ジャイアンの「責任」の観念は非常に厳しい。いかだで川を下っていて川下に滝があるのを誰も教えてくれなくても、落ちたのは自業自得で、逆にもしも「教えてもらう」と中心志向からの自己突っ込みがあるので「困る」面があるくらいだ。
同じ思考を他の人にも適応するので、他の人がひどい目にあっても、「自業自得」「人に助けてもらおうなんて思うな」と非常に冷たく考えることが多い。
弱みを見せて相談するなど、後から来る中心志向の自己突っ込みを想像すると恐ろしくてとてもできない。愚痴もはけない。
だからジャイアンに対して「親切にする」ことはどのようなことでも非常に微妙な意味になる。「偉そうに上からアドバイスなんぞしよって」「あんたは何様のつもりだ」という気持ちが片方では必ず生じるのだ。
ジャイアンの「不親切」にはこういう自分の中の事情があるのだ。世間では「助けるべき」場面でもジャイアンは「自業自得だろう」と助けることはせず、少なくとも私は「人に聞かなくても川を下るのなら滝があるかどうかくらい自分で調べるのが当たり前だろう」と人にも自分にも考える。
ジャイアンが責任逃れに汲々とするのは、ジャイアンの責任のコンセプトが非常に厳しい(問答無用の自業自得)ことを想定すると少し理解しやすいかもしれない。
ジャイアンの中心志向は絶対的な孤独を帰結するのだ。
受動型ASが相手からのアクション無しに動けないことの意味を最近考えている。私の印象では、「最初に依存できることを確認してからしか動けない」ように見える。
依存できることを確認すると、途端に完璧に「依存させる」ことを相手に要求する。というよりも、最初から「依存させるのが当たり前なんだからお前から動け」ということになる。
「受動型」というのはむしろ結果としての行動の特徴で、その前に対人関係の依存があり、それ以外に出来ないというのが受動型ASの根本的なあり方かもしれない。
その「依存」は、AS的な「最初から結果の完全な保証を求めないではいられない不安」から出てくるのだろう。この不安は積極奇異型にもあるが、積極奇異型よりもはるかに支配的、(愛着の対象への)要求が高いという特徴が、逆説的だが受動型ASの一番根本的な部分であるように思える。
誕生前の胎児の段階の母と自分の関係をそのままその後のすべての場合に求め続けているかのようだ。
ここでも時々目にする明らかに「誇大的」に見えるような部分が受動型ASの本性であり、それを出せる、要求出来る相手かどうかを確認するまでは本性を出さず、確認すると豹変して極端に依存的で当たり前の様に自分を依存させることを要求する「あつかましい」態度に出る。
「あなたが最初にこうしたから」「あなたが私を必要と言ったから」というのがすべての依存と過大な奉仕の要求の根拠になるのだ。
親は親であるから依存できるのが当たり前とも言える。外では大人しいのに家庭内暴力の形になるのはこういうケースだ。パートナーもパートナーであるから依存できるとなると要求と追求と自分が病気になることを繰り返すことになる。子供でさえ、当たり前に「この子しかいないから」という意味で依存対象になることも実際ある。
この意味では(表面的な社会適応とは裏腹に)脳のレベルでは一番重症な自閉症的特徴を持つという風にも思える。
根本的な解決は、薬物療法でも発達障害支援でも何でも使って、まず「一人で保証の無い世の中を生きて行く」という決意をすることだろう。
この意味では、依存がたまたま「楽だから都合が良いからするけれども実は本当は納得出来てはいないから身体症状などが出て、根本的には自立したほうが健康になる」というジャイアンとは根本的な立ち位置が違うということになる。
ジャイアンのお姫様症候群の本質の一部は「依存」である。
前のスレッドへのコメントの中に「受動型ASと親子関係のような安定的な恋愛をしながら、積極奇異型ASと刺激的な恋愛をする」という記述があったが、実際は私の印象では「受動型ASでどんなことになっても独りぼっちになって不安になることが無いように保険を掛けておいて、積極奇異型ASへの好奇心と一時的な服従させたい衝動でハンティング(服従させたら興味が無くなりかえってうざくなる)のようなことを続ける」ということではないだろうか?
