の場として役割を負うしかないのかもしれないです。
とても参考になりました。
>> 個体として独立した感じを保持するためのヨロイ
これは、いろいろなパターン(型)があるかと思いますが、もしかすると先の「鈍感さ」もその1つかもしれません。
> そうすることで、折り合いをつけようとして・・・。
言わんとしたのは,まさにその通りのことです。
「敏感」な皮膚を守るために,頑丈な鋼を身にまとえば,外界に対しては「鈍感」になります。
ついでに言えば,ヨロイの狭い隙間からながめる視界は狭く,目前のことにしか注意が向かなくなります。
すぐそばに他人が寄り添っていても,ヨロイの中からでは,相手の体温を感じることもできにくくなります。
だから,すぐそばにいる他人でも,視界からはずれた途端,平気で無視できたりします。
一緒に誰かと連れだって歩いていても,いつの間にか,ひとりでどこかに道草していたりする・・・
この記事の件について、どこで引っかかっているのかというと、私という人間が本気で
『自分のことをさておいて人のために動けるか』
『普段は自己管理できることが前提で、自分のことを後回しにしてでも人を思いやり無償で役に立とうと思えるか』
ということです。
この『自分を後回しにする』が難点ですが、私は自分をさておくと本気で忘れます。
ぜんそくや貧血になって周りを巻き込み、通院しながら自己突っ込みで落ち込んでいき、気管支拡張剤の副作用がさらに追い打ちを掛け、心のほうも自力回復不可能になっていきます。
その間は腕一本すら他人のために動かせません。動かすと、フィードバックがこないという当然のことで、誰を恨んでいいか分からなくなります。感情の渦が脳内だけで駆け回り、持て余し、それが身体が治った後もインストールされそうになって、危ないです。
横道に逸れますが、その思考や感情の悪循環から救われたのもリタリンです。
話を戻して、この過集中の抑制の効かなさ、会話にこだわると決めたら家事全部3日はたぶんやらない、仕事で何か動揺させられたら一週間はきっとやらない常識はずれ過ぎな実行機能能力を自分で分かってるから、『人を心から必要としたら大変なことになる』と思って心を閉じているのか、それとも本気で『人は利用だけしたい』と思っているのか、私は自分のことながら、その違いが分かりません。
分かったとしても、何かいいことあるのかというと、無いですが。
私の周りの人に、私を必要とするなと言っても、残念ながら全員分からなそうですね。
たぶん、それなりに読解力のある兄弟なら「理解はできない。でも必要に応じてくれないと血縁関係は回っていかない」などと、脳に火が点きそうな嫌みで返してきそうな気もします。
悔しいのは、思考が遅すぎてその都度言い返す言葉も思いつかないことです。
だから、何年後に来るか分からないもしもに備えてという狙いでも、ここで日々ジャイアンの皆さんのはっきり、ばっさりした突っ込み方を勉強しているのです。
あなたはすっかりm2氏に混乱させられてしまいましたね。「医師でもなく、このブログでの発言について何の責任も取れない立場を分かった上で、平気で人を混乱させる発言だけする」というのが彼のスタイルであり、存在そのものであると思います。
ここは私の責任のブログであるので、私は今発言しますが、「彼のすべての発言をまず頭から出しましょう」。混乱する前の冷静さに戻りましょう。
その上で、私に直接メールして、ある程度診断の相談をしましょう。
結局私が責任を負うことになったわけです。m2氏はこのことは十分に分かっていて、このブログ上で、人の責任で、人の土俵の上で、言いたい放題していたということです。
ジャイアンだけではなく、発達障害全体にとって、「中途半端にもっともらしいことを断言して、相手を混乱させる」という方法は非常に害が大きいですね。
おそらくm2氏はこのやり方でジャイアンの目をくらませて、自分の得意の共依存に引っ張り込む方法に熟達しているのでしょう。彼の誇大的な自信の根拠は、こうやって人を(ジャイアンを)コントロールできるという「感染力」に対する自信であると私は想像しています。
私は最近つくづく恐ろしくなります。
一度あなた自身のいろいろな情報をまとめて私まで直接メールしてください。すぐにはお返事できませんが私なりに考えてみます。
先生そこまでお気づかい頂いて、こちらこそすみません。
ヤンバル先生を悩ませてしまったことを反省します。私の失敗をはっきり言って頂いて大変分かりやすかったですが、きっかけの脳内ジャイアン説は私が勝手にひらめいた自説です。
