前回のスレに面白いコメントをいただいたので、考えてみた。
結論から言えば、「ADHDには多数派と同じ意味での感謝はない」。
これは我々ADHDが逆に「感謝」を求めないことからも分かる。ADHDはだれかに何か役に立つことをするとき、「感謝」を想定することは(少なくとも私は)ない。役に立てば役に立ったことに意味があるのであって、誰がしたかの問題ではない。
逆に役に立たなかったのならば「迷惑だった」と言って貰うことを望む。迷惑だったと思いながら、表面上「感謝」することはADHDにとっては著しい不誠実であり、「相手をだます欺瞞」、「自分が上に立って相手を馬鹿にする侮辱」という意味に近い。
これは「文化の違い」と考えるべきであると私は思う。多数派の世界の「感謝」はあくまでも多数派の同じ文化の範囲内だけで成り立つ一種の約束事であって、多数だからといって人類普遍の原則と言って全ての少数派に押し付けて良い訳ではない。
「ありがたければ、してもらってうれしければ素直に喜ぶ」。それ以上に何かが必要だろうか?
ありがたさも感じず、うれしくもない場合に「礼儀だから」と表面上「感謝」することが必要だろうか?
相手が本当に役に立ったことを感じているのかどうかにお構いなく、自分が何かをしてやったからといって「感謝」を要求することは当たり前だろうか?
この答えは文化によって異なる。どの文化が正しいのでもない。大事なことは違う文化を尊重し理解しようとする姿勢であると私は思う。
私はADHDとして、多数派の文化を理解する努力をしてきた。多数派の文化の中では「感謝」が特殊な重要な働きをしていることは理解している。
しかしADHDの仲間には感謝について「理解」は薦めるが実践は勧めない。なぜならばADHDはそういう行動をすると自分自身を「不誠実」として責めなければならない結果になるからだ。
多数派の皆さんには、発達障害にとっての上記のような意味をよく理解して頂きたい。多数派の皆さん自身、上記の表面的な「感謝」はしない反面、徹底的に素直な発達障害の態度に情緒的に救われる思いをすることもあるはずだ。これは発達障害の良いところでもあることについて理解をお願いしたい。
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