最近のスレッドで多数派との共存が話題になっていたのでちょっと触れておこう。
注意深く観察すると、有能な管理者は発達障害の当事者を適材適所でうまく使っている状況を発見する。
例1、介護のヘルパーなどのサービス関係で、「処遇困難利用者」の担当としてADHDやASの人が活躍している。この他、コールセンターなどでも「クレイマー」対応に力を発揮するケースは多い。
例2、(私の相談に乗っている当事者で)中学の先生をしているADHDの人が、校長にカミングアウトして、「特別支援担当」として実に良い働きをしている。
例3、受付業務の中で、依存的で特別扱いを要求する困ったクライアントを全く摩擦を起こさずあっけらかんと諦めさせるのに非常に使える明るいADHDの人。
この他にも、「正直、公平で偏見が無く先入観にとらわれない豊かな想像力を発揮する」ADHD、相手(利用者)を「恐縮」「気兼ね」させず、対等な「人間対人間」で多数派にはとても真似が出来ないような利用者ーサービス提供者関係が実現する、ASの人をうまく使うと非常に面倒見の良いところがある、など発達障害の生かし方はよくよく見れば非常に多い。意外に対人関係で活かせるのが盲点かもしれない。
最近最低3代のNHK朝ドラマはADHDが主人公像であると思うが、決まって、「ちょっとひねくれた人を素直にさせる」ような役回りで力を発揮する。「車寅次郎」は渡世人のジャイアンだろう。
昔の「任侠」という道徳は私には「AS的道徳」に見えて仕方が無い。義理人情、恩義に厚く、筋を通した生き方。
私の妄想だが、この世に発達障害が一人も居なかったら、「巨悪」は決して表面化せず、学校の「いじめ」もマフィア化して、世の中は非常に息苦しいものになるのではなかろうか?
エジソンやアインシュタイン、織田信長を引き合いに出すまでも無く、少数ながら発達障害の存在があってこそ世間が成り立っているとは言えると私は思う。
(前項に続く)
別の言い方をすれば、「ただ多数派に合わせる、表面上同じになる」という考え方では、価値観の中で自分を裏切る部分が必ず出てきて、それが新たなストレスの原因となり、病的反応につながる。
例えば長年の意識的理論的な推論の努力の積み重ねにより、状況がかなりの程度多数派と同じように理解できたとしても、行動として自分が建前と本音を使い分けることで「自分はウソをついている」と自分を責める結果になる。
こういうわけで、最終的に多数派に合わせて「普通」と志向する場合でも、当たり前だが(不可能なので)「多数派と同じ意味での普通」に至る訳ではなく、「発達障害の脳のあり方を前提として多数派に合わせた普通」が可能なだけである。
だから、診断がついた段階で、仮に「普通」を志向する場合であっても、表面的に多数派と同じになることを追及する努力は「自分を裏切る」ことになるだけで、結果として効果も少なく、逆にせっかくの良い所まで台無しにしてしまう「中途半端」な方向性であるということになる。
大事なことは「自分の脳の働きに一度立ち返る」ということだ。発達障害として自分の脳の働きがどのような具体的な特徴を持っているかということについて細かく正確に理解し、多数派を観察することで自分と多数派の行動パターンとの違いを正確に理解し、どの点で多数派に合わせ、どの点は自分の良いところとして残すか、「自分で適応の形を考える」ということになる。
まず自分の脳に合った生き方に立ち返り、その原点から、多数派と折り合いをつける共存のしかたについて自分で結論を出すという作業を行い、その結果が出てから本人の適応にしても周囲からのケアにしても方針が立つということになる。一般的には思春期に本人が考えるべきことだろう。
これが「脳に合った生き方」と私が呼んでいることの中身である。
(最近成人発達障害当事者会の集まりでお話した「脳に合った生き方」という講話から)。
発達障害の当事者は多数派の世界の中では多数派と比べて「状況理解の不足」「注意集中のコントロールが困難」といった能力的な「障害」を持つのは確かだ。
ここを出発点として、「足りないところを補うケア」という考え方は単純で、比較的障害の軽い人(とACの重症な人)はこう考えることが多い。