だって孤独でしたから・・・インターネットでも・・・
しかし、私も甘かったのです。
インターネットの失敗は自業自得。大人としてわきまえているつもりです。
大変ありがたい言葉でしたが、ただのメールから多くの情報を読み解く大変さは私もなんとなく解ってるつもりです。
そんなストレスの掛かること、はいはいとお願いする気になれません。
送る側はすがる思いでも、受け取る側は責任の重さを感じるものだということは知っています。
それに、皆さんすがる思いでコメントをしている中、私一人がメール相談を許されたとあっては、他の依存心が強い人に先生のコントロール法を一つ教えたことになってしまう気がします。
コメントに書く人、読むだけの人の嫉妬心も心配です。嫉妬の心身の影響は、あなどれません。
しかしすぐに答えは出さないことにしました。
ありがたく、しばらく考えさせて頂くことにいたします。
ヤンバル先生、もし私のコメントがお邪魔でなければ、ですが、私への責任を感じて、ではなく、私の特性が面白そうだからという理由で詳しく教えて欲しいと言って頂けるのでしたら、こんな光栄なことはありません。
蛇足ですが、m2さんは男性だったのですか・・・!
おやすみなさい。
ほんとうに良かった、というかほっとしました。
成人になってから、こんなに人を求めない自分はどこかおかしいのかと幾度となく真剣に悩みました。
私の両親が強烈なジャイアンだったので、人と関わると面倒くさいと自然に学習してしまったのかと、勝手に思い込んで自分を納得させていました。
私に必要なものは、(できれば美味しい)食べ物と睡眠時間と住むところ、・・・他の人は別にどうでもよいのです。
家族に対しても執着していない、というかお互いに迷惑をかけないで暮らせればよい。薄情?ドライ?だと思います。
このブログに出会った頃の私は、苦しみの真ん中にいました。子どもの頃からずっと生きづらいと感じていて、どうしたら良いのか、必死で探していました。
ごく最近なのですが、自分らしい生き方の方針が決まってきたように思いましたので、書いてみます。
「自分が気持ちいいと思うことだけをする」
「物事の判断は、すべて自分でする。それが間違っていると言われても、自分を信じる」
「人と居る時間は、相手を気持ちよくしてあげる」
この信念を見つけられてから、すごく楽になれました。
エイトさんが書いている
>私に必要なものは、(できれば美味しい)食べ物と睡眠時間と住むところ、・・・他の人は別にどうでもよいのです。
これも生活の軸の部分で、強く感じます。
もちろん、今でもうまくいかないことは多いです。職場も定期的に変えますし、外見も別人のように変えることがあります。
お酒が大好きな時期もあれば、まったく飲まない時期もあります。統一感のかけらもありません。
>ここであらためて宣言しよう。ジャイアンは人を「必要」としない
本当に、こう言ってもらえると、ほっとしますね。
「この先、結婚もしないで、どうやって一人で暮らしていくつもり?」なんてことを言ってくる人もいますが、心の中ではこう思っています。
「結婚なんかしちゃって、この先どうやって自由を手に入れるつもり?」
今は、すべてのジャイアンが、自由を感じて生きられるようなビジネスモデルを発見、提案、提供できるようになりたいです。まずは自分が動かなくては!と、自らのモチベーションを上げる大事な要素になっています。
私もエイトさんと同じく
>私に必要なものは、(できれば美味しい)食べ物と睡眠時間と住むところ、・・・他の人は別にどうでもよいのです。
家族に対しても執着していない、というかお互いに迷惑をかけないで暮らせればよい。薄情?ドライ?だと思います。
・・・こんな感じで暮らしているので、思わず、書き込みたくなりました。
何度読み返してみても、皆さんのコメントを読んでも私には理解出来ずにいます。
『利用』と言う表現も同様です。
『ADHDでACでジャイアン』と先生から診断されているのにこの違いは何なんでしょうか。
主人も友人も私にとっては必要な人です。『いなくなってしまう』と非常に悲しく、つらいです。
逆は考えられるのですが。
つまり、『私が居なくても誰も困らない。むしろその方が周りの為。こんなに迷惑かけているんだから』
この理解の差はどこからくるのか。模索中です。
ちぃさん
私はちぃさんと全く同じ考えでした。今でも、自分に自信がなくなると、そこに落ちることがあります。
ちぃさんは、結婚している自分を「誰かに頼って生きている」と思っていませんか?