恋愛であれば、不倫であろうと何であろうと私は本人の自己責任で「治療」の対象であるとは考えない。お姫様症候群が「治療」の対象となるのは、アルコールや薬物、摂食障害(食べ吐き行動)と同じような「依存症」(addiction)であるからだ。
その証拠と言えるかどうかは分からないが、ジャイアンはお姫様をしながらでも摂食障害が治らなかったり、「満足」ということが無く、不安に駆られ続けている。その本質は、「本来ならば自立自尊で生きるべきジャイアンの脳の働きを裏切って依存を続けることへの潜在的な自己突っ込み」である。
本当の解決は「依存をやめて自分の足で立つこと」だ。
だからお付き合いしているAS諸氏には、「ジャイアンを依存させることは本人のためにならない有害な共依存にしかならない」と考えていただいたほうが良いように私は思う。
ジャイアンの若い女性は、しばしば「お姫様症候群」と呼ばれうるような見掛けとなる。
依存型のジャイアンが「中心志向」の矛先を男性への依存や見かけの綺麗さで注目され続けることに求めた場合にこの形になる。摂食障害を伴うことも多い。
例えばAS男性を何名も振り回して服従させたり、どの場面でも特別扱いを求めて、相手に当たり前のように依存できることを求めるところが「お姫様的」だ。
ジャイアンのもともと持っている「自分に有利なことを見抜く直観」を武器に、異性に好かれる、可愛がられることだけを追求して、見掛けの綺麗さや異性を刺激する行動で男性を見事にコントロールする。
特に受動型ASの人などがお姫様に対する奴隷のように尽くしている様をよく見かける。
当たり前であるが、若いときはいいが、見掛けだけで勝負するのは年齢を重ねると厳しくなる。
治療は他のジャイアンと同じで、本人が勉強して技術を身につけるとか努力して評価されるというまともなスタイルをお姫様像の代わりに再インストールできるように環境調整を粘り強く行うということになる。
「人格障害」に似てもいるが、「あんまり公然とお姫様扱いを要求するので、かえって自己中であることがばれてしまうことが分からない意味でKY」というところがジャイアン的であり、憎めないところでもある。
前二つのスレッドは、結果としてADHDの自己突っ込みへの理解が深まればと思って書いたものだ。コメントの中で「愚痴」というキーワードを頂いたので、もう一歩突っ込んで書いておこう。
ADHDの多くの人は、自分が「ある人への不満を、その人には直接伝えないで居て、なおかつ別の人の前で口に出した」ということをしたら、必ず「自分はなんて卑怯な奴なんだ」という自己突っ込みをする。ジャイアン、少なくとも私はこうなる。
最初の相手に言えなかったことにどのような理由があろうと、この自己突っ込みは変わらない。「陰で言っている」ことに違いは無いからだ。そこまでADHDの自己突っ込みは厳密で徹底的であるということを理解する必要がある。
ADHDは自分の目の前でASの人が他の人の不満を言っている時、ほとんど必ず、「この人は自分のことも知らない他の人の前で同じように悪く言っているのだろうな」と思いながら聞いている。
ADHDは基本的に誰に対しても平等であり、人を差別しないので、相手が自分に対してすることは、当然他の人に対しても同じようにするに違いないという前提で受け取るのだ。
ASの人は毎回そう思われていると知ったらどう感じるだろうか?