この「ただ多数派に合わせる、表面的に多数派と同じになろう(しよう)とする」という適応やケアの発想が、実は自然のようで大きな困難や問題点を伴うことが私は分かってきた。
発達障害の脳の「多数派との違い」は、「直観的に状況が読めない」「注意集中の制御が困難」というだけでなく、実はその能力のパターンに合わせた「価値観の違い」まで伴っている。つまりこの能力に合わせたそれなりの脳の首尾一貫性を保つために、脳に合った基本的な「価値観」がすでに出来上がっているということだ。免疫システムと同じような生体の自己防衛機能のひとつだろうと私は考えている。
例えば「本音が本当ならば建前はウソ」という価値観は、多数派とは明らかに異なる。脳全体として、ただ特定の能力の不足だけがあるのではなく、その不足を特徴の一部分として含んだ脳の全体的な独特のあり方が出来ているのだ。
ここで非常に大事なことは、その結果「脳の違いは必ずしもデメリットばかりではない」ということになることだ。発達障害独特の率直さ、正直さ、自分の利害を顧みない行動力といったかえって多数派には見られない利点がこの「違い」には含まれている。そういう意味では「良い所まで変えて多数派と同じになる必要は無い」のだ。(続く)
(この意味では発達障害はただの障害、能力の不足というだけでなく、「価値観を含むひとつの別の文化」という見方が有効であると私は考える)。
小学校5年以上、または本人が多数派と違うことで自己評価が低下しているケースは本人への発達障害の告知と説明が必要だ。
もともと小児科系のサポートシステムでは、基本的に「児童」を扱うので周囲が理解して合わせるだけでも問題ないのかもしれないが、思春期になると本人への告知と説明が必要になる。
たしかに単純な多動は高学年になると収まって来るが、今度は状況理解が出来ない障害のために同年代と付き合うことが困難となり、表面的には適応しているように見えるケースも二次障害が深刻になっていることが多い。
私は大人になってからの発達障害のケースから入ったので、告知と説明は「当たり前」だ。小学校5年以上は大人のモデルで考えるほうが有効だと私は考える。
診断した医師が責任を持って説明するのが一番であるが、もしも医師が説明を渋るようであれば、本人に「おともだちシリーズ」(後藤のHPの「本の紹介」参照)などを見せて、当てはまることを情報提供するという方法もある。本人が希望すれば決まった通院先があっても、「セカンドオピニオン」で発達障害支援センターなどを受診すれば良い。
もうひとつ、本人が認めない場合には、「親などの発達障害を先に説明する」という非常に有効な手がある。お母さんのことだと言って先に内容を説明しておき、「あなたも同じだと思う?」という方法だ。
私のHPの「自己診断ガイド」を使う方法もある。
いずれにしても、説明する中身は、「脳が不器用に出来ている」「脳の働きの少数派」という説明で、多数派との違いを冷静に観察し、自分と多数派の二つのスタイルの使い分け、調節、適宜妥協が出来るようになることが目標だ。
診断がついていて本人に告知されていないケースは、出来るだけ早く告知することを主治医に相談したほうが良いと私は思う。本当に自分が周囲と違うことを自覚しているケースは、説明されたほうが安心するからだ。
「言ってやってもらっても駄目、意味が無い」という感じ方はAC特有の発想であると言われているが、表面的にはACでないジャイアンにも受動型ASにも同じような発想と行動パターンがある。
①ACの場合
「自分がそんなことを口で言おうものならとんでもないわがままと思われて嫌われる、見捨てられるから言えない」。幼少期の家庭環境の中で「本当のことを言ったら見捨てられる」という不安が強かったことから来る認知と行動のパターンである。
②ジャイアンの場合
「人にお願いすると後で自己突っ込みがきついのでお願いはできない」「自分で責任を取りたくないのでつらくてもお願いはしない」。独立独歩の中心志向と責任を取りたくない志向が両方とも非常に強いので、自分からお願いするのは都合が悪い。
③受動型ASの場合
「そもそも自分から動く必要自体ありえない」「当然相手から動くべきだ」。依存させることを約束したわけだからその相手に対して自分から動く必要は感じない。結果自分のほうからは絶対に電話しなかったり、言葉では何も言わないで、聞きもしないで相手のことを断定することが多い。