結婚や人付き合いの中で、「この人がいるから生活できる」「この人がいるから楽しい」という意識が根付いてしまうと、どうしてもジャイアンは後ろ向きになってしまう気がします。
ジャイアンは、偉そうにしてこそ、その性格が活きると私は思います。もちろん、マナーや礼儀を身に着けた上で。
謙虚なことは大切ですが、自分らしさを消してしまうなら、少し「謙虚をお休みする」ことで自分を取り戻せるかも知れない、と思いました。
ただ、私自身のことを言えば、ちぃさんのように考えていた時の方が、周囲となじめていました。今は自由で楽しく過ごすために、交友関係はかなり狭めました。結婚も完全にあきらめました。
自由の為に、自分を縛るあらゆる束縛を断ち切った状態です。
私自身も考えています。ちぃさんとは逆で、「このままジャイアン全開で走り続けて、大丈夫かな?」と。
転ぶまで走り続けると思いますが。。
(立食パーティーの会場の隅っこで独り言を言っているみたいなものです)。
自信にあふれているとき(躁状態ではなく,心にゆとりがある,というようなとき),明らかにじぶんのモードは「ジャイアン」に入っています。
ただ,ゆとりの部分で,適応的に振る舞おうとして,他人のことにくびをつっこみ,誰にでも親切で,そのときのパートナーに対しても最大限優しくしようとします。
でも,それって,本当に好きでしているのかどうか。
そういう人物(役割?)でいることを達成目標にしているから,そのようにできている自分を確認しているのかも知れない。
心のゆとりが目減りしていくにつれ,そういう人物でいつづけることが,結構な負担になっていって,徐々にウツっぽく,あるいは短気になり,いろいろなことがみんな荷物に見えてきて,すべてを放り投げたくなってしまう(最近まで我慢してきましたが,いくつかの部分について,最近ついに本当に放り投げてしまいました)。
自分は中途半端で,純系のジャイアンではないからなのか,まったく人を必要としない,と思える時期(時間)もあれば,どうしても誰かにいてもらいたくて仕方がない時期(時間)もある。
この“誰かにいてもらいたくて仕方ない自分”をすっきり見限ることができないので,おなじようなところで悪戦苦闘しているひとを見かけると,どうしてもそこへ引き寄せられてしまうのかも知れません。
根がジャイアンであっても,ヨロイの造りはひとそれぞれなのかなと思っています。
育ち方やら,経験した人間(関係)やらの違いからくるものでしょうか。
しっかりしたヨロイを身にまとうことができたジャイアンと,そうでないジャイアン(例えば,子どものころにジャイアン母から徹底的に「強情な自分」を叩きのめされてきて,ヨロイがヨロイの機能を果たしていない元ジャイアン)とでは,「人を必要としない」と思い切れるかどうかにだいぶ差があるような気がします。
※ 偉そうなことを言っているかも知れません。済みません。先生,皆さんの害になるような内容でしたら,削除してください。
>「利用できるものはするまでだ」「自分にとってメリットかデメリットか」「友達はいらない」「こんなに俺(私)は我慢して合わせてやってる」「世の中みんなバカばっかり」
私の場合はですが、本当はごく平凡に友達というものが欲しかった。だけど対人恐怖のためそれがかなえられなのがつくづく分かった。自傷や反社会的な行動に出る代わりに、このような言葉を自分の脳内に無理やり刻みこむようになりました。そうしないと、「人に必要とされていない自分は無価値だ」とただ落ちぶれてゆくから。そんな事は全く思ってないけれど、そう思わないと生きていけないというか。
本当は依存できる相手が欲しいのに、数少ない友人達はいたって真っ当な人達で、さくさくと違う友人を手に入れて「私が必要。私しか居ない」と言われる事はない。
そうなると、はらわたが煮えくり返るような思いでいっぱいになり、自分でもどす黒い感情で一杯になるのです。
相手の関心が自分に向くように、依存に引きずりこもうと考えてしまう自分が恐ろしくなります。
