(前項に続く)

 別の言い方をすれば、「ただ多数派に合わせる、表面上同じになる」という考え方では、価値観の中で自分を裏切る部分が必ず出てきて、それが新たなストレスの原因となり、病的反応につながる。

 例えば長年の意識的理論的な推論の努力の積み重ねにより、状況がかなりの程度多数派と同じように理解できたとしても、行動として自分が建前と本音を使い分けることで「自分はウソをついている」と自分を責める結果になる。

 こういうわけで、最終的に多数派に合わせて「普通」と志向する場合でも、当たり前だが(不可能なので)「多数派と同じ意味での普通」に至る訳ではなく、「発達障害の脳のあり方を前提として多数派に合わせた普通」が可能なだけである。

 だから、診断がついた段階で、仮に「普通」を志向する場合であっても、表面的に多数派と同じになることを追及する努力は「自分を裏切る」ことになるだけで、結果として効果も少なく、逆にせっかくの良い所まで台無しにしてしまう「中途半端」な方向性であるということになる。

 大事なことは「自分の脳の働きに一度立ち返る」ということだ。発達障害として自分の脳の働きがどのような具体的な特徴を持っているかということについて細かく正確に理解し、多数派を観察することで自分と多数派の行動パターンとの違いを正確に理解し、どの点で多数派に合わせ、どの点は自分の良いところとして残すか、「自分で適応の形を考える」ということになる。

 まず自分の脳に合った生き方に立ち返り、その原点から、多数派と折り合いをつける共存のしかたについて自分で結論を出すという作業を行い、その結果が出てから本人の適応にしても周囲からのケアにしても方針が立つということになる。一般的には思春期に本人が考えるべきことだろう。

 これが「脳に合った生き方」と私が呼んでいることの中身である。

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 (最近成人発達障害当事者会の集まりでお話した「脳に合った生き方」という講話から)。

 発達障害の当事者は多数派の世界の中では多数派と比べて「状況理解の不足」「注意集中のコントロールが困難」といった能力的な「障害」を持つのは確かだ。

 ここを出発点として、「足りないところを補うケア」という考え方は単純で、比較的障害の軽い人(とACの重症な人)はこう考えることが多い。

 この「ただ多数派に合わせる、表面的に多数派と同じになろう(しよう)とする」という適応やケアの発想が、実は自然のようで大きな困難や問題点を伴うことが私は分かってきた。

 発達障害の脳の「多数派との違い」は、「直観的に状況が読めない」「注意集中の制御が困難」というだけでなく、実はその能力のパターンに合わせた「価値観の違い」まで伴っている。つまりこの能力に合わせたそれなりの脳の首尾一貫性を保つために、脳に合った基本的な「価値観」がすでに出来上がっているということだ。免疫システムと同じような生体の自己防衛機能のひとつだろうと私は考えている。

 例えば「本音が本当ならば建前はウソ」という価値観は、多数派とは明らかに異なる。脳全体として、ただ特定の能力の不足だけがあるのではなく、その不足を特徴の一部分として含んだ脳の全体的な独特のあり方が出来ているのだ。

  ここで非常に大事なことは、その結果「脳の違いは必ずしもデメリットばかりではない」ということになることだ。発達障害独特の率直さ、正直さ、自分の利害を顧みない行動力といったかえって多数派には見られない利点がこの「違い」には含まれている。そういう意味では「良い所まで変えて多数派と同じになる必要は無い」のだ。(続く)

 (この意味では発達障害はただの障害、能力の不足というだけでなく、「価値観を含むひとつの別の文化」という見方が有効であると私は考える)。

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