「言ってやってもらっても駄目なのよね」「そうそう私もそう思う」と言っていてもお互いに全く違う意味で言っていることが頻繁にありそうに私は思う。。
ASとACの関係は複雑で微妙だ。積極奇異型も受動型もどちらも「表面的には」AC的で、「ASのAC」というと、このもともとAC的なところと、二次障害として変わってACになったところとの区別が非常に難しくてかえって話が分かりにくくなるので、私は最近はあえてこの言葉を使わなかった。
それが、ASの「型」について考える際に、よく「途中である型から別の型へ変わった」と言われる人が多いところで、やはりASのACを考えるべきだと思えてきた。
私の相談に乗っているASの人の多くは、積極奇異型は積極奇異型、受動型は受動型で、私が見る限り「はじめから脳が違う」ように思える。とても相互に移行するようには見えない。
ただし、いくつか状況による行動の変化はある。例えば、「積極奇異型ASが、愛着の相手には尽くす形で非常に受動的になる」ということや、「受動型ASは受動型なので、もともと相手や環境によりいくつかの顔を使い分けている」「特に受動型ASは依存できそうな愛着の相手にはかなり絶対的な要求を突きつけ、出来ないと追窮する」(世間に対してと愛着の対象に対しての態度が積極奇異型と受動型で対照的)など。
だから「場面によって違う」「(親に対して等)相手によって違う」ことは普通にあるとして、本当にこれらを超えた「型」自体の移行があるのかどうかが根本的な問題だ。例えば中心志向の有無などははっきり違うように思える。
この問題を考える時、「積極奇異型ASがACになっていたのが、ACの部分が回復した」という風にACを考慮して考えたほうが説明として分かりやすいのではないかと思う。
上記の、「親に対して」とか、「愛着の対象に対して」という状況による態度の変化を除外して、それでも残る「型の移行」に見える現象は、結局「環境のために後天的にACになっていたのが回復した」と説明できるのかどうかを考えている。
例えば積極奇異型ASの人がボーダー(境界例)的になった場合、「行きずりの関係で不安を解消する」というもともとの積極奇異型にはあり得ない様な(受動型なら当たり前の)行動が、ASのACとして説明出来るように思う。
ASの方、ASの関係者の方の意見を聞きたいので、よろしくお願いします。
よく見るとASの教員もちょくちょく見かける。ADHDと同様「一般のビジネス社会よりは適応しやすい環境」で、「試験に受かればなれる」から、適職のひとつではあるだろう。
ASはもともと面倒見の良いところもあり、教師として立場上上に立つことも出来、発達障害的に正直なところは小学校3年生くらいまではかえってプラスに働く可能性もある。
一時的には非常に優れた先生と言われることもある。これはAS特有の「ノンバーバル(非言語的)にコントロールする」能力を使って、子供たちを良い意味では「乗せる」、悪い意味では「威圧する」形で子供たちをコントロールできるからだ。
(コントロールが一気に外れるので、直後に担当する次年度の先生が苦労することになる)。
思春期以降の生徒の場合には、キャラクターで「オタク」的に尊敬される場合を除き、不合理な面が目立ちすぎて生徒をコントロールすることは難しいだろう。
低学年では、合理的なADHDの子供などはうまく「乗せて」もらって非常に快適に過ごせる可能性もある。
問題はAS教師のノンバーバルなコントロールに反応する児童生徒がどうなるかだ。必発で起こるのは受動型ASの子供が過剰反応を起こし不登校となる。「学校を異常に怖がる」ようになり、頭痛や下痢などの身体症状が激しくなり行けなくなる。
ジャイアン生徒ははうまく依存して優等生になるか、反抗し続けるかどちらかになるだろう。ジャイアンの場合は、よほどAS教師が徹底して公平に振舞わないと、「生徒を贔屓する」ことに反発することもあるだろう。
時々校長になっているAS(受動型と積極奇異型と両方のパターンがある)も居られるが、積極奇異は専制的になり、受動型の場合責任を負い切れなくて苦労するようだ。
診療内科では校長としょっちゅう喧嘩して転勤を繰り返したり、不適応でうつになり休職になるケースもたまに見かける。