ただ、その方法が「どんな手段を使っても・・」というひどい執着なので、愛着というよりも自分が優位に立ちたい、中心になりたい!というジャイアン的な考えなのかな・・と思って迷ってきました。
理由は以前の記事でNHKの主人公がジャイアンのACだったというのを拝見してからです。あれは私の昔の姿ですから・・本当にそっくりです。本当の所は、能力が無いために人の中心になる事が出来なかったから、受動型のようになるしかなかった→けれど本音は自分がずーっと中心で生きたかった。それなのに他人の一番に選ばれない事(依存の相手に選んでくれない)が、非常に悔しい、情けない。何としてでも相手を自分に依存させて、最終的には見捨ててやる!一人になった時の空しさを味あわせてやる・・と思っていたんです。今まではこれは愛着だと思っていたけど、正直分からなくなってます。
これは私(you)の配偶者の発言です(ひまわりさんと間違われておりますね(笑))。
コメントを読むとASの方に似たような思考があるようです。夫は依存型ジャイアンだと思うのですが、ASの要素も多分にあるのかな。たしかに彼の父親は完全な積極奇異型ですから、影響を受けている可能性高いです。
ジャイアンは、普通は、人に愚痴を言わないのですか?
夫は口を開けば、私に愚痴ばっかり言ってきた人生です。様々なことをエンドレスで繰り返す感じで、聞いてるこちらがしんどくなってきて、「私は子育てで手一杯、もう聞きたくない!」と宣言したら、振り返って考えるに身体症状がひどくなったような気がします。なんだか私はゴミ箱にされているような気分だったのです、あっちは言ってスッキリ、吐き出すことで消去しているような感じです。
私と出会う前は、母親に全部自分に起きた事などを話す息子だったようです。
もしかすると、これって「依存」だったのでしょうか?本来は自分の中で噛み砕いて思考して処理せねばらなないことを、全て相手に放り投げる(先生の言う丸投げか?)ことで逃避してきたという。
女性と見るや、「甘える」「子供のように振舞う」という行動パターンです、一対一の男女として大人の関係にはなれない人間だなあと思います。そして甘えを許してくれない厳しい女性(例・私の母)には、まるで殺すぞくらいの敵意を持つような感じです。すごく幼稚だと思います。
私も彼に甘えを許さなくなったとたん、「切捨て」られたわけです。本人も自覚しているようですが、結局、止まり木から止まり木へ、一時のうわべの優しさを求めて女性を渡り歩くかも、という予感がするようです。それって、幸せなの?むなしくないの?・・・多数派の基準で考えてはいけないことはわかっていますが、つい、問いかけてしまいます・・・。
実は、1年近く付き合った彼がおそらくジャイアンでした。彼はAC理論の信望者で、私にも「君はACだ。ACを克服しろ」が口癖でしたが、今思うと、NHKの「ちりとてちん」のカップル、もしくは佐々木夫妻のようだと周りからは言われてました。
彼の、もともと「砂漠のライオン」だった私を依存に引きずり込もうとするエネルギーは凄まじいもので、そのせいか、(あるいは自分の内的衝動からか)彼との交際を止めるボーダーライン(?ADHDかも)の母親も、私がたびたび手をあげようとするので出て行ってしまいました。今は後悔しています。
とにかく、私が自由に動こうとすると何としてでも阻止する・・・別に彼だけの責任ではなく、ついていった私も今思うとASだったのですが、(彼も、途中から「君はACではなくASの可能性が高い」と言い出しました・・・)が、その主治医とか訓練機関まで無理強いするので、とうとう決裂しました。
「自分の意思で僕に尽くせ」というのが彼の口癖でした。この1年間、あらゆる相談機関や友人に電話をかけまくり、落ち着いた心境になれませんでした。
とうとう、ASである父が、彼と殴り合い寸前の喧嘩をして、別れに至ったのですが、未だに強い頭痛と抑うつ状態が続いています。
Tamaさんにも同じ様な時期があったんですね。私だけなのかと思っていました。
>ちぃさんは、結婚している自分を「誰かに頼って生きている」と思っていませんか?
確かに経済的に主人に頼っています。また、今現在心身的な問題で家事はおろか、自身の衛生管理すら出来ていません。
自身の衛生管理に関しては主人に頼る事でも頼れる事でもないので、最低限のラインで踏ん張っています。が、買い物は主人と一緒でないと怖くて外に出られず、料理も出来ないので、主人が帰宅後作っています。時々、調子が良い時は簡単な物なら作れる様になってきました。
>結婚や人付き合いの中で、「この人がいるから生活できる」「この人がいるから楽しい」という意識が根付いてしまうと、どうしてもジャイアンは後ろ向きになってしまう気がします。
「この人がいるから生活できる」
と言うよりも、『この人と一緒だから生活できる』で、
「この人がいるから楽しい」
と言うよりも、『この人と一緒だから楽しい』
になりますね、私の場合は。細かいようですが、『が』と
『と』の違いで私にとって意味合いが大きく変わります。
『私は依存なんてしていない!!』と、胸を張って言えません。むしろ、『依存してるんだろうな・・・』です。
それを認めたくない自分も居ます。
依存を断ち切り『ジャイアン』に立ち返るか、このまま『依存』にずるずる埋もれていくのか、はたまた『依存型ジャイアン』なのか。
スレッドに対してコメントが出来るだけの努力をしていないし、『質問コメント』をして教えてもらうだけ。『質問コメント』を見ても私は何のコメントも出来ない。皆さん凄く頑張ってらっしゃるんだなと感心を超えて感動しています。
体調云々は言い訳(先延ばし)に過ぎないのかもしれません。『己の足でしっかり立つ事』その為に今の私が出来る事は何なのか。『ジャイアン脳』を使って考えます。
Tamaさん、ありがとうございました。
私は、自己つっこみが強いので、ミーティングなどで他の定型発達ACから、「気づき」を強制されるほどいやな事はありません。自分でも、理解してある程度納得している事を、他人から突っ込まれ、なおかつその人との依存関係に引き釣りこまれるのが非常に辛いです。
私も、昔はネットカフェが憩いの場だったんですけど、周りのACサバイバーが、「人との交流」を強制するのが苦しくてたまりません。
> と言うよりも、『この人と一緒だから生活できる』で、
> 「この人がいるから楽しい」
> と言うよりも、『この人と一緒だから楽しい』
> になりますね、私の場合は。細かいようですが、『が』と
> 『と』の違いで私にとって意味合いが大きく変わります。
細かい語感にこだわるところに共感してしまいました。
『と』を使って言うときには,主語が省かれていますが,そこには(私は)が入りますよね。
つまり,最初にくる主語が旦那さんではなく,ちぃさんでないとだめ,ということでしょうか。
(自分の人生の主役の座は自分だ,と)
そのうえで,やっぱり『と』が大事なんですね。
旦那さん『と』(セットの状態)が大事,という感じ。
誰かと一緒,誰かとつながっている感じ,への憧憬は,多数派だろうが発達障害者だろうが,あるものかも知れません。
でも,特定の誰かと一緒でなければ,と思い込んでしまうと,途端にジャイアンは自由を失い,生きる力を減じてしまうように思います。
ジャイアンは人を必要としない,と宣言することの意味って,そのあたりに関わることなんでしょうか。
私はいわゆる「孤立型」で、それなりに電話する友人はいるものの、他人に依存した事がありませんでした。彼と会ってから、「自己丸投げ」の依存がはじまりました。・・・それは、一方ではとても心地よかったのですが、彼の横暴は増すばかりで、自己評価を傷つけられては、私のほうも癇癪を起こす日々が続いていました。
友人は「とにかく話し合え」と言いましたが、対話は一応出来るものの、話し合いに全くならず、もっぱら私が泣いてばかりでした。彼は援助職についていることもあり、自己に異常な自信を持っていました。
一番、ハードだったのは、彼の「自己流AC克服法」をやらされたことです・・・要するに、医師もカウンセリングも無視して、ミーティングへ行けと言うのですが、私はASの特性上、他人と苦しみを分かち合うという主旨についていけず、大変辛い思いをしました。
今思うと、彼がASで私がジャイアンだったのかなとも思うのですが、どうして最初から「お互いに必要はしない。でも理解したいし、ともに考えたい」というスタンスが取れなかったのか、残念でなりません。
私は、行き当たりばったりでその時結婚したいと思ったので結婚し、子どもができたから産んだだけなのです。
結婚するまで自分は家事、育児が得意だと信じて疑わなかったから浅はかです。
私は典型的な子どもをもつべきでないタイプかもしれないと思います。
それでもどうにか投げ出さずに10数年経ってみたら、婚姻届をだしたのだから「夫」、間違いなく私が産んだのだから「子ども」と意識するくらいで、家族愛とは程遠いドライな生活をしているだけなのです。
やっぱりジャイアンは精神的に自由、独立してこそジャイアンですよね!
>自由の為に、自分を縛るあらゆる束縛を断ち切った状態です
なんだかTamaさんに拍手したい気持です。
相手側だけではなく、もちろん自分側だけでもなく、もっと、遠くにあるものの為に・・・それでも、十分、成り立つのではないかと。
「ジャイアンは助け合いが出来ない」って、認めたくない、認められないからくる、あと付けのへ理屈かもしれませんが、今は、そう思いたい・・・そんな感じです。
「個」としての確立が、進めば進むほど、孤独感は増すと思います。
本当に孤独な人ほど、助け合いができるともいいます。(多数派の世界では)
その意味で、ジャイアンの孤独(あいまいジャイアンの孤独・・・かも)は通過点にすぎないのでは・・・と感じているところです。
「ジャイアンは人を必要としない」に関して、いろいろな方々がその感覚を表現してくれていますが、あいまいなポジション故か、どうもACか多数派かは不明ですが、何かしらの思考が邪魔して、スッキリ着地できません。
「人を必要としている」と、自分が思っている時、実際に人と接触し、もちろん、そこで癒しや安らぎも感じますが、“どうも何か違うみたいだ” やっぱり、自分は人を必要としていない?? 自身の何かは、人との交流で解決できる類いのものではない、と気づく。
逆に、人を必要としていない時であっても、人と接点を持つ機会があると、人との交流の良さや心地良さが以外と、長続きしているような・・・そんな体験を、ここを読み始めて幾度かしてみて思うのは、「人を必要としている」ようだ、という気持ちを
「見限る」のではなく、
「見送る」という感覚。
人と一緒でもOKの自分は、今ではないだろうな・・と。
そして、もう1つ考えているのは、”共通の目標ないし、目的“を見つめる有用性。
少し前のコメントで、luneさんが
>>ヨロイの狭い隙間からながめる視界は狭く、~中略~ だから、すぐそばにいる他人でも視界からはずれた途端、平気で無視できたりします
と書かれていましたが、(度々、すいません。ポジションが似ているためか、反応してしまいます。)
この場合の「視界」とは、実際の目に見える視覚的なものもそうですが、精神面の「視覚」も含まれていませんか?