逆に言えば、ADHDは当の相手に直接言えなかったことを、他の人に言おうとは思わない。言うメリットが無い。言うと自分は陰口を聞いている、卑怯なまねをしているという自己突っ込みが生じるからだ。
例えば自分が相手の居ない場所で口にした不満をこっそり全て録音されていて、密かに録音した人が不満の主に聞かせて、完全に「バレた」とする。その場合でもADHDは自己突っ込みのレベルではバラした人を責めることはできない。「自分が言ったことだから仕方が無い」のだ。
(もちろんジャイアンは表面上は責任逃れのためにバラした相手を必ず攻撃するのではあるが)
こういう意味で、ADHDは愚痴を言えない。合理的なADHDは「愚痴を言う意味が無い」し、ジャイアンは「愚痴を言っている自分が情けない」という自己突っ込みが生じて言えない。
逆に言えば人に愚痴を聞いてもらっても何も良いことが無い。だから自分に愚痴を言って聞かせる人の気持ちが理解できない。
ほとんど全ての場合、聞く立場に立つ限りADHDにとっては愚痴と陰口は同じものなのだ。
(前の「ASのオモテとウラ」のスレッドはこの話と一対となっていて、こちらを書かないと意味が分からないので、一組で読んでください)。
ジャイアンの自己突っ込みは(特に中心志向からくる自己突っ込みは)、非常に冷酷で情け容赦が無い。崖から突き落として、「こいつが悪いから自業自得だ」と言ってのけるような異常な厳しさがある。
だからどんなに厳しい指摘をされても、(依存型ジャイアンを除き)ジャイアンは指摘をされたことで落ち込むことは無い。なぜなら自分でいやと言うほど自分に突っ込んでいることだから。
ただしそれで新しく落ち込むことは無いのだが、「自分でいやと言うほど突っ込んでいることを何であんたに言われなければならないか!」と逆切れして攻撃はする。黙らせようという激しい反応は必発で起こる。
逆切れはするのだが、そのことと、「慰めて欲しい」「フォローして欲しい」ことは根本的に異なることが理解されにくいだろうが非常に大事なポイントである。
ジャイアンは慰められると逆に落ち込む。同情はいらない。人に助けは求めない。
なぜなら、ジャイアンの自己突っ込みに他者のフォローは全く無効だからだ。他者がなんと言おうが一番厳しい自己突っ込みは一生続くのだ。
ジャイアンは人に助けられることが出来ない。その意味で根本的な孤独の中で生きている。慰められると、自分では突っ込んでいるのに慰められていることが逆に許せなくなって、「馬鹿にするな」と逆切れするか、「上っ面だけで良い顔をする嘘つきやろう」と攻撃するか、ボーダーのように「本性を出させてやる」と現実的に追い込む試し行動に出るか、うつ状態や身体症状が悪化するか、いずれかの状態となる。
ジャイアンには同情はやめよう。他の世間やASの場合に言うようなフォローや気休めは年中自分を痛めつけ続けているジャイアンには辛すぎる。
(もちろん自分で考えることを停止している依存型ジャイアンは別だ。また、慰めるのではない「表面的におだてる」「表面的にほめる」ことは全く別の意味で元気付けることにはなるのだが)。
ASの人は基本的に発する言葉も受け取る言葉も「深読み」が必要だ。また、中心志向のある人も「縁の下の力持ち」「ナンバー2」という発言が多いのは何故だろうと考えた。
私にはASの人は特有のオモテとウラを使い分けているように見える。例えば道理では絶対に自分が悪いところでも、情緒的には救い(フォロー)を求めたりするのが当たり前になっている。
道理、理屈を主張する場面でも、よく見ると理屈と情緒的な訴えの両方がメッセージになっており、理屈は表面上のポーズで実は情緒的な部分が伝えたい本質的な内容だったりする。
ASの人は周囲の世界を「理解を求める一部の人」と、「その他の環境」に綺麗に分けるので、そのそれぞれに対する態度がウラとオモテになるのだろう。
例えば徹底的に合理的なADHDの親が、問答無用で合理的な基準だけで切り捨てる態度を取り続け、誰も情緒的にフォローする人が居なかったら、ASの子供はひねくれるだろう。「そこまで言わなくても」という感じで、厳しいではあるが、一部情緒的なフォローがあることがASの人には必要なように見える。
ジャイアンは表面、オモテがすべてなので、言葉で責めながら非言語的な態度でフォローしたら「どっちだ!」と追求することになる。責めるなら問答無用で徹底的に責めて貰ったほうがいい。なぜなら自分の中の自己突っ込みは当たり前にそこまで厳しいからだ。
当たり前に使っているので自覚はかえって難しいのかもしれないが、ASの人はオモテとウラの二つのチャンネルを使い分けている。対象とする世界がもともと二つに分かれていること自体が、ASで無い人から見ると理解が難しいのだ。
だから中心志向の場合でも、志向するのは「オモテの中心でなくウラの中心だ」というのが「縁の下の力持ち」の意味ではないだろうか?