この場合もジャイアンと同様、自分の発達障害を理解して「井戸の中」に自分がいることをきちんと自覚して、理解不可能な生徒を抹殺しないように本人が努力することが重要だ。
「女王の教室」というドラマがあったが、あれはASかジャイアンか? どちらにも見える。
学校の先生になるには民間企業に比べれば実は社会性は比較的問われない。医師と同じく教育学部の入試と教員採用試験に受かればなれる。仕事についても相手は世代の違う子供であり、極端に言えば強引にでも「仕切れる」立場に居る。
もっとも同僚や上司との付き合いではこの同じ意味において(おそらく同じ発達障害仲間が多くいるので)一般社会よりも苦労するところがありはする。私は心療内科の臨床の場で休職中の教師もいくつかのケースの話を聞いてきた。
さてジャイアンの立場からすると、結果的には教師は適職の一つではある。権力により優位に立ち「仕切れる」立場が初めからあり、ADHDの合理的で公平な部分と、子供たちのために一生懸命になる特性をプラスに生かせば、ADHDであることを強みにすることまで可能である。
「一人の先生が超人的な取り組みで学校を変えた」というような話はおそらくジャイアンの先生が強迫的な行動力の末に引き起こしたのだろうと私は想像する。
ただし、明らかなことだがジャイアンは思い込みが激しく、しかも「表面的」なものの見方をしたり、ジーキルとハイドの相矛盾することを平気で言ったりする脳の働きの厳然とした傾向があり、エゴを振り回した場合に弱い子供を引きずりまわす可能性が常にある。
受動型ASはぶら下がるのでかえって安定するだろう(翌年不登校になる)が、積極奇異型ASの児童生徒がジャイアン教師と合わないで不登校になることが多いようだ。
学校にASの説明に出向いて「無理に登校を強制すると病気になる」ことを3時間も説明したのに、校長から「いかにもジャイアン」という感じの「はじめに登校ありき」という表面的な発想を繰り返されて絶望的な気持ちになったことがある。
だから、教師が適職となるには、ジャイアンは徹底した合理的な親の元で苦労して二次障害となり、一時病的になり、ACを自覚して低い自己評価の中で自分に常にブレーキをかける思考を身につけた場合のみということになる。
理想を言えばジャイアン型ADHDであることまで診断がつき、自分の発達障害を理解してマイノリティーの自覚をするまで行き、教師自身が通院して定期的なコーチングを受ける体制が確保されれば、ほぼ確実に「使える」教師になる。
私は学童期の発達障害のケースで、「不登校」の指示をすることがある。学校は基本的に「はじめに登校ありき」という発想をする事が多いので、主治医からの指示で学校からの無理な登校への働きかけをストップするためだ。下痢や腹痛、頭痛などの身体症状が激しいケースなどが多い。
ただ実際無理に登校しなくてOKとしたものの、登校し無くなったので、家で楽しそうに遊んでいたりすると、親は「これで本当に良いのか?」と悩む。私にもストレートにぶつけられて、私自身もこれしかないとは分かっているが、確信が持ちきれないで居た部分があった。
今回新学期にいろいろなパターンで昨年登校していなかった数ケースが登校し始める経過を見て、私なりの見通しが出来たので書いておこう。
「登校するか否かを本人に選ばせる形にしておくと、本人が自分で判断して行く様になる」と考えてOKだと私は思う。
小学校低学年でも私は本人に発達障害の説明をするが、周囲の人や家族を「あの人はAS、ADHD」等と本人が言い当てられるくらいまで理解が進むと、不思議と自分で選んで登校を始める。
先に引用した思春期のはじめのケースもそうだが、発達障害は自分で納得することが非常に大事なので、早くに本人に説明して、本人なりに発達障害を理解すると、その結果として「本人の納得した決断として」登校につながるということが起こっているのだろう。
受動型ASの場合はちょっと特殊だが、それなりに周囲の環境(友達など)との相互作用の成り行きで登校するパターンになることも多い。
親が「じっくり待つ」ことが出来るかどうかの問題だ。
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