例えば、何かに感動したとして、(キレイな景色でもなんでもいいのですが)、多数派の方々は、一緒にそれらを体験した人(恋人などなど)と、共に味わう、感動し合うという精神行動が一般的だと思います。
しかし、ここで述べられているADHD的脳もしくは、何かしらのパターンを身に付けている場合、外界、特に「人」がズッポリ抜け落ちてしまう。「自分の世界に入ってその感動を味わう」というように・・・。
言ってみれば、他人はカヤの外、置いてきぼり、です。(笑)
では、多数派の方々は、そういう経験はないのかというと、あると思います。
好きなアーティストのライヴに友人と連れ立って行っても、いざステージが始まると、友人の存在も(我も)、時間も忘れライヴに没頭する。
それが、「非日常」であり、「命の洗濯」でもあるわけですが、少数派の場合は日常的にそれが、起きている。
このズッポリの効用として、ライヴの例で言うと、隣席だった全く知らない赤の他人同士が、交流をもつきっかけとなり、結びつく動機として働く。
この例でいくと、同じアーティストを応援するファン同士・・・という共通項、そういうものを確保しさえすれば、関係性は成立しうるのでは、と。
前記事の「ジャイアンは助け合いが出来ない」・・
このあと、後半の以下のくだりへと、つづきます。
愛に、様々なカタチがあるように、(多数派の世界でそう言われているように)、ならば「助け合い」も不定形でいい。
パソコン、慣れていなくて、読みにくくなってすいません。
3分割で、送信しました。
> 少し前のコメントで、luneさんが
> >>ヨロイの狭い隙間からながめる視界は狭く、~中略~ だから、すぐそばにいる他人でも視界からはずれた途端、平気で無視できたりします
> と書かれていましたが、(度々、すいません。ポジションが似ているためか、反応してしまいます。)
> この場合の「視界」とは、実際の目に見える視覚的なものもそうですが、精神面の「視覚」も含まれていませんか?
たびたび発言に触れていただけて光栄です(笑)
おっしゃるとおりの意味で書きました。
そもそもヨロイは喩えですから(喩え話が文字通りのリアリティと区別がつかなくなる,ということもありますが)。
> この例でいくと、同じアーティストを応援するファン同士・・・という共通項、そういうものを確保しさえすれば、関係性は成立しうるのでは、と。
何らかの“場”を共有しているとき,たとえヨロイを身にまとったままで,直接肌で(これも喩えです)触れあえなくても,“○○同士”という「関係」が成立する,ということかも知れません。
やっぱり、ジャイアンに「恋」は向いていないような気がいたします・・・孤独を前提とした「理解」「愛」はいいけど、依存を前提にしたASとの「恋」は、自分を駄目にするだけのような気がする・・・(人生経験としてはありかも知れませんが。)
ジャイアンACと、いわゆる定型発達AC(!?)の違いって、ジャイアンAC(なんか、箱入り娘が多いような気が・・・)は「共依存」すると苦しいけど、いわゆる定型発達AC(アルコホーリクが親とか、肉体的虐待を受けたとか)の人って「共依存」の状態のほうが楽しいし、安定してるみたいなんですよね・・・これは、私には少なくとも理解しがたい状態です。
家のジャイアン母も、結局AS父と別れて落ち着いてますしね。あくまで一家庭の例に過ぎませんが、ジャイアンには「夫婦」とゆう形より、「同志」のほうがやっぱりいいんじゃないかなぁ。
NHK「ちりとてちん」の場合は、あれは最初は「落語」を夢にした同志的夫婦ですよね。「のだめカンタービレ」は「音楽」の同志だし、「佐々木夫妻」の場合は「弁護士」の同志です。・・・そういう場合は、比較的まっとうに安定した関係が持てるのかな、とも思います。
コメントを書く