「不満がある当の相手の前では何も言わないでおいて、話を聞いてくれる別の人に相手が居ないところで不満をぶちまける」という行動がAS本人には何の不思議も無いのだろうことが不思議に見える。
ジャイアンの子供は「親から(表面的に)一番大事にされる」「親から一番ほめられる」時には「親よりも優位に立つ」立場を求める。そのために使えるものは何でも使うように成長する。
もともとジャイアンには「自分の有利不利に関係することだけ状況が分かる」という能力がある。だから、(屁)理屈を言って言葉で負けないことと同時に、情緒的なやり取りの中で相手の弱みをついたりして優位に立つということもできる。
この二つの能力が、生育する環境によってどう成長していくかが分かれると私は想像している。
親がASで、しかも子供本人に愛着を持っている場合には、この親は言葉でどんなに厳しいことを言っても、愛着の部分は子供に逆らえない。
ジャイアンの子供は親からのこの両方の相反するメッセージを受け取り、不安になる。「どっちだ?」という不安の表れが、試し行動であり、あえて親を振り回すような行動を取って、その反応を見なければ本心が分からなくなる。
こうして親の愛着の部分を突いて非言語的に親をコントロールする技術だけを発達させていくとボーダー的に成長する。
親がジャイアンの場合も同じようなことが起こる。親ジャイアンの中には何人もいるので、その中の不安が強く責任を回避したくて依存したいと思っている弱みを子供ジャイアンは目ざとく発見し、そこを突いてコントロールして優位に立つ方法を親ジャイアンとのバトルの中で発達させていく。
単に合理的なADHDが親であるのがベストであるのはこういう事情だ。親の態度に子供ジャイアンから見てつけ入る隙が無いということが意味がある。子供ジャイアンは合理的に認められるしかないのだ。
子供が積極奇異型ASの場合には、ASは親も子供も「言葉と非言語的なやりとりのチャンネルが二つあって二つを別々に使える」というような面があるので、「どっちだ?」という形にならない。だから(受動型を除き)子供がASの場合には同じようなプロセスにはならないのが不思議ではある。(ちなみに受動型ASはもともと最初からボーダーに似ている)。
ジャイアンの中心志向と積極奇異型ASの中心志向が同じものであるかどうかについて最近考えている。「優位に立ちたい」「仕切りたい」「自分が決めたい」「一番でありたい」「勝ちたい」など、共通するところは多い。
特に、ジャイアンの場合は、「何で自分はこんなパッとしない普通の状態にとどまっているんだ」という自己突っ込みがあるところが特徴だ。上に立っているのが当たり前で、それが無いだけで自己突っ込みしなければならなくなる。
上記と同じようなことが積極奇異型ASにもありそうなので、AS諸氏にコメントをお願いしたいと思う。
例えば表面上の特徴で、積極奇異型ASは「嫉妬はあるが妬みがない」のに対し、ジャイアンは「他の人が誉められることに妬みを感じる」ことなどが、この中心思考の本質的な違いであるかどうか?
また、積極奇異型ASの「特定の人に対する愛着」は中心志向と別物なのかどうか?
積極奇異型ASの場合の、「自分の理解できる原則で世界全体を説明し尽くしたい」という志向と、ジャイアンの「何でもコントロールしたい」というのは同じなのか否か?
例えば私のイメージとしては、「中心志向プラス人の近さ、愛着および関連付け思考、自閉的なこだわり」等で積極奇異型ASを説明し、対して「中心志向プラス断片的場当たり的思考、人にこだわらない、強迫的なこだわり」等でジャイアンの行動を説明できるとすれば、発達障害の諸特徴を大きく分類できる可能性がある。
最終的には「ADHD」でくくる意味がどこにあるのかと言うことにも関係してくる。合併診断をどのように考えるか、これらの諸特徴を細かく突っ込んで検討して行ったら明確になるように思うので、コメントをお願いします